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(自立的な)心は、本当に存在しますか?

多くの人は、自分の中に自立的な自分の心が存在していると思ってるのではないだろうか? しかしながら、深く考えるとそれは疑わしいと考えざるえない。 例えば、ここに一枚の白いキャンパスがあり、絵を描きます。 ABが、大きな構図を決めます。川のポジションを決めたり山の形を決めたり全体の配色を決めたりします。 CDEが、川の回りの植物を決めたり、山の色の微妙な色の変化を決めます。 F-Yまでが、手を加えて、絵を完成に近づけます。 途中や、最後に、Zが、全体の配色、形状に手を加えたり、好きな花を絵の中に入れたりして、絵を完成に近づけます。 さて、この絵の作者は誰なのでしょうか? 作者は分からないと思います。 心とは、この絵画に似ていると思います。 心を作る時、ABは両親、CDEが、兄弟、それから、F以後が親戚、学校の友人、先生、教育、書籍、体験したこと・・・etcとします。そして、Zが、自分とします。 つまり、自分の心とは、自由に自分の心が出来上がるのではなく、環境によって出来上がる物とも言えます。 こころは、自分の物ではなく、環境が作り出した入力に反応して出力するブラックボックスと言えるでしょう。 別の言い方をすれば、心は複雑なプログラムと見なすことが出来ると思います。 自分が自立的に存在していると思っている心は、複雑なプログラムで、入力に応じて反応(アウトプットしている)だけかも知れません。 それを、心が存在して、反応していると思っている(のもプログラムの計算結果)かも知れません。 プログラではない自立した心は本当に存在しているのでしょうか? それは、証明可能なのでしょうか? 自由な意見お待ちしています。

みんなの回答

回答No.10

 こんにちは。  ★ プログラムではない自立した心は本当に存在しているのでしょうか?  ☆ 存在していると想定して わたしたちはそれぞれ生きています。  ただし《自立した》かどうかは 想定していません。  もひとつただし 《ほかの誰でもない〈わたし〉》であることは想定しています。  ★ それは、証明可能なのでしょうか?  ☆ 《想定すること》について証明可能です。  (1) たとえば 言葉による表現という問題つまりその問題における実際の《人びとの生きる情況》 これがその想定を物語っています。   《わたし》という言葉を あなたご自身よりほかの誰かが あなたご自身のこととして言ったとしてみてください。たとえばめしを《おまえの代わりに食べてやろう》と言われたら どうですか? おまえのかのじょと おまえの代わりにデートしてやろうということになったら どうでしょう?  (2) あるいはわれわれ人間は よくよく考えるに 《ひとり》で生きているのです。孤独です。どうしようもなく孤独です。明くる朝になるとただお日さんが昇ったから その孤独を忘れて ともかく起きます。来る日も来る日も同じです。  ただ さらにようくようく考えるに この孤独は どうしようもなく《孤独の関係》として成り立っている。ことに気づく。どうしようもなくです。或る意味で われはひとりではないのだと。ひとりとして生きるほかない人どうしの世界にあるのだと。  このとき わが心は 身内や友だちあるいはさらにほかの人びととともに生きるという思いを持ち始めます。そしてなお ひとりです。つまり 心は このわたしの心として存在しています。〔というふうに日本語では・そしてほかのじんるいの言葉でも〕表わします。そのように言語表現というコトとして想定されています。  (3) おっしゃっている絵は 共作もしくは合作ですから 一人ひとりが 作者です。  犯罪行為の共作は 必ずしも作者をまとめて特定するかたちの合作とは言わないはずです。それは共同正犯とか何とか言います。つまり 一人ひとりが きちんと別の行為者であるかたちで 《作者》である。という取り決めになっています。  これは ひとが孤独関係にあっても孤独でありそれぞれ《わたし》という《ひとり》として生きているという前提と同じ想定です。  このことは 言いかえると 《意志》の問題であり これを人の《自由意志》と言うことになっています。《おまえの代わりにめしを食ってやる》と言ってもそれは現実にはならないのと同じように 《おまえの自由意志に成り代わって 犯罪をあるいはよいことをしてやる》というような発言について しかしながらその意味内容が現実になることはありません。そこでは 大前提として《一人ひとりの意志における自由な判断および選択行為》が 自由という公理として 想定されています。  公理とは 根拠がないけれども そのようにじんるいの意志ないし判断ないし良心ないし思いとして妥当であると取り決められているという意味です。  むろん このご質問のように この公理を批判する・もしくは確かめる意志表明も 自由なわけです。  わが心は 単なるブラックボックスであるかも知れません。知れませんが その入力と出力にあたって そこにわづかに何がしかのマ(間・間合い)が出来ているはずです。マアイをみづからの意志で取っているはずです。これが わづかに見られるわが心です。  社会的に有力な思想(つまりふるい常識と言おうとしているのですが)によって・つまりは社会の力学のあり方によって このわたしのわづかなマアイや間取りがいともかんたんにかき消されたとしても それはそこに わたしの心が存在すると言い張り続けることになります。  言い張り続けなければならないさだめにあると見るのがふつうではないですか? 生活や生きることが自由でなくなっているのならば。わたしがわたしでなくなっているのならば。  ですから 《わがこころの存在》は想定ですから 一方でその想定に立てば《わたしはわたしである》という命題を持ちおのれにかかげて生きる人もいれば 他方でその想定じたいがマの違いから来ていると言い《わたしはわたしではありえない。あるいは わたしという存在などはあって無きが如し》というふうな命題を持ち出してくる人もいるでしょう。  後者の議論がけっこう実際に有力になって来ています。(わたしに言わせれば ポストモダンとか言って芸術全般にわたってそのような死の風が吹いているようです)。何の確信もなくです。この場合の確信というのは ほかの人に説得できるかということにかかっているそれです。上の(1)から(3)の内容をくつがえす説明をお願いしておきます。

  • owls_jp
  • ベストアンサー率0% (0/6)
回答No.9

 どうしようかな。  相手の年齢も顔も知らずに回答して良いものか。

noname#136007
質問者

お礼

  回答お願いします。 哲学に年齢は関係ないと思います。

noname#131234
noname#131234
回答No.8

回答 存在は、「表現の問題である」というのがこの問題の核心部分です。 証明 自立でも 自律でも 捉え方がいろいろありますよね。この解釈については またいつか話したいと思いますが、まず、存在ということだけについて回答したいと思います。 本論 興味深いことは質問者様が、既に (無意識的にであるのかもしれませんが)、 質問文の用法をつうじて自答しているという事実です。 以下検討を試みます。 >例えば、ここに一枚の白いキャンパスがあり、絵を描きます。 こころも「たとえ」のひとつです。心とは臓器の「心の臓」ではなく、何ものかの中心をなす「もの」です。 次に場所=「ここ」が大事です。 限定的な数字も大事です。私の心は、病気ではないとすれば、ひとつです。 さて、文章中の「ここ」からが問題です。 ここは、常に何らかの存在を前提として述べられます。 「ある」が副詞的表現である「ここ」を受けることからもこの事実は、はっきりしています。 しかしはっきりしていないのは、「白いもの」がキャンパスであるかどうかという事です。 色としての「しろ」は、理論的に存在しません。なぜなら、白とは明度の反射であり、自然状態では、最大の明度は太陽系において太陽の放つ光の明るさを超えるものではありません。また、どれほどの資金をかけても、「最大のこれ以上ない明るい白」を生成させる「こと」も、その「絶対白色」をエネルギー損失を伴わない状態でそのまま反射できる表面を製作する「こと」も、そのどちらの行為についても「出来ないこと」なのです。 テーマに立ち返りますと 「存在するかしないか」の手懸りとしてはまず、質問者様の文章中「白いキャンパス」までの位置で既に体系的パフォーマンスとしては、未分化の形で「与えられている」といえます。 次に「存在の確かさ」の判定に進みましょう。 白いものがキャンパスであるかどうかという不明確さを計算に入れましょう。 でも「白いもの」は、「仮定的文章の中」で想定することが出来る。「しろ」は、仮定文の「なか」に存在するというのが、まず一点。 ですから、まず、「なにものかの『なか』」が、(すなわち「ある場所性」が) この想定の大前提となります。 存在の確かさを規定するのは、「キャンパス」というプラットフォームと 「絵を描く」という行為の間の 関係です。 そのとき一番大事な役目を果たすのは、絵を書く人と、書き上げられた絵を感じ取る人です。時間は関係ありません。感じる人と書く人が同じ人でもよいでしょうし、同じ感情を抱く人どうしが「一」体であると説明するのもよいでしょう。二人の人間が同時に絵を描き出しているノかも知れません。意見は分かれます。 さて、絵が描き終わりました。白いキャンパスは存在するのでしょうか。 つまり 回答としては、描きあがっていない心としての「想定」は、絵が出来上がる過程においては存在しますが、出来上がってしまうと・・つまり、ある種の規定が組みあがってしまうと・・・心という形では存在しないということになります。 なぜなら、心に形があってはならないからです。 結論 自立した「こころ」は、存在しないが、規定されない形での水分としての「こころ」は、存在するというのが回答です。 人間の細胞の中に存在する水分について考えてみると、人間はほとんど水であり、細胞内の炭水化物・たんぱく質と合わせると「水そのもの」といっても過言ではないということも出来るでしょう。 でも人間は「自分は水である」とは言わない。 心は水のようなものです。生きた人間がいてはじめて意味を持つ言葉です。捜索の細胞である芸術の背景には、常に心が想定されますが、完成された「こころ」は、存在するはずもありません。「ヒューマノイド水体」が、存在し得ないのと同じです。人間というか、水と考えるかのどちらかです。

回答No.7

1 「心は複雑なプログラムと見なすことが出来る」とは思いません。 「プログラム」は意図をもって作成したものをいうものとします。個人あるいは集団、社会が意図をもってプログラムを作成したという事実を発見することも、これがプログラムだというものを提示することはできません。 2 「雲は大気と水蒸気と気圧と温度の条件が揃って形成される」としても、「雲は複雑なプログラムと見なすことが出来る」「雲の生成発達消滅は複雑なプログラムの(計算)結果(アウトプット)と見なすことが出来る」などとは言いません。 3 「自立」を「日本語語感の辞典」で引くと「他の支配や援助を受けずに経済的にも精神的にも独立する意で、会話にも文章にも使われる漢語」となっています。 「自律」を引くと「自ら律する意で、主として文章に使われる硬い漢語」となっています。 数学などで「独立変数、従属変数」という用語があります。心理学では、「生体をシステムと見なし、独立変数として刺激を与え、従属変数として反応をみる」そうです。  日常用語の[気が狂っている]ときに、状況に関わりなく突然場に合わない行動や発声をすることがあります。 通常状態では、場に合わない行動や発声を突然することはありません。突然怒ったり喜び出したりすることもありません。通常状態では、何かの状況をキャッチして痛みや悲しみ暖かみ喜びを感じます。何かを考える場合も、問題を突きつけられるか、自分が何かを問題だと思ってから考えます。 すなわち、多くの場合、感覚や思考、行動は従属的なことで起きます。 「自分が何かを問題だと思う」場合はどうか。多くの場合、「何かを以前に考えていて、その思考がパラレルに潜在的に無意識下で進行していて、それがあるとき顕在化した」と考えられます。 しかし、同じような状況や刺激にあってもほとんど十人十色の思考や感情反応になります。全く同じということはほとんどありません。それまでのその人の人生が作ってきたものが強く影響します。しかも、同じ人でもいつも同じとは限りません。複雑すぎます。後になって説明や解釈は可能ですが、それは後でつけた理由や解釈です。事前に100%確実な反応予測はできません。要するに環境や条件だけで反応を確定できません。 完全な自律(外部環境や自分の意図などに関係のない反応) どこに境界線を引くかの問題に関わりますが、通常用語で言われる精神障害を起こした状況では外部刺激がなくても自発感覚が生じます。あるいは妄念、妄想、幻覚、幻聴が生じます。場合によっては痙攣などの非意識的行動もします。起きていたいと思っても昏睡することもあります。 どこが精神障害かということにもよりますが、普通の人でも夢の中では全くわけのわからない夢を見ます。時々は起きているときに状況に無関係な想念が脳裏をよぎることもあります。感情障害・気分障害でなくても、(普通の人でも)状況と結びつけて解釈するのが難しい状態でも、哀しい、興奮、うれしい、さわやか、どうもすっきりしないなどの漠然とした心の状態も、起きます。いわば、外部刺激や環境とは独立に気分の状態は変わりうる、自律的な心の変化もあるという気はします。   心がどういう状態にあるのかを外部から測り客観的に表記する方法があるとも思えません。ほとんど本人しかわかりません。「ある人が、今心を持っているか/持っていないか、今の心の状態はどんなものか」を他人は言えないのです。 心の状態を外部から客観的に測り表記できないとするなら、「心に関して証明可能な説明をすること」は無理です。  証明可能な説明ができるのは、その人がどういう行動をしたか、どういう表情をしたか、本人がなんと表現しているか、脳波や体温測定、FMRIで測定したらどうだったのかということに関してだけです。

回答No.6

 宇宙とは心=精神。  宇宙(精神)の存在、それは意志というエネルギー(力)。  そして、あるいはだから、意志は現象となる。  現象は、時間と空間と物質。    宇宙を精神と捉えれば、物質も精神。  言い換えれば、物質は精神の現れ。  と、ここまで考えたら、  精神の“状態”が物質を形作る。  となれば、物質を形作る精神は、すでに固有のものがある。  この固有なる精神がkunobouさんの云うところの自立した心?       

回答No.5

1.全ては永続的な因果関係の中間に発生するものであり、   他の影響を受けることを「自律的でない」というならば、   自律的なものなどない。 2.しかし通常は、そうした因果関係を理解した上で、   自己の意志を展開することを「自律的」であると言い、   必ずしも影響を排除することを意味しない。 3.そこに現れるのは、「プログラム自身にプログラムを   扱えるか(理解できるか)どうか」という問題であるが、   それはゲーデルの不完全性定理において、公理系の   無矛盾性の証明において使われた方法であり、実は   そうした超公理的な言明(プログラムを包括する要素の   プログラム内部への射影)に“よってのみ”、公理系は   無矛盾であり得る、という結論が得られている。 4.言い換えれば、先の「因果律」を可能にする有限な   存在性(=無矛盾)は、公理系(=認識)の不完全性に   拠って可能になっており、「自律的でない」と言う場合の   「他律的な要因(外的要因)」は、『自律的でない』ことに   より可能になっており、因果関係は循環している(補完的)。 5.こうした論理学的過程の現実への射影として、、量子論的   世界像において、有限な存在性(=宇宙)は認識されること   によって派生しおり、換言すれば、「自我仮説(認識)と時空   仮説(存在)が、(不確定性原理の相補的不確定性を介して)   相補分化している=全てのものは、あなたが存在するための   (物理的根源にまで遡った)補完である」という事なのです。 6.あなたの意味するような自律性(=たとえば全知全能/完全な   公理系)において存在性は成り立たない(無限不確定発散)以上、   自律性とは、自己の不完全さを自覚して、継続的に修正する   ところにのみ存する、と言える。

  • kigurumi
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回答No.4

うわぁ 変換ミスです ><; 誤:自律は独立していること 正: 自立 自立して生計を立てている→自分で稼いで生活していること 自律した生き方をしている→悪いことをしたいという誘惑に負けず悪いことはしない、正しいことだと思えたら行動に移すとい生き方。 今回の質問は、人の個性(アイデンティティー)は、個人だけで形成されるのか、回りの人の価値観の影響を強く受け、他人の価値観なのに自分の価値観だと誤って思ってしまっているのではないか ってことですよね? 周りと自分の素質が相互に作用しあって、自分は作られていくと思います。 それは<ここで個性は決まった>という地点は無く、発展し続けるものだと思います。 したがってアイデンティティー探しは正しくなく、アイデンティティーを発展させるが正しいのではないかと。

  • kigurumi
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回答No.3

まず、自立と自律は違って、自律は独立していること。 自律は善い悪いを分別できていること。 と、私は認識しているんですね。 で、人間の人格(性格)に関して、昔から議論されており、 1.生まれ持ったときに人は性格が決まっている。 2. 環境により形成されていく。 3. 生まれ持った性格と、環境が相互に作用しあって作られていく。 4, なんだっけ?  とにかく4つくらい説があったと思うんですね。 で、その4つ目が覚えていないのでなんなんですが、3が近いのではないかと思うんです。 クリミナル・マインドってアメドラがあって、何人もの少女を誘拐し、リンチして強姦して殺した男が、死刑になる前に、FBIに会いたいといってきたので、FBIの人が参考になることがあるかもしれないと、死刑囚に会いにいくんですね。 「俺に捕まったものは、出口が無いのだ」とか言って、したたかな態度で反省の色も全く無く、命乞いもしない。 「死など怖くない 誰も俺を屈服させることはできない」みたいは態度。 参考になりそうな意見を聞けそうになかったので、帰ろうとて、看守をベルを押して呼んだのですが、死刑囚は「今看守が勤務交代の時間なので、数分間は呼んでも来ない」って言ったわけです。 FBI捜査官二人を殺したら、新たな殺人事件が起こったので、死刑は延期になり、俺は他人をどうにでも殺せるが、他人は自分を決して殺せない って感じ? それが目的で呼んだのかとわかったので、「そう簡単にやれるかな」とホッチ(FBI)の一人が背広を脱ぎ、戦闘準備に入るわけですが、ひーーーと壁の陰に身を隠したい衝動にかられていたもう一人の捜査官ドクター・スペンサー・リードは、彼の最大の武器である自分の知識を使ったんです。 この殺人犯のことは両親のことから、生まれた後のことまで調べ上げていたんですね。 「君は生まれながらに死刑になる運命だったんだよ」みたいなことを言った。 生まれながらの性格が殺人鬼の性格?  ううん 違う。 両親は麻薬中毒者で、体内にいるときから脳はダメージを受けていた。 両親が麻薬中毒になってしまったのは、性格から。 その両親の個性を半分づつもらい、胎児の時は薬物によりダメージを受けていたわけです。 さらに麻薬がやめられない個性の親の元に生まれたので、ヒステリックな親に殴られて育ったわけです。 生まれ持ったもの+体内にいるときに環境+生まれた後の環境+その両親がいる周りの環境の中で育ったわけです。 ドクター・リードは統計(確率)の数字を挙げていって、「出口が無かったのは君だったのさ」と死刑囚につげた。 「何故自分がこうも殺人を好むのかわからない」とニヤニヤしながら言ってた死刑囚に、本人がわからなかった理由を説明してあげたわけです。 嫁さんをもらった人が「嫁さんの味噌汁はまずい、母親の味噌汁がおいしい」と言うってことありますよね。 おかあさんの味噌の味に舌が慣しんだってのもあるが、そもそもお母さんはその味が好みの個性で、その個性を半分受け継いだ息子は、確率的におかあさんの好みの味を好むようになる率が、他の家庭の人より高くなるわけです。 おかあさんが好まない食べ物は、食卓に出ませんので、その味に関しては身体の認識機能が発達しないわけです。 1.親から受け継いだ特長 2、お母さんの好むもの意外の刺激が与えれるチャンスが少なく、そのほかの味に認識器官が発達しなかった。 この2つに学校給食というものが加わることで、だいたいのその人の味の認識範囲・好みが決定されると思える。 もちろんその他の影響も加わりますが。 で、恋をすると相手が好むものが好きになることがある。 例えば好きな相手がゴルフが好きだとわかると、今まで存在していたのに存在していないかのように思っていたゴルフの宣伝チラシを新聞で見つけることになる。 今まで気づかなかったがこんなに入っていたのか、新聞のあちこちにゴルフに関する記事がある など気づく。 するとゴルフをやりたくなり、一式買って仲間と一緒にゴルフをし、「俺の趣味はゴルフさ」となり、回りから変わったと驚かれる。 そして好きな相手が他人と結婚したことがわかった後は、「ゴルフ? 俺もともと好きじゃない。どうしてあんなに楽しいと思ったのかわからない」 となるわけです。 素質+環境+影響 などから、その人の価値観は形成されていく。 それは他人の個性ではなく、その人の個性(アイデンティティー)となる。

  • kanto929
  • ベストアンサー率0% (0/1)
回答No.2

自立したこころは、存在しない。あなたが言われるように、思考や知識などは、外界から与えられたもので、自分独自では、つくる事はできない。それができれば、一般に言われる創造主になるからです。 人は、外からの刺激や情報からしか創造はできないと言うことです。

回答No.1

あるでしょうね。誰にでも。そこは勇気とか男気とか言われますね。 そういうのが悔しくて、過去にいろんな行動起こしましたが(よく死んで無かったなぁと思う) 他人にはできないと思われる事をやってのける事、犯罪者も一部見方は変わるものの自立の心では? ああいう発揮の手法は絶対に良くは無いですが。 そういうテスト小学生の頃よくありましたね。絵を描く。得は無数に書けます。 こういえばああ書ける。ああいえばこう書ける。少し本心見られた瞬間恥じらいは有りますが、次の瞬間 また違った絵をかけましたよ。 他人に見下されるのが悔しいのでしょうね。産まれ持って私の場合。

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