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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:【ひと】…CPU、OS、そしてOP(主体)について)

CPU、OS、そしてOP(主体)について

このQ&Aのポイント
  • ひとの内に秘められた要素や未解明な部分について質問します。
  • ひとをコンピューターや機械に例えた場合、CPUは脳、OSは自律神経や臓器を指し、OP(オペレーター)とは何に例えられるのか考えます。
  • 心理学的な存在である『私』や精神医学、哲学についても考えます。

質問者が選んだベストアンサー

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  • ruehas
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回答No.3

こんにちは。 「私」といいますのは「情報処理の主体」です。 生物学的に見ますと、私という個体は「行為の主体」です。では、「我思う、故に我あり」の言葉が示す通り、我々から見た「私」といいますのは「意識の主体」であります。何故そうなるのかと言いますと、それは私の中で私が行為の主体であるという明確な区分を行っているのがその脳内で行われる「情報処理」であるからです。 我々の神経系は以下のような構造になっています。 「入力:感覚神経系(センサー)」 「処理:中枢神経系(CPU・OS)」 「出力:運動・自律神経系(駆動及び機能維持)」 我々動物はインターフェイスやディスプレイを付けたコンピューターと言うよりは、能動的な情報の獲得によって状況に応じた行動の選択を行う「知能ロボット」です。フルオートマンにオペレーターはないです。それでは「私」がいらなくなってします。では、どうして動くのでしょうか。果たして、これは人工知能研究の歴史の中でもしばしば論議されていたことであり、そこに「私」というものが動くためには、このような「環境との相互作用」が絶対不可欠となります。 我々動物は環境から集めた情報を基に外界に働き掛け、その結果は再び中枢にフィードバックされます。では、このような感覚や運動による環境との相互作用によって「内界と外界」の区分は自ずと確定されてしまいます。果たしてその結果、「情報処理の主体」は必然的に「内界」ということになります。 このように、主体と客体の関係とは生物学的な構造によるものであるため、我々にはこの立場をひっくり返すことは絶対にできません。そして「私」とは、その立場を受け入れた結果です。 生後、概ね二歳ごろまでの僅かな期間を「感覚的運動知能期」と言います。産まれたばかりの赤ちゃんは、その未熟な感覚を手掛かりに只ひたすら手足を動かすという感覚運動を試みます。これが繰り返されるうちに、やがて赤ちゃんはその行為の主体が自分であることを探り当てます。これ以降を「概念知能期」といい、我々はこれを過ぎますと二度と主体という立場を退くことはできなくなります。そして、残りの生涯の全てを「自己と外界」という絶対的な基準に従って過ごすことになるわけです。 このように、「私」というのは生後学習によって獲得されるものであり、心理学的な私とは恐らくここからスタートします。「自我の確立」などと言いますが、これを認識するためにはまだ知能の発達や言語概念の習得などを待たなければなりません。ですが、何れそれが与えられるとしましても、少なくともこの時期に概念知能期への移行が済まされなければ我々が自我を持つことはできないはずです。 このような手続きを経て、それは行為の主体から自分自身が認識の対象となり、やがて高次な自己実現の欲求へと向かいます。そしてこの場合、それは必ずや自覚として意識に反映されなければなりません。ではこの時点で、私という存在が私自身に明確に自覚されているというのはほぼ間違いのないことなのですが、それを保持しているのが意識なのかと言えばそうでもありません。 意識といいますのは断続的なものであり、我々は寝ているときや注意を奪われたときなど、しばしばそれを手放します。ですが、このように一時的に意識が途切れても、私が私であることは常に継続されています。ならば、これは私を保持しているのは意識ではなく、私が私であるという事実を受け入れているのが意識であるということです。そしてその事実とは、果たして私とはそこで行われる情報処理の主体であるということあり、この事実を変更することは絶対にできません。このため、死ぬまで私という立場が継続されます。

noname#134608
質問者

お礼

ご回答有難うございます。 拙い文章、安易勝つ不備な例えに対しましても、若輩者の真意を汲んだ寛容なフォロー、 そして何より『心理学的、生物生理学的の明晰なアプローチ、 また起承転結明快なご説明』、重ねて感謝致します。 私事になりますが、事情があり経済活動の一線を一時退き、 『50の手習い』で、『ひと』に関心を向けている日々を送っています。 また今後、稚拙なご質問もあるかと思いますが、 お気づきの点ございました折には、厚かましいとは存じますが ご意見いただけましたら幸いです。 >「私」といいますのは「情報処理の主体」です。 >脳内で行われる「情報処理」であるからです。 >我々から見た「私」といいますのは「意識の主体」であります。 私自身、過去『妻が脳腫瘍による植物人間(心肺補助装置装着後、自発呼吸再開)、以後自発呼吸は継続』、そして私自身も不慮の事故、および自殺未遂で3度の臨死体験があり、『意識不明を数日経験』しております。 その際、『本人、私には意識があり周囲の状況』は 『記憶と現実が一致していた』と言う経験があります。 ですから「意識の主体」…に関しましては今後の学術論文や各位様のご意見は大変興味があります。 full automanではなく「環境との相互作用」が『私』動かす。 よく理解できます。俗的な言い回しをすれば、 『生きているのではなく”生かされている”』と言う感覚は常にあります。 >「内界と外界」 >主体と客体の関係とは生物学的な構造によるものであるため、  我々にはこの立場をひっくり返すことは絶対にできません。 >そして「私」とは、その立場を受け入れた結果です。 私自身も今回質問文中に『敢えて』、”主体”と言う単語を使いましたが、 当然、二元論ですから『客体』を生じさせてしまいます。 そしてそれらは『二元論ゆえに相対』、相対であるがゆえに『境界線』が存在してしまう。 勿論、森羅万象、物質物体には境界はあって自然ですが、 果たして『意識』に境界線は存在するのか…という疑問を持ち続けています。 カント、デカルト、フロイトからの近代心理学には『(理論上なのか便宜なのかは存じませんが)顕在意識と潜在意識、そして潜在意識も多様に細分化』されてきました。 しかしそれらの『名称(ラベリング)』には、やはり『何らかの境界が設定』されており『意識自体も一元的ではなくしてしまった』感があります。 本来こちらは『心理学カテ』なので、その辺りを自論なり論文の経緯なり知る事が出来たら…と期待して投稿した質問でもあったのです。 これは仮設になりますが、 『相対無き”絶対の私”の存在』を(各学問分野を統合して)インテグラルにアプローチできないものかと思っています。 付随して言えば、『因なき果』も同じ机上かと思います。 量子物理学、素粒子物理学では『因なき果』が、他分野より進んでいるように思います。 また『インテグラルな意識』は、ともすると、『多次元』なのかと言う仮説も出てきます。 5次元6次元はかなり解明が進んでますね。 (リサ・ランドール博士の著書は素人にも面白く嵌っています。 脱線してすみません。) >「概念知能期」 この概念…私は実は『恐怖感というか違和感』があります。 それは『概念とは真実なのか?』と言う疑問です。 諸行無常のこの世界、時系列時間軸に照らせば、 『概念=過去(または過去から一瞬前まで)』となってしまい、 『現在ではない』と感じるのです。 現在脳内で起こっている『思考』は、すべて『体験、経験、記憶に起因した反応』であって、それを行っているのは『現在』であるが、日々刻々変化する森羅万象故に『現在の真実』とはギャップがある…という意味です。 そうなると『知るという行為』も『インテグラルな知』が要求されてしまうのです。 『 知』のなかに『一片でも不可知な部分』があったら、それは『知』ではなく『知の経過』であり『完成された知ではない』と感じています。 >「自我の確立」 >やがて高次な自己実現の欲求へと向かいます。 この自我、そして欲求も私にとって厄介者です。 自我には『完成形が無い』、そして『欲』は公正な尺度を持たないと感じるのです。 つまらぬ自論を書き連ねましたが、 >私が私であるという事実を受け入れているのが意識であるということです。 全くその通りです。一埃の異存もございません。 >この事実を変更することは絶対にできません。 >このため、死ぬまで私という立場が継続されます。 これに付きましてはまた自身にて探求したく存じます。 今回は懇切丁寧なご回答、誠に有難うございました。 それでは。m(_ _)m

その他の回答 (4)

回答No.5

コメントをありがとうございます。 心理学の勉強をしようと私は思ったことがありません。次のように心理学を思っています。 [現在の心理学は哲学とは縁が薄く、フロイトなどユダヤ系の研究者とその後のアメリカ系研究者が築いたもの][『意識・主観・要素』を思索で極めるアプローチを排する][外部からの行動観察や現象観察や経歴調査によって無意識に行われていることに関して客観的な知見を得ることを狙っている][医療や神経生理学とは違うスタンスに立っているが他の学問研究の成果を利用することを排除はしていない][臨床心理など医療に近いスタンスでの研究やアプローチも盛んになっている][医学と心理学の境界が学際領域だけでなく実践面でも医療と臨床心理で区別がつきにくくなると予想される] 私は心理学の勉強をしようとは思いませんが、心理学の研究で判明したことなどには関心があります。特に発達成長とか認知には関心があります。医学の生理学、生物学の進化や遺伝にも関心はあります。 >私は一番重要なのは、現実を多く見て、その中のどの事実に注目してどう自分の中で概念化するかだと思っています。 『全的な現実、事実を知った』と思う人がいたとしたら、誤認や思い込みをしているだけでしょう。映画や写真、書物、インターネットで知った気になるのも誤認の基になるでしょう。できるだけ現実を多く見るようにした方がいいです。しかし、誰にしても[見て認識できるのはその人流の、現実の一面だけです] それは認知の基本常識です。その人が持っている知識、経験、その時の場の状況、その時のその人の状況によって同じ現実をみても、見て認識する内容は違います。そのことを[その中のどの事実に注目してどう自分の中で概念化するか]と書きました。 [主体としての私]を何かに例える(比定する)ことは無理です。エネルギーに比定することもできません。  相互作用や生成、変化や遷移、発達、成長、思想、論理、「概念」、「性状が一定しないシステム」などは実体とはいいません。 何でも実体と呼んだら実体という用語を使う意味がなくなります。 人工知能搭載のルンバ自動掃除機はスケジュール通りに判断しつつ行動します。限定していますが状況判断もします。しかしこの掃除機に[私]を考えるのは無理です。愛犬は家族と訪問者と不審者によって対応を変えしつけや芸もマスターします。しかし犬に[私]はありません。ヒトに[私]があるとされていますが、生後間もないときには[私]はありません。ruehasさんは『「私」というのは生後学習によって獲得されるもの』とお書きです。私もそう思います。生後の学習で「私」を獲得するのは全員ではない。例外がいると思っています。学習で獲得した「私」を失うこともあるはずです。また生後の学習で獲得するものである以上、その内容やレベルが同じであるはずがありません。同一人でも状況によって[私]の内容やレベル(領域と程度)が様々であることが多いです。メタ認知の私、それをメタ認知している私もあります。 「私自身、妻が脳腫瘍による植物人間、以後自発呼吸は継続」「私自身も不慮の事故、および自殺未遂」というときの[私]は何でしょう。[私とは何か]の[私]と同じですか。 「3度の臨死体験」というとき「臨死を体験している私」は何でしょう。「意識不明を数日経験」が言葉の使い間違いでないとしたら「意識不明を経験している私」は何でしょう。 「その数日間も私には意識があり周囲の状況を記憶していた」のであればそれは意識不明ではないです。(体が動かせない)随意運動ができなかっただけです。 いわゆる臨死体験が[いつ生じた]のかは明確ではありません。普通の夢でもそうですが、覚醒の直前の短時間の脳活動は色々なイメージを作ります。医療関係者や親族にとって意識不明状態が続いているように見える人がどの程度の覚醒状態にあるのかはわかりません。知人でクモ膜下出血と脳血管れん縮、脳圧亢進で手術もできないまま1ヶ月近く全く無反応の状態になった方がいます。別の方で事故で二日間意識不明の方もいます。お二人とも回復後に見舞いに来たことを知っていると言っています。しかし、後で無意識が作った偽の記憶である可能性が高い、覚醒後に交わした会話でもその後明らかに混乱していることから推定しても、重症時に出来事が記憶領域に明確に記憶されてその後再生される可能性は少ないと思わざるを得ません。   放送大学の教材が書店で購入可能です。 http://www.ouj.ac.jp/hp/kamoku/H21/daigakuin/B/ningen/s_8920508.html 本格的に発達心理学の専門書を紐解くにはベースが不足でしょうから、こうした教材(これも大学院教材です)から読んではいかがでしょうか。

noname#134608
質問者

お礼

こんにちは。 遅いお時間にまた度重なる長文のご回答ありがたく存じます。 皆さんとのやり取りで、自身の中で、この”質問投稿”が意味あるものに 成ってきた『感』があります。 本当に『お蔭様、お世話様』です。 その中でも『概念の危険性』と『言葉、単語、表現の”負の側面”』は印象的です。 概念…それは『思考』。そして其々の思考は『言語を介したそれぞれの過去の反応』。 したがって、『それらは全てが未完成、且つ発展、発達段階』である。 『あらゆる分野の学問』もまた例外なく概念が作用しており、 現時点で『完成形をなすものは無い』と言う事。 そしてそれらを『振りかざし、主張する正体が自我…つまり”わたし”』であり、 その「わたし」と「あなた」が互いを主張する事は「討論」、つまり争い。 それが「今の社会構造の末端エネルギー」ですから、当然社会は、 混乱、混迷、闘争へと繋がる。 それらが、民族、宗教、国家とそのエネルギーが増大することに因って、 やがては騒乱、戦争へ。 それが「ひとの歴史、人類の歴史」…。 全ての人が生物が万物が「平安」を望んでいるのに…、 そうなりたいと言う前段階で「望みとは逆の争乱」起こる。 聖書の中の「林檎の実」、人類の過程で与えられた言語…「原罪」に対しての 「罪と罰」も感じました。 そして「般若心経」の「すべては空である…という佛の智慧」まさにその通りだと感じています。 概念、言葉は基より「全てが空(くう)」であれば、 「人欲、そしてひとが全ての知識を捨て去った時、 つまり空っぽに成った時」が「ひとの本性」、 そこには「争いも、混乱も無い」と感じました。 概念、思考などは「理論武装」の単なる武器に過ぎない。 戦いで戦いを抑えても、あらたな戦いの火種を作るに過ぎない。 「理論武装した」討論もまた同じ事…それを学問称するのは…虚しすぎる。 音楽は”音学”ではない…既に完成形だから美しく感動がある。 芸術はやはり「芸術”学”」ではない。そこにはやはり感動がある。 そしてそれらの感動は固有から共有へと変わる。 パーソナルからインテグラルへ…そんな過渡期に生かされている「わたし」を 発見できました。 それは「私と言う感性が知る”わたし”」それは過渡期の今は「単なるパーソナル」であってもインテグラルへとおそらく続くのでしょうね。 本当に意味ある「やり取り、コミュニケーション」を有難うございました。 ありのままあるがままの余生を送れそうです。(^人^)感謝です。 最後に「ベストアンサー」ですが、何度もご投稿頂いたのに心苦しいのですが、 「設問に対してその設問を許容しその領域内で適切なお答えを頂いた」と言う事でANo.3様を選出致しますが、 こちらのやり取りは「ベストコミュニケーション」と言う事でご理解ください。 それでは、本当に有難うございました。<(_ _)>

回答No.4

私の個人的見解です。 1)「考えたりしている本人の私の本質」は何であるか]を心理学で問題にすることは少なく、「調査対象者の『私に関するメタ認識』」を問題することがほとんどだと思います。 それも自我の成立、自我意識の発達成長、発達、退行、超自我の成立、防衛規制、自尊心、自己効力感、感情、パーソナリティ、自己開示、自己愛、個性化の過程、自我体験の障害、多重人格、離人症、真の自己とペルソナなどのように、外から見て時間経過による差、外から見て個人間の差を研究の対象にすることがほとんどだと思います。 心理学は[心理の動き/変化/反応][行動の傾向]の知見を深めることあるいはそうした知見を利用することを目的にしていると思います。研究者も、トレーニングや治療や商売、組織行動、社会の動向や社会操作、政治過程への応用などを目的にしてる人も、心理を学ぶ学生さんなども、「私とは何か」ということそれ自体への関心は少ないと思います。 「私がないがしろにされた」と思う場合を考えると、その人の職務や立場、過去の功績なども「本人が私と思っている」範囲になることがあるのがわかります。身体のすべても私と認識されます。一方「私が失われた」と(本人が)感じてしまう(?)こともあります。心理面では「私」は実に多様です。また生後2週目の幼児や脳死状態の人の「私」とは何かを考えると言葉を失います。「情報処理の主体]が「私」であると限定的に考えるのは無理だと思います。 2)学問に『仮説、標本採取、考察…』の一連の流れもあると思いますが、多くの場合『現状を見る、現状をは把握する=概念化、概念の体系化の試み=(仮説立案、仮説検証に必要な論理の推定、仮説検証に必要なデータや標本の収集、考察…)、仮説の再構築、、、、』の流れがあると思います。最初に仮説から入るのではなくて、事物を多く/深く眺めて、その中から適当に気になった事物だけを自分流に抽出し言葉で概念化し、いくつかの概念化した事柄の関係に相関や因果などのつながりをつけようという気分が、多数の仮説sを作り出します。その多数の仮説sからもっともらしい/重要らしい/仮説の検証がしやすそうに思える[仮説]を選んで、[仮説]の妥当性を科学的に主張するために調査等を行うのだと思います。私は一番重要なのは、現実を多く見て、その中のどの事実に注目してどう自分の中で概念化するかだと思っています。科学的な論文を仕上げるための研究やきちんとした立証が重要なことであることは間違いないですが、前段階を一番重視するべきように私は思います。 3)>>『ヒトの主体(操作主体)は簡単な実体物のはずだ』こちらも私の質問内容に反しております。 thank2012:…ひとをコンピューター、機械に例えるのは如何かとは思いますが、例えに思い浮かぶモノがありません。例えに無理があることは承知しておりますが、よろしくお願い致します。CPU=脳、OS=自律神経、様々な臓器、各種不随筋とした時、そのOP(オペレーター)、操作の主体は何に例えられるのでしょうか? 私の理解1:t:…ひとをABCDに例えるのは如何かとは思いますが、例えに思い浮かぶモノがありません。例えに無理があることは承知しておりますが、よろしくお願い致します。A=脳、B=自律神経、様々な臓器、各種不随筋とした時、そのCD、操作の主体は何に例えられるのでしょうか? 私の理解2:t:…ひとをABCDに例えるの無理があること思いますが、あえて、A=脳、B=自律神経、様々な臓器とした時、そのCD(操作の主体)は何に例えられるのでしょうか? 私の理解3:t:…ひとをABCDに例えるのは不適切と思いますが、ひとの操作の主体は何に例えられるのでしょうか? 私の理解4:thank2012さんは[ひとの操作の主体を実体のあるものに例えられると考えて]質問している。 私の理解5:「私」や「主体としての私」etcの概念を考えることはできても、[その私の概念]は物質や人体の部位に比定するようなものではない。何かに例えて言えるようなものにならない。 私が前にした回答:[コンピュータに例えるという例えに無理がある]のではなくて、『ヒトの主体(操作主体)は簡単な実体物のはずだ』と考えるのが無理なのだと思います。 私の回答の修正:[コンピュータに例えるという例えに無理がある]とは思いません。『ヒトの主体(操作主体)を実体物に例えることができる』と考えるのは無理だと思います。 4)thank2012さんが、2010/7から多数の回答をされていて、質問は(1/13~1/21)[カテゴリ:その他(恋愛・人生相談)2件]、[カテゴリ:心理学1件][カテゴリ【特設】アンケート1件] の4件だけだとは想像できなかったのです。大変に失礼しました。

noname#134608
質問者

お礼

重ね重ねのご回答、深夜にも関わらず、有難うございます。 やはり、”私の比喩が拙かったよう”です…申し訳ありません。 (次回は『I my meの”I”とは…』とでもしてみましょうかね。) 質問の趣旨は『心理学においての”私”の定義とは~~?』位に あっさりした方がよかったのかも知れませんね。 心理学をある程度修めた方のお話が聞きたかった為、 『予防線』を施したのが間違いでした。 (何方にも、お礼を差し上げるとなると、時間的、労力的に難しいですからTT) >「考えたりしている本人の私の本質」は何であるか]を心理学で問題にすることは少なく そうなのですか、存じ上げませんでした。 何しろ『心理学は選択科目の単位取り』以来縁が無く、 数年前から『ふとしたキッカケで』、ユング心理学(分析心理学)、 フロイトの精神分析学に関するものに興味を持ったもので…恥ずかしながら 見識不足の極みです。 >~個人間の差を研究の対象にすることがほとんどだと思います。 少し寂しく感じました。『相対比較』では、超自我やペルソナの『本質』には 触れることは難しいでしょうね。 >脳死状態の人の「私」とは何かを考えると言葉を失います。 脳死判定は専門医でも意見が様々ですね。 ANo.3様のお礼文にも記しましたが、『臨死体験(心肺停止、意識不明)』は肉親、そして私自身も経験しています。 体験談で申し訳ありませんが、『その時の意識状態、感情の記憶がある』のです。 異次元なのでしょうかね^^;。 心の理(ことわり)を学ぶ、心理学。 『心』や『意識』の定義付けそのものが『確立されていない』のかも知れませんね。 個人間で定義付けが『異なる場合』はその当事者間の議論、対話は成立しなくなってしまいますから…更に難しいですね。 >最初に仮説から入るのではなくて、事物を多く/深く眺めて… その通りですね。 洞察なき仮説ではお遊びになってしまいますね。 >私は一番重要なのは、現実を多く見て、その中のどの事実に注目してどう自分の中で概念化するかだと思っています。 『現実、事実』は、”私は『知らない』”と言うスタンスです。 その理由は今まで何一つ、『全的な現実、事実』を知った事が無いのです。 『全的』の対語である『断片的』にしか『現実、事実』を体験した事がありません。 屁理屈に聞こえるかもしれませんが、『全的に知る』と言う事は、 ある事象に対して『一片の未知なる部分を含有しない』と言う事です。 その『ある』事象、万物に対し、未知の部分があることを無視して、 『知っている』とは言えないと思います。 何らかの境界線、領域を設け『その限定内で知っている』と言うのが正確かと思います。 >そのCD、操作の主体は何に例えられるのでしょうか? 私がお聞きしたかったのが、『正にこのCD』なのです。 それが、今回の質問、質問文中の 〔『主体=私』と言う事は異存ありませんが、 その『私とは…』、心理学において、具体的にどの様な存在になるのでしょうか?〕本旨なのです。 >私の理解3:t:…ひとをABCDに例えるのは不適切と思いますが、ひとの操作の主体は何に例えられるのでしょうか? その主体=”私”の回答を求めたのが今回の質問です。 その一つのお答えはANO.3の回答者様から 【「環境との相互作用」が『私』動かす。】と頂戴し、思わず頷きました。 >私の理解4 ~実体~~。 ええ、その通りです。 実体は森羅万象、『可視の物体のみでは有りません。』 『相互作用』もまた『実体』です。 天文学、天体物理学の『ダークマター』も『質量の無いエネルギー体』、それが”実体”です。 また『ひとの想念』、これもまた『実体』です。 >私の理解5 、[その私の概念]は物質や人体の部位何かに例えて言えるようなものにならない。 目に見えるものに囚われすぎではないでしょうか? 『意識』もひと特有、固有のモノです。 その意識も 『[我思う、ゆえに我あり]=I am that I am』と、 やはり”実体”ではないでしょうか? >。『ヒトの主体(操作主体)を実体物に例えることができる』と考えるのは無理だと思います。 繰り返しますが『目に見える物』ではないのです。 『実体』…エネルギーも実体です。 コンピューターを例えに取りましたが、 『電気』が無ければ、ただの箱です。 電気、『気』=エネルギーも『実体』です。 …長くなって申し訳ありません、お付き合い有難うございました。 また、見かけましたらよろしくお願いいたします。 よい週末、休日をお過ごしください。それでは。

noname#134608
質問者

補足

おはようございます。 >4)~4件だけだとは想像できなかったのです。大変に失礼しました。 いいえ^^、何方か似たようなHNの方もイラッシャイマスから、 どうぞ御気になさらず、流していただければ幸いです。

回答No.2

質問に回答がつくと質問を削除する方でしょうか? 回答者の立場としては、解決してもしなくても、残しておいて欲しいと思います。 回答の締め切り後もそのままにしておいて欲しいと希望します。 心理学を専攻したことはありません。職業も心理学とは関係ありません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ [ひとをコンピューター、機械に例え]て考えると都合の良い場合もありますが、多くの場合、そのように理解しようとすると先が続かなくなると思います。 機械の場合、オペレータと機械はくっきり別のものと識別され、オペレーターは機械に働きかける主体です。フィードバックループを作るのはオペレーションを的確にするための情報入手のためです。機械の中に組み込んだフィードバックとは、機械⇒オペレータのフィードバックとは違います。   ヒトを(CPU=脳、OS=自律神経、様々な臓器、各種不随筋、、、、)と(オペレータとしての何か)とに分解して認識すること、割り当てることは無理です。 コンピュータになぞらえたとしても、脳はCPUと考えるヒトは生理学者にはいないと思います。 視覚ということをとらえて考えても、どこでどう見て識別するのかさえ、生理学的には非常にやっかいなことです。見えたもので好悪喜怒が生じたりパターンが認識できたり意味が理解できたりするようなことまで考えると、今使用しているパソコンのような単純な機能分けはできません。自律神経系をOSになぞらえることも、どういう側面をみるとそう言えるのか、私にはわかりません。もしも、OS=(自律神経、様々な臓器、各種不随筋)とお考えならば、そのOSとは何なのでしょう。 舌、呼吸、排尿排便、目視、走るのようなことも、単純に意志的活動とは言い切れません。体の各部が勝手にバランスをとったり、調整したり、大脳や小脳と絡んだり、様々です。 自我が育つ、自己愛、セルフコントロール、共依存、発達障害、自尊感情、自責、自己概念などのことが取りざたされるのは、単純に主体と客体とを分けられないという認識がベースになっているのです。 どこかに操作の主体や【自分そのもの】が、それ以外の部分からぽこんと隔離して存在するのではないというのが、皆さんの共通認識だと思います。しかも、関係は絡み合い、影響の方向も双方向のことが結構多いです。   [我思う、ゆえに我あり]でもそうですが、どこまでが我であるか、これが我という明確なものはないのだと思います。   色々な相互作用の結果が感情や心理状態を最終的に作り出しています。認識や判断も同様で色々な相互作用の結果です。色々な相互作用には外部刺激もあれば、身体や脳内の器質、化学物質、ホルモン、神経伝達物質、各細胞の活動レベル、過去の記憶、現在の意欲や覚醒度もすべて絡んでいます。大脳の部分だけで考えたり感じているとは限らないのです。 [コンピュータに例えるという例えに無理がある]のではなくて、『ヒトの主体(操作主体)は簡単な実体物のはずだ』と考えているのが無理なのだと思います。   心理学は、色々な心理学があります。 しかし、どれであっても、ヒトにはどういう性質や特徴、反応の傾向があるか、それはどういうことと相関や因果関係が想定できるのかを調べたり、ヒトによる個人差、年齢差、性差、民族差、時代環境差、個人経験差、薬物との関連、教育訓練の効果を調べたり、その研究成果をヒトの訓練や配置などに活かす、苦痛や苦労を軽減する方法を探るためにやっているのだと思います。

noname#134608
質問者

お礼

ご回答有難う存じます。 質問本文中以下のようにお断りしている通り、 >…ひとをコンピューター、機械に例えるのは如何かとは思いますが、    例えに思い浮かぶモノがありません。    例えに無理があることは承知しておりますが、よろしくお願い致します。 (以下)ご指摘の点、 >>ヒトを(CPU=脳、OS=自律神経、様々な臓器、各種不随筋、、、、)と ))(オペレータとしての何か)とに分解して認識すること、割り当てることは無理です。 上記の様、承知致しております。 ご指摘の通り心理学も『様々な冠』が付きますが、学問としては『仮説、標本採取、考察…』と言う一連の流れは変わらぬものかと思います。 >>『ヒトの主体(操作主体)は簡単な実体物のはずだ』 こちらも私の質問内容に反しております。 >『ひと』が様々な要素、そして未解明な不可思議な部分を秘めている事は、  想像に容易い事です。 未解明、不可思議と言う単語に『簡単な実体物』と言う認識が無い事は お解りいただけないでしょうか? >>ヒトによる個人差、年齢差、性差、民族差、時代環境差、個人経験差、薬物との関連、教育訓練の効果 これらは端的表現すれば、『過去』となりますね。 そして[我思う、ゆえに我あり]=I am that I amこちらは”現在、今”です。 この『過去(思考の産物)』と『今』の接点は時間的に連続はしていても、 別物(*・過去に起因しない現在もある。素粒子、量子物理学では認知されていますね。)ではないでしょうか? (*・量子、素粒子物理学の権威、リサ・ランドール博士の論文より) 質問文中、”蛇足となる例え”を持ち込んだ非は大変申し訳なく思います。 お礼の文中、失礼を承知で再度繰り返しますが、 心理学の観点から 『その『私とは…』、心理学において、具体的にどの様な存在になるのでしょうか?』 の『私とは…(”私”の定義)』をご回答を頂きたく思います。 お手数ですが宜しければmoto_koukousei様の個人的ご意見頂戴したく存じます。 再度、蛇足に成りますが、『精神医学の観点』のご意見は (日も変わり)昨日、某大学精神科医局長教授とお話しする機会があり、この投稿に関して、『精神医学の観点』から、ご意見を頂戴した所であり、私も同感しましたが、教授曰く『全ての学問は未完成』との事、こちらの投稿を楽しみにしている…と。

noname#134608
質問者

補足

>質問に回答がつくと質問を削除する方でしょうか? まずはこの場をお借りいたしまして、お詫びいたしたく存じます。 今回が質問4回目に成りますが、初回、今回お断りしてあるように、 別カテにて同一内容の質問を致した所、在る方より『マルチポスト』の指摘を受け、 運営者サイドのほうから『削除処置』を行われた経緯が御座います。 その質問に関しましては回答者様は『マルチポストの指摘をされた方お一人』 でした。 万一、ご回答いただき投稿が出来なかったとしましたら、『サーバーのタイムラグ』によるものと思われます。 私自身、ファンユーザーの方も居りますし、『質問に対して即答されるか出来る状況の方ばかりではない事』等、『削除行為』は本意では有りません。 ご理解とご容赦願いたく存じます。 大変失礼いたしました。

回答No.1

  OP=opereting Sisytm =オペレーター(操作の主体) 自律神経を例えるならバス(BUS)  

noname#134608
質問者

お礼

早速のお目通し有難うございます。 OP=OPSでも構いません、自律神経、脳内シナプス=busでも、 差し障りありません。 心理学上の『その主体』をお聞きしています。 opereting systemは『system』であって、『客体』ですね。 『私』と言う『主体』についてお答えお待ちしております。

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