にゃるほどねぇ・・・古文って難しいよね。まじ、あれはほとんど宇宙語に近いような言葉。日本語であって日本語じゃないって感じでしょ?
でも、まず先入観から取り除いてみよう。というのは、今の僕らが使う言葉と昔の人が使う言葉を比較してみる。
例えば、君が学校の帰りに歩いていて、その途中とっても可愛い女の子に会ったとする。そこで君はその女の子を見てこう心の中で思うでしょ?
「やばっ!あの子ちょー激カワ!」
今の僕らにとっては、普通の言葉としてこんな感じに言うよね?でも、昔の人がこんな言葉を聞いたらどう思うだろう?
まず「やばい!」って昔はマイナスなイメージで使っていたはずなのに、今ではマイナスともプラスともとれるような使い方をしている。「ちょー(超)」なんてことば、昔にはなかった。昔の人は程度の表現は「いと」とか「いみじ」とか使ってたもんね?「激カワ」なんて何語?何をどう略しているの?みたいな感じに昔の人だって思うはず!
じゃあ今度は昔の人・・・そうだな、どこかの中将さんが同じような状況に会ったとする。そこで彼はこう思うだろう。
「あはれ、いとらうたきなり。いとほし。」
「あはれ」っていうのは当時の人が「あぁ・・・」とかため息をつく際にいう言葉。「いと」は今の僕らにとって「超」って意味で、「らうたき」は「らうたし」の連体形で「可愛らしい」っていう意味「なり」は断定の助動詞だよね?実は「らうたき」と「なり」の間には「人」っていうことばが省略されている。で、「いとほし」も「愛らしい」みたいな意味をとる。
今、君と中将は同じ状況にあったはずなのに、こんなに言っている言葉が違う。それは当然だ。だって、君と中将の間には千年近くの長い時間の差がある。つまり、君も昔の人が言っている言葉が分からないように、中将も君の言っている言葉は分からないんだ。そこには時代の流れがあるから、当たり前だよね?そう考えると、古文が日本語であって日本語じゃないなんていったら、今僕らが使う言葉だって昔の人にとってそうなるでしょ?
さらに、昔の人は流行ってた物も違う。君は、J-POPがすきかもしれないけど、昔の人は和歌が好きだったんだ。逆に共通しているものもあって、君はおみくじとかするかもしれないけど、昔の人だって夢占いやそういうのが好きだったんだ。
そうやって今と昔を対比してみると、なんだか同じだと思わない?でも普通の受験生は、そんなこと考えない。っていうかそんなこと考えていたら変態(笑)。でも、みんなは古文をまったく違う言語として認識してしまうから、そういった苦手意識がどうしても生まれてしまう。一から英語を覚えるみたいにね?だから、まず古文を苦手だよー!あんなもん宇宙語じゃん!っていう固定観念をなくすこと!それが、君の古文が出来るようになるための、まず第一歩!
じゃあ、実際に試験とかでどう解けばいいのさ?って思うかもしれない。それは君の勉強量次第だ。単語を覚えたり、文法を覚えたり。その辺は今の日本語でもそういう勉強をしてきたでしょ?漢字を勉強したり、敬語を勉強したりと・・・それと同じ!
でも、そんなこと言うと可哀相だから・・・ちょっとだけアドバイス。
春来てぞ人もとひける山里は花こそ宿のあるじなり
これは「拾遺集」の中にある有名な和歌の一首。多分高校試験とかでもこのくらいのレベルなら出るはず。
これを見て、ぱっと「分からない!」と思うかもしれない。でも、ちょっと立ち止まってみよう。こういう文にあたったら、なんとなくでいいから全体の雰囲気を掴み取ることが大事。
「春来てぞ」は「春が来た」・・・「ぞ」っていうのは文末強調なんだけど・・・今でも「俺だ“ぞ”」って使うよね?それと同じ。
「人もとひける山里は」は「山里に人が訊ねてきた」。なるほど・・・「春になると山里に人が尋ねてくる」と言っているね?
そして「花こそ」、この「こそ」もさっきの「ぞ」と同じ感じ。「私こそ!ごめんね!」みたいな感じで今でも使うよね?
そのあとに「宿のあるじなり」これを繋げると、「花が宿の主人だよ。」といっているのが分かるかな?
つまり、これを全体的に捉えてみると・・・「春になると人が山里を訪れる。宿の主人は花なんだなぁ。」なんとなく・・・言っている意味が分かってこないか?
ぶっちゃけ解説しちゃえば、めったに来ない人里にもみんな春になると、花を見たくてやってくるようになる。じゃあ、宿の主人は自分ではなく、人をひきつける「花」なんじゃないの?ってちょっと皮肉めいた感情を和歌で読んだのだ。
こんな風に、まず全体の雰囲気をつかむことが大事。この人は何をどういいたいのかな?それを考えるだけで、ずっと古文が読みやすくなると思うよ。
お礼
回答ありがとうございます! 学校の先生よりも塾の先生よりも分かりやすい説明ありがとうございます!! これからは固定概念を捨てて古文に取り組んでみます!