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琉球王国の摩文仁親方について

私の母は奄美出身で奄美の歴史本に出てきたりする屋宮家自家正統系図に出てくる宮勇気のひ孫です。 屋宮家の始祖である1521年首里生まれの摩文仁親方は、自家正統系図によれば 「浦添大王の正統にして世々候たり」 と書かれていますが、この意味が分かる方がいれば教えてください。 (いとこは舜天のことだと言っていますが‥)

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  • oska
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回答No.1

>この意味が分かる方がいれば教えてください。 琉球の王都として繁栄した時代の「舜天王」「英祖王」「察度(土)王」が、浦添三大王ですね。 琉球は、首里城を中心とした尚氏による琉球王朝統一されるまで3国(南山・中山・北山)に分かれていました。 その一国が「浦添中山王」で、琉球最初の冊封が「察度」の時代です。 「察度王」の息子「武寧王」が後を継ぎましたが、察度系王朝は2代で滅亡しました。 ただ、「浦添大王の正統」と言ってもどの王朝を指すのか分かりませんよね。 三大王の即位順序から言えば、「舜天王」です。 が、最後の「察度王」も正統ですから、子の「武寧王」も正統です。 どの時代の正統かは、誰にも分からないでしようね。 室町時代頃の琉球は、色々と複雑な政治状況でしたからね。 この事が、現在「沖縄県(琉球)は、中国固有の領土だ!」との中国側根拠にもなっています。 「親方」として続いているのなら、どこかの王の一族でしよう。 浦添市関係部署に「こういう資料がある」と見せれば、関係部署が調査してくれるでしよう。 「浦添三大王祭り」を、行っている程ですからね。

noname#125689
質問者

お礼

さっそく回答いただきまして有難うございます。 私はまだパソコン初心者で、この質問を入力したのは私の娘です。 あなたの回答を読んですぐに理解できたわけではありませんが イトコと相談しながら理解するように務めます。 イトコの話では琉球に按司という支配者がいて、浦添地域の按司を務めていたのが舜天で、浦添按司のことを浦添大王と言ったのではないかという話でしたが、国王と聞いて驚いています。 また機会がございましたら、どうぞよろしくお願いいたします。

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