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ポストモダンの意味
ポストモダンという言葉をよくブログとかでみかけるのですが、 この言葉の意味がよくわかりません 近代の次という意味でもあるというのはわかるのですが それ以外の使われ方をしていたとき理解出来ないです 哲学・社会学・思想あたりの人文系の 解釈で回答お願いします
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論理的帰結のポストモダンの哲学ついては 多数のひとに誤解されているかもしれないと思い 若干の説明を試みたいと思います。 ポストモダンの出発点はゲーデルの不完全性定理からだ と思います。その発展は 完全性定理も含まれ(ユークリッド幾何学に代表される、公理は証明できないという不完全性定理に準じるもの)、一階の論理述語まで含まれています。要は 論理的に、定義(公理)は証明できなく その系は演繹で構成される というものです。したがって 定義が変れば(思想の根幹が変れば) その数だけ 論理ができるというものです。哲学を論理で思考するなら定義の数だけ 出来上がります。定義とは何か、が重要です。言葉の説明を根幹に遡るり それ以上遡れない あるいは 説明の堂々巡りが始まる 言葉です。ある定義と別定義は 独立したものであります。定義が変ればその論理系も変るという 相対的考えを論理的に徹底させたものです。言い換えれば10人10色の考えを論理的に認めたものです。もちろん非論理の展開は入る余地がないと思います。 これに対してモダンとは何でしょうか。いまだ分かってないにしても絶対真理があると考え、デカルト以後 論理、科学的実証、あるいは非論理を駆使して絶対真理系を構築していくものとおもいます。一部宗教も含まれるとおもいます。例えば マルクス共産主義は その一つと思います。弁証法を用い論理解がない場合の答えを見つけるのです。あるいは ニュートン力学に代表される 真理追究の科学もそうでしょう。絶対真理に近づいている と考えるわけです。 このようなモダン思想がゲーデルによって根底から論理的に覆されたと思います。それは モダンの言う 定義(公理)が証明できない ということが証明されたからです。哲学界では 比較的早く ポストモダン思想は受け入れられたと思います。定義から始まる論理系は 唯一絶対ではない ことは直ぐに分かるところでしょう。ただ 論理学的に厳密にゲーデルが位置付けた ということでしょう。ところが 科学の場合は 観測という証明手段があり これにより 科学の論理系が絶対証明される のではないか というモダン的期待が今も根強くあるのです。よく考えて欲しいのは この観測手段とは 何かであります。その科学の論理のなかから 発明されたものであり 定義を証明できるものでは ないということです。定義をかえれば 新しい科学がうまれるのです。もう一つの科学の例をあげましょう。モダン科学の理論では 理論で展開されるものは対象の現象を過不足なく説明できるはず だということです。例えば10次元モデルの宇宙理論 がありますが 現実には4次元までの観測しかできません。モダン科学から観ると6次元の余分なものが展開される理論は 科学理論ではない となります。一方 ポストモダン科学からみると 余分な理論があっても全く問題なく 定義さえしっかりしておれば 十分に利用され得る理論系が生まれるのです。そのような観点から 科学は見直されるものと思います。論理の構造を知った上で 論理主張をして欲しいと思います。もちろん これは科学に限ったことではありません。 ポストモダンとは 理論(言語表現の一つ)の限界を弁えた 多様な系が創りうる ことを示したものと思います。特に、論理学の一つ科学については 未だモダン的発想をしている専門家が多いように思います。また 哲学についてですが 私は 哲学は主張の一つと思っているのですが 論理は説明道具の一つと思います。が非論理的説明も根強く残っている と思います。しかし、私にとっては 非論理の哲学は 意味がないようにおもわれます。
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- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 たとえば ( a ) ひとは ほかの誰でもなくひとりの《わたし》である・そしてまた孤独であるというかたちで社会的に独立した存在であると同時に この孤独が孤独関係であるというように社会的に互いにかかわりあって生きる関係性を持つ存在である。 ☆ こういったとき ポストモダンは 《独立性を持つ存在》の側面についてモダンの流儀では《絶対者のもとにある主体性》として規定していると勝手に決めつけました。(あるいは その主体性の内容として無謬性をも帯びるといったかたちで 極端なものに解して決めつけました)。 その代わりに自分たちは 振り子の揺れを反対側に触れさせ切って ひとは《関係性をもつ存在》であるのみだと つまり人間存在は《社会関係》でしかないと言おうとしたのでした。 網の目のつくり(ネットワーク)で 結び目が《独立性》でありさらにそれを極論して《何ものにも左右されない自由意志を持ちこれを発揮する主体であること》だというわけですし この結節点をつなぐ線は 《関係性》だというわけです。しかも ポストモダンは 人という存在は この関係としてのみあると言おうとしたようです。つまり 《無主体》説です。 これだけを述べて あとは ソシュールの《言語記号の恣意性》説を批判しておきます。上に述べたことをむろんおぎなうためです。 《言語記号の恣意性》説に対して反証例を掲げるかたちです。 / nVgV /という形態素を取り上げます。 / V / は母音を表わします。このシニフィアン(言語記号)が同じなら シニフィエ(意味内容)も同じく《障害の除去》という意味として同じだという例を挙げます。ソシュール説は そんなことは成り立たないというものです。 (1) / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ ・切り払うべきもの・波風・心の動揺がそれぞれ順に障害ないし邪魔と見做され これを除去する・これが消滅する というシニフィエとなっている。 (2) 《投げる nage-ru 》と《流す naga-su ・流れる naga-reru 》と《長い naga-i 》の三語は すでに互いに同じ語根から発生していると説かれている。 nage-ru 投げる (障害なく 延びて行かせる) naga-su 流す (障害を避けて 延びて行かせる) naga-reru 流れる (障害を避けて 延びて行く) naga-i 長い (障害なく延びた状態にある) (3) 《和ぎ nagi 》関連。母音の交替を加えています。 nago-ya-ka 和やか (障害が消滅した状態) nago-mu 和む (障害が消滅していく) nagu-sa-mu 慰む (障害を除去させる) negi 祈ぎ・労ぎ・禰宜 (障害の消滅を希求) nega-u 願う (障害の消滅を希求) ☆ 以上です。このとき恣意性説――これにもとづき ポストモダンの《無主体》説が派生します――によれば この説は成り立たないというものです。 網の目の《つなぎ=関係性》としての言語記号が―― / nVgV / のかたちにおいて――同じであっても その《結び目=つまり〔ほかの誰でもない〈わたし〉という意味での〕独立主体》は――すなわちその / nVgV /という記号の帯びる語義は――個々ばらばらであって 法則的に同じではなく 同じではありえないということのようです。これは あきらかに間違っていると言っていいでしょう。つまり批判されたと言ってよいでしょう。 もし外国語どうしで比較しなければならない つまり外国語どうしなら《記号と意味とは合理的な法則性を持って同じではない》と反論するかも知れません。ならば 日本語だけを例外とするという主張になります。ならば その例外視について証明せねばならないでしょう。論証責任は 恣意性説を唱える側にあるでしょう。 すなわちこの簡単な批判においての限りでですが 人という存在は 互いのつなぎとしての関係性を持つことは言うに及ばず しかもその結び目としての独立性―― 一人ひとりが自由意志を持つこと――を帯びていると言わねばなりません。《無主体》ではありえません。 つまり結論としてポストモダンは 人間はこの主体性のない幽霊のような存在だと唱える単なる阿呆です。すべては この初めのボタンの掛け違いから派生していると言っていいでしょう。
お礼
記号論は全然分からかったので、こういう解釈の仕方があるのを知って新鮮でした。主体性のない幽霊ですか。こういう解釈のしかたもあるのですね。回答ありがとうございました。
- 雪中庵(@psytex)
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「ポストモダン」という場合の「モダン」は、一般名詞としての 「近代」ではなく、「モダニズム(近代合理主義)」を意味しています。 それまで(中世)の、宗教的社会・伝統的文化の先入的価値に対し、 科学や技術、経済や政治の発達により、個人の意識において因果 関係を明確化しえる(と信じた)合理的規範に基づく社会的営為を 「モダニズム」と呼んだのです。 その過剰な自信の極限の1つが、自ら「唯物弁証法」を標榜した 社会主義・共産主義であり、その「人は物欲によって動く生産機械」 という浅薄な理解に基づく“合理主義”が、いかなる末路を辿ったかは、 ご存じの通りです。 人は単なる機械ではなく、人の権力欲や同情など、良くも悪くも心に 焦点を当てずに考える「社会的営為」は、歪み(社会主義の権力腐敗、 資本主義の衆愚荒廃)を招く。 その反省が、「ポストモダン」と呼ばれるムーブメントであるが、実は 1つのポリシーではなく、明確=短絡過ぎたモダニズムに対する反動 の集合であって、未だモダニズムに代わる確たる思潮とはなっていない。
お礼
わかりやすかったです。ありがとうございました。
答えるのが難しい問いですね。そもそも「モダン」が定義できない多義的な語なので、何が「ポスト」化されるのかも、厳密にはわかりません。分野によって意味が随分と異なるようです。そこでズバリと定義するのではなく、大雑把に背景などを説明してイメージをつかみ取ってもらおうというのが、私の解説の戦略です。 文系でいうポスト・モダンの概念は、1960年代にあらわれた「フレンチ・セオリー」以降でしょう。ゲーデルなどが重要な影響を与えたのは、ヴァレリーの「『女神を識る』序文」などにも見て取れますが、これはまだポスト・モダンといえる段階ではないようだと感じます。ポスト・モダンの論客となれば、フーコー、デリダ、ドゥルーズですが、1960年代が活動時期です。 この背景にあったのは1960年代フランスの学生闘争です。ここでは既存の権威を疑うということが行われていました。そこでNo2の猪突先生の回答は、ある意味で正しいのです。場合によっては目立ちたいだけの勘違い青年もいたかもしれません。ただしこれだけというのでは、必ずしも正確ではありません。当初の目的は、既存の権威や通説を再検討に付すということであって、学問というより、問題提起が重要だったのです。 デリダが脱構築という概念を提唱し、ソシュール等を援用しつつ、パロールの権威を否定しエクリチュールを見出したのは有名な話です。特権的な主体から発せられる言葉ではなく、文面そのものを再解釈する契機が生まれます。これは一つの記号に一つの意味が対応するのではなく、多義的な解釈が生じるのを認めるということです。 こうなると旧来、通例的に、伝統的に踏み固められていた解釈の様式は根底から揺り動かされます(伝統的な解釈を踏み固めていたのが文献学ですが、現在でも理論と文献学は基本的に対立関係にあります)。 さて、フランス産理論はアメリカに輸入されることとなりますが、この時に「フレンチ・セオリー」と呼ばれ、背景を捨象され、何かまったく別の、喧嘩論法のようなものになり、百花繚乱します。おそらく日本の大学院では、どの理論が最強かなどと真面目に学生は考えていることでしょう。議論によっては、煙に巻くべくために論証の仕方にpseudoscience「疑似科学」が使われましたし、ソーカルがその虚構を暴いて見せたということはありました。最強か否かといわれると、疑似科学の手筋は敗北したと言えます。残ったのは皮肉にも、文献学に親和性のより強かった論法ばかりです。実際、ポスト・モダンの次世代の理論家は積極的に文献学を取り込んでいきます。 ただポスト・モダンの問題は論証の手筋の確かさではなく、むしろ問題提起の意義にあるといった方がよいと考えます。すなわちナイーヴに踏み固められていた権威に懐疑の目を向けるということです。そもそもドゥルーズとなれば、論証など出来はもとよりしません。隙の多い仮説は一つの提案なのです。 これは時代が求めていた議論だったといえるでしょう。理論の応用範囲は広範で、たとえば人種差別、男女差別、ジェンダー差別などに適応されましたし、こうした問題が見直されるのは、やはり六十年代以降の近年のことです。そして男性に対して抑圧されている女性が男性主体の体制を疑う際に、ポスト・モダンの理論は援用するとき、これは決して目立ちたがり屋の若者が権威に反発したというだけの意味ではないでしょう。「問題提起するだけ」でも、意義があったと言わなければなりますまい。その差別があった当時を思い浮かべる歴史的な視野を持たないと、ポスト・モダンはガラクタ理論を生産しただけという評価に落ち着いてしまいがちではあるのです。 さて、用例の解釈ですが、例が引かれていないので、特殊例をもってこられると、的外れなことを言うかもしれないというのが正直なところです。ただ基本的には、 ・既存の権威の再検討に付す、 ・特権的な主体や様式を分析によって解体する、 という風に置き換えて読めば、さしあたっての意味は通じるのではないかと思います。 ご参考までに。
お礼
問題提起的な面もあるんですね。回答ありがとうございました。
自分は理系なので、多少偏った見方なのをお断りしておきます。 ポストモダンの直接的な意味は、#1さんだと思いますが、動機は脱近代・脱構築だと思います。近代の構築主義の一つの精華が、構造主義なので。 構造主義は基本的に、構築主義であり、それに伴う要素還元主義に基づいていると思います。構造主義の要素は個々の個体でなく、関係です。それによって構築された構造は、それゆえ先験的なものではありません。その意味では近代の先端にあり、モダンと言われたのだと思います。 しかし要素関係により構築された構造は、結局のところカントの先験的理性形式の枠組みのように働き、主体と客体(シニフェとシニフィアン,私人と公人)の厳密な分化と、社会の組織化を進めます。モダニズムを理論として捉えた場合、これらの公理化は、他のやり方には見られない利点だと思います。しかし弊害も多々ありました。例えば、近代特有の官僚制(民間も含む)の構築です。 利点と弊害のトレードオフの維持が難しくなってきた現時点において出てきたのが、ポストモダンと考えます。弊害の本質は、構築主義にあるのではないか?、という問題提起です。なので脱構築です。 ただポストモダンは、問題提起しただけだと思えます。日本で言えば、浅田彰,柄谷行人,栗本慎一郎,舛添要一,上野千鶴子ら、当時学会のトリックスターと呼ばれた人達の発言には、話は面白いが結論がないという虚しさがありました。 最近ピーター・ラトゥールの虚構の近代という本を読みました。この本は、ポストモダンのその辺りの事情を、ばっさり切って捨てた後、脱構築後の再構築のあり方を試論したものと思えます。これもポストモダンと言えると思います。
お礼
脱近代・脱構築後のありかたですか。確かに脱構築後こういう物だと言うものがなく行き詰まりを感じるからポストモダンという言葉があふれているのかもしれませんね。回答ありがとうございました。
- cyototu
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私にも良く解らないのですが、要するに昔の達のやって来たことを勉強して来た後から生まれて来た連中が、その素晴らしさに圧倒されてしまい、どうやら本質的なことはもう全てやられてしまっているようだと勘違いして、何とか今までにない新しいことを自分もやって目立ちたいばっかりに、芸人の世界では絶対にやっては行けないとされている外連(けれん)に走り、やたら奇を衒って、数学や物理学の専門用語を生半可な形で使いまくって、文科系の連中を煙に巻いたのが、ポストモダンらしいです。だから、中身がまるっきりないんだが、その言葉はやたらに難しくって、その難しい言葉を使えるようになることで文科系の人は恍惚と出来るらしいです。ところが、ポストモダニスト達が物理や数学で使われる専門用語の意味を全く理解していないで使っていることが、物理学者のソーカルと言う人によって暴露されてしまいました。これは、ポストモダンとは何かを解るための一大事件だったらしく、「ソーカル事件」と呼ばれています。インターネットを使ってこの事件をご自分で調べてみると良く判ると思います。 人間て、意味の分からない余りにも難しい言葉を使われると、何かその裏に深い意味があるのではないかと勘違いして、その言葉が使えるようになることで恍惚と出来るらしいです。そして、そんなんで一生を恍惚としている人達が幾らでも居るらしいです。そんな例の典型的な例がポストモダンらしいです。 「アリストテレスばかりでなく大部分の哲学者がむずかしさをよそおったのは、空虚な事柄に箔をつけて、われわれの精神にうつろな、肉のない骨を与えてしゃぶらせ、好奇心を満足させるためでなくて何であろうか。クレイトマコスは、カルネアデスの著書から彼がいかなる意見をいだいていたかを全然知ることができなかった。エピクロスが著書の中に平易を避け、ヘラクレイトスがスコテイノスとあだ名されたのは何故だろうか。難解さは、学者が手品師のように自分の技倆のむなしいことを見せまいとしている貨幣であり、愚かな人間どもはこれで簡単に支払いを受けたつもりになる。 彼はあいまいな言葉のために、むしろ愚かな者の間に有名である。なぜなら、愚かな者は難解な言葉の下に隠された意味を見つけて感嘆し、これを喜ぶからだ。」 モンテーニュの言葉です。 どなかた、ポストモダンには私の言った以上の意味があると考えている方が居りましたら、それがどこでどうそれ以上の意味なのか教えて下さると、私も有り難いです。
お礼
人文系では衒学的側面もあるんですね。難しい言葉は正しく人に伝えるために必要だと思います。ひけらかすのは良くないですけれどもね。回答ありがとうございました。
- dogday
- ベストアンサー率29% (2313/7949)
主観で構成される構造主義(モダニズム)を客観から批判する行為ですかね。 常識的に定まっている世界や物語を、外部の力によって破壊する不条理な状態。 ドラマの結末が、役者がドラマを演じているテレビ番組だった。 とかそういう演出。 マトリックスとかトゥルーマン・ショーとか、蒲田行進曲なんかがそういう構造を持った演出がされています。 マンガだと夢オチなんかがそうですし、エヴァンゲリオンTV版の最終回もそう。 モダニズムが計算によって定められた箱庭的な世界構造なので、その外側の世界があって、外側の世界の都合で、関係の無い箱庭が動かされているというような構造主義です。
お礼
わかりやすい説明ありがとうございました
お礼
きちんと理解できたとは言いがたいですが、すっきりしました。非論理の哲学が意味ないかどうかは哲学の定義次第だとおもいますけどね。回答ありがとうございました。