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満州から日本への輸送(シーレーン)

戦時中、満州は物資が豊かでしたので、食料をはじめさまざまなものを日本本国に 輸送していたと思います。 この輸送がうまくゆかなくなったのはいつごろからでしょうか? 海軍はこの海域を重要視して厳重に警備していたのでしょうか。 大連経由、朝鮮半島経由があったと思いますが、 どちらがより重要なシーレーンだったのでしょうか。

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  • KITAIKKI
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回答No.4

 海上護衛総司令部が設立されたのが昭和18年秋のことですが、その当時の総司令部の総戦力が大小新旧あれこれ合わせて100隻にも満たず、まともに外洋まで出張って護衛できる能力を持つ艦艇は、その半分もあればいい方でした。対してその護衛すべき船舶数は設立初期の数で2700隻以上に上っていました。  当然外洋にまで出張って護衛できる艦艇は、南方の主要物資を輸送する南方ルートにほとんどを振り向けていました。質問にある満洲から日本へのシーレーンといえば、羅津・清津・元山・浦項・鎮海・麗水・大連・旅順などのルートがあり日本海諸港と呼ばれていましたが、この中でもっとも重要な積出港が羅津でした。  ここからは塩・大豆・高粱などが大量に日本へ向かって運ばれていましたが、戦争初期にはその量の多さに積み残しが多く出て、穀物類は暑さなどで芽が出たり腐り始めたりしました。その対策のために朝鮮半島のあらゆる港を使用し、日本側にしても積み取り港として北陸・北九州・山陰などの使えるだけの港を使い倒したほどです。  ただそれも昭和19年も7月に入るとB29が、それまでの機雷投下による港の封鎖を太平洋側から日本海諸港側へシフトしたことによって、その輸入ルートは次第に途絶えていきます。  さらに機雷封鎖は朝鮮諸港のありとあらゆる港へ及び、もっとも重要だった羅津港には420個もの機雷が投下され、船舶は小船を除いてまったく身動きが取れなくなり、次第に満州からの穀物類が日本へ届かなくなっていきます。  ということで質問にある海軍の警備状況ですが、先に書きました海上護衛総司令部は日本海諸海間においての護衛活動は特筆するほどものはなく、結論的に言えばそれほど重要視していなかったというより、あまりにも手を広げすぎたツケが日本海側に回ってきたと考えればいいのかと思います。  また大連、朝鮮半島経由のどちらが重要なシーレーンであったかといえば、やはり日本への穀物類の積み出し港であった朝鮮の羅津の息の根を止められたことによって、日本国内の食糧事情が悪化していったことを考えれば、やはり朝鮮半島経由がより日本には重要であったかと考えます。  ただし大連経由についてはそれほど詳細な資料を持ち合わせていないため、正確な比較は実施していないことをお断りしておきます。  最後に大型船による海上交通放棄に関する資料を見ますと、大連(青島も含む)ルートは昭和20年6月には、米潜水艦の跋扈によってそのルートを大本営は放棄していますが、朝鮮半島ルートはその距離関の短さもあってか、終戦のその日までなんとか細々と継続していたようです。

その他の回答 (3)

  • mk57pvls
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回答No.3

こんにちは > この輸送がうまくゆかなくなったのはいつごろからでしょうか? 連合軍(実態は米軍ですが)が日本海側のSLOCに目を付けた のは、他の方の回答にもあるように、1945年3月以後の機雷 封鎖作戦、つまり"飢餓作戦"開始以後ですね。 > 海軍はこの海域を重要視して厳重に警備していたのでしょうか。 後述の北鮮三港(羅津、清津、雄基)は、旧ソ連が近いこともあって それなりに警備はしていたようですが、それでも太平洋側に振り向 けたリソースに比較すれば微々たるものだったでしょう。 正直その頃には、もう振り向けるリソース自体が無かったと思います。 > 大連経由、朝鮮半島経由があったと思いますが、どちらがより重要 > なシーレーンだったのでしょうか。 上記に加えて、敦賀、新潟と北鮮三港を結ぶ通称"日本海ルート"と いうものもありました。 http://www.geocities.jp/travel_100years/nichimanouas13kitanihon_100.jpg 日本海ルートは、海上路は長いものの、上陸後の陸路では(旧満州国 の首都である)新京に近いこともあって、そこそこ需要はあったようで すが、明治時代から使われている他の2ルートよりはずっと後になって 開拓されたルートですので、定期船の就航数などは比較すれば少ない と思います。 やはり一番は"関釜連絡船航路"を使う半島ルートだったでしょうね

noname#125540
noname#125540
回答No.2

>海軍はこの海域を重要視して厳重に警備していたのでしょうか。 でもなかったみたいですよ。 さすがに途中から考え始めて、No.1さんが挙げられている一番目の記事に出てくるように1943年(昭和18年)に「海上護衛総司令部」というのを作りますが、海軍はこの仕事にあまり力を入れていませんでした。力を投入する力も無かったのかもしれませんが。。。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E4%B8%8A%E8%AD%B7%E8%A1%9B%E7%B7%8F%E5%8F%B8%E4%BB%A4%E9%83%A8 大井篤さんの『海上護衛戦』(学研M文庫)が海上輸送に詳しいです。 でもこの本は満州方面でなく、シンガポール方面からの資源の輸送の話(タンカーとか)が多かったような印象があります。 どんなだったっけなと本を出してきてめくってみたら、175ページにこのような記述がありました。 「読者各位のなかには、信じ難いことのように思われる方があるかもしれないが、実際のことを言って、日本海軍には、昭和十八年十二月十日まで、つまり、太平洋戦争が半分以上をはるかに過ぎるまで、護衛専門ないし対潜作戦専門の航空隊は一つとして編成されていなかった。」 巻末に資料集がありました。 「第8表 太平洋戦争中における民需船の稼行率推移」というのを見ると、「内地・シンガポール方面運行船舶」より「日・満・華・運行船舶」のほうが輸送効率が良かったようです。 表によると、日満華方面の効率を表わす数値が悪化しているのが昭和20年(1945年)4月以降。 同時期のシンガポール方面は「運行なし」となっています。 ウィキペディア記事に米軍の飢餓作戦が3月末からとありますから、この時期なのでしょう。 私はまだあんまり読んでないんですが、戦時中の商船についての本も文庫でいくつか出ています。

  • tanuki4u
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回答No.1

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%8F%B7%E4%BD%9C%E6%88%A6 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%A2%E9%A4%93%E4%BD%9C%E6%88%A6 このへんですね。 沖縄が陥落する前は、東シナ海がなんとか使えたが、沖縄が陥落したので、日本海経由しか使えなくなった。 なので、6月7月は、日米での補給線(シーレーン)を守れるか破壊するかの局面になります。

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