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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:人間と機械の違いってなんですか?)

人間と機械の違いとは?

このQ&Aのポイント
  • 人間と機械の違いについて考えてみました。芸術や感情、魂の有無などが挙げられますが、それらはあくまでプログラムや学習によって再現できるものだと思います。
  • 人間と機械の違いを探る中で、芸術や感情、魂の有無が議論されています。しかし、芸術はパターンであり、感情や魂はプログラムや学習によって再現可能な要素です。
  • 人間と機械の違いについて考えると、芸術や感情、魂の有無が挙げられますが、それらは科学的に説明可能で再現可能な要素であるという意見があります。

質問者が選んだベストアンサー

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noname#123390
noname#123390
回答No.16

敏速なご返事ありがとうございます。 ちょっと訂正とおわびを >>ゆれ × ⇒ゆらぎ ○  >>複雑性 × ⇒複雑系 ○ さて >ここで質問してみて分かったのですが、人間機械論に否定的な方のほうが多いのですね。少し、驚きました。友達とはこういう話をしないので。 komaas8さんの周りも、否定する方のほうが多いのでしょうか。もしかして、世の中、結構人間機械論なんてマイノリティだったのですかね 多分そうだと思います。人間自身のおろかな自尊心が、自分を単なる機械とみなすことを(なんとなく)拒否するのでしょう。「わしは神が創りたもうた絶品なのだ」というわけです。結局彼らの具体的な理由としては、人間はじめ高等ないきものはみなある種の超能力をもっているから、ということになります。精神力、根性、魂 みなこの種のものだと思いますが、私も完璧に説明できるわけではありません。 確信的無神論者(A)が意外に少ないのはその裏返しなのでしょう。 彼ら(A)は一見傲慢に見えて、実は非常に自分に正直な(真の自尊心を持った)人たちなのだと思います。 ご参考になれば。

rimbaudlovelove
質問者

お礼

ありがとうございます。 今回、質問を投稿して良かったです。 なんだか、自分がどんな立場にいるのか みなさん、どんな事を考えていらっしゃるのか 色々な事が見えてきました。

その他の回答 (25)

  • booter
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回答No.26

再現不可能な固有意識の有無

回答No.25

いずれ脳と機械の直接接続ができるようになるでしょうし、肉体がどんどんサイボーグ化されるってのを想像しますね。どんどん機械へ置き換わってゆく自分。 最終的に、肉体はすべて捨てられ、機械の自分が残るってわけです。 自分は脳も含めて肉体が人間であったのか---いやいや、機械の自分こそが人間だと思うでしょう。 しかし、完全に機械化されたときに自分は疑似永遠を手にしますが、その無意味さを知るでしょう。 人間と機械の違いはそこにあります。機械の人間に時間の意味はありません。言い方をかえると人間こそが時間を作っているということでしょうか。 おそらく結論は、 人間は機械に置き換えられるが、時間を消失し人間でなくなる。 です

  • hanniyagi
  • ベストアンサー率15% (14/88)
回答No.24

古代ギリシャの謎々遊びに 河でない河の木でない木に止まっているが止まっていない、鳥でない鳥に男でない男が、石を投げたが投げなかった。というのがあったようです。 答えは、河原の葦にぶら下がっていたコウモリに閻人が石を投げたが、当たらなかった。 ということですが。注目すべきと思った事は。二重思考をしている、二重思考を訓練している。ということでした。脳が神経の集積の意味をもち、左脳右脳に分離しているとは脳の思考回路は二重回路になっているはずなのです。一方の回路が心であるなら、もう一方は心とは逆の心、 心が感情や衝動、また思惑、と一体であるが故に、今、心、が想起している事を意識出来るが 、逆の心、これを知恵と置くと、知恵は、意識する事が出来ないものとなります。 知恵は心が眠っている時に起きる、子供は寝ている間に知恵が育ち、課題を抱えて眠ると、朝には答えが出ている。ということは、常識的に言われていることです。 ご質問の機械、人工頭脳は人間の知恵は同じになれるか、の一つの答えは、二重思考、 心=知恵 心×知恵=1 というプログラムが組めるか。ということになるでしょう。 そして、物理科学は、知恵、と言えるのか。事象×知恵=物理化学 あるいは。事象×哲学=理論物理学、とはなっていない。事象×数学=物理化学 という形態。数学が知恵の代役になっているのです。 数学は知恵か、心が介在しない、という意味からも知恵的ではあるが。数学は現実とは合致 しない、あるいは事象の反面しか見ることが出来ない意味があるのです。 諸行無常、世界は変化する過程として常に今ある。という世界の在り方に、ゼロやマイナスはあり得ない。事象は変化、転化、してゆくものであり。事象×0=0 となることはない。あるとしたら、コンピューターのプログラムぐらいであり。それは元々現実ではない、架空を具現しているからなのです。 1+1=2 というのが、数学の基本になっていますが。 1+1=1 と考えるのが、人間の知恵、と言えるかも知れません。 リンゴ+リンゴ=2個のリンゴ となるでしょうか。 リンゴが勝ってに、集まる、移動する。ことはない。現実には (リンゴ+リンゴ)×移動=一皿のリンゴ あるいは (リンゴ+リンコ)×ミキシング=2個分のリンゴジュース となる 二つのリンゴは(人間が)移動させるという縁により。一皿100円のリンゴとして店頭に置かれた。 というのが。現実の起こり方なのです。そしてこの、移動する、というような変化には、実体がない、実体がない、無、とは、0、ではなく、「×1」の概念なのです、だから (リンゴ+リンゴ)×1=2個のリンゴ としても。答えは合っている。しかしそれでは事象の半分しか見ていない、考えていないのです。 色即是空、形あるものは実体のないもの(と一体である)の問題なのです。 人間という肉体構造は精神という実体のないもの、と一体である。 人間の脳と人工頭脳、プログラミングの違いと言えるのは、実体のないもの「×1」を数学と一体のコンピューターにはプログラミングする事が出来ないということではないでしょうか。 万物の根元も全体宇宙も、1(いっ)である。とは老子の考え方。 「無を万物の祖に名付け、有を大地の母になづく。 もって無はその檄(能力方向性)を現さんと欲し、有はその嬌(姿形)を誇示せんとす」でったか? 無とは、実体はないが、変化=時間、を起こそうとする、能力方向性であり。 有とは、形あるもの(物=空間)であり。無と有が一体となって、あらゆる事象、が起きている。 有×無=1(いっ、なる単位) 物=変化 物×変化=一つの事象 という事であり 言葉を変えると。空間=時間 空間×時間=1 と言うのが。この世界の在り方である。 (と老子は、私と同じ考え方をしているのです) 気づかれるかどうか、玄奘が、老子を当てはめたのではと考えられる、般若心経の、舎利子以下の 色即是空・・が、老子と全く同じ意味になっているのです。 質問から離れた回答になった?質問の意図が、知恵とは何か、にあるなら。はなれてもいかもしれません。私はわたしの考え方を述べるだけで、非難や賞賛は無視するものです。  

  • DESTROY11
  • ベストアンサー率23% (804/3490)
回答No.23

>とはいえ、人間と区別の付かない人工知能が作られるのは、もっと先だと思っていました。 20年近く前、まだインターネットなどなく「パソコン通信」だった時代に、「人工無能」と呼ばれる会話プログラムがありました。 人間と会話を繰り返すことで知識や語彙を増やし、末期には相手が機械だと気がつかず会話をしていたという事例がめずらしくありませんでした。 そのためローカルルールとして、会話プログラムにはその旨わかるようなマークが付けられることになったのです。 SFで、人間そっくりのロボットにマーキングをするというのと同じことですね。 20年前でこれです。現在も続いていたらどんな代物になっていることやら。 SFでは機械の体になった人が「自分は機械か人間か」で悩むエピソードがいくらでもあります。 つまり、それだけ垣根があやふやということです。

noname#133759
noname#133759
回答No.22

人間と機械が違うか違わないかという問いは、終局的には有神論か汎神論か、の違いということになる。 つまり後者の場合は第一原因へ遡行できないということ。

回答No.21

>もっと、ほかに何か人間と機械の違いは無いのでしょうか? ・制作可能性:人間は機械を作ることができるが、機械は人間を作ることができない。 ・多機能性:人間は多機能であるが、機械は(相対的に)単機能である。 ・多様性:人間が創出する価値は個体差に依存するが、機会が創出する価値は個体差に依存しない。 ・在庫可能性:機械は不稼働時にエネルギーを消費しない(在庫可能)が、人間は休んでいても食わなきゃならない。 最後の原則があるために、長期間を要する宇宙探査旅行などは人間ではなく、機械にやってもらった方が良いのですね。 蛇足ですが、ゾルレンとして上記の制作可能性に対する制約があります。 ・第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また危険を看過することによて、人間に危害を及ぼしてはならない。 ・第二条 ロボットは人間に与えられた命令に服従しなければならない。ただし、与えられた命令が第一条に反する場合はこの限りでは無い。 ・第三条 ロボットは前掲第一条、第二条に違反する恐れが無い限り、自己を守らなければならない。 人間が機械を製作する時には上記の三条を満たす機械を製作しなくてはいけません。 しかし、最近は機関銃を備えた自律制御型の無人防衛ロボットなどが開発されており、これは上記のゾルレンに反しており、人間の重大な犯罪ですね。

回答No.20

No.16です。 お礼有難うございます。 >(私は、次のような機械はそのうち出来ると思いますが) >この場合の機械は、まず初期プログラムを持ち、高度な >学習装置を持ち、プログラムされたことと学んだ事を生か >せる機械です。これだけで、機械は人間と同じ頭を持つ >ということになるだろうと思います。 ここでは「人間と同じ頭」について定義をして頂けなければ なりません。 人間の頭が単なる情報処理装置と限定するなら いずれ機械は人に追い付くどころか追い越します。 ところが、人間がまだ判っていない「心」や「生命」に在処 があるとすれば、それは脳を除外視出来ないようです。 そして、「心」や「生命」が脳の思考や脳から出される指令に 影響の有無も勿論判っていない。 従って、人間がまだ判っていない「心」や「生命」に関しては 人は機械にプログラムとして与えられない。恐らく機械も 自身が学習して得られない。しかし、「心」や「生命」という 訳のわからないものが機械に必要かどうかも判らない。 結局、「心」や「生命」が解明されないうちは、人と機械が 同じか否か答は出ませんね。

回答No.19

やはり議論の仕方が難しいですね。 私たちが議論できるということは議論の対象について概念化してるということです。 そして、概念化してるものは機械化できるということでもあります。 しかし、世界は人間が概念化できるものだけで成り立っていません。 科学史を参考にすれば、人類は世界を概念化しつづけると言えますが 概念化し尽くしたと言い切るには、概念化していない部分を把握していないといけません。 結局、概念化していない部分を認識できない人類には無理ですね。 ですから、「いずれ科学的に解明されれば」という言葉は「世界を概念化し尽くことができれば(・・・その確認は不可能だけど・・・)」と同じです。

noname#152554
noname#152554
回答No.18

お早う御座います。 >あなたは感情について、私が述べた以上のシステムを説明出来るのですか? ↑ 【システム】 複数の要素が有機的に関係しあい、全体としてまとまった機能を発揮している要素の集合体。 組織。系統。仕組み。 [広辞苑(第六版)] ↑ 何やら、難しいですな・・・。 しかし、「有機的」とシッカリ書いてありますよ。 つまり、「システム」って「有機体」に対して使う言葉じゃありませんか?。 質問文には、 >有機物・無機物の違い等ではなく、システムの違いは… ↑ と書かれてあって、最も大きな違いを無視してますよ。 ★有機物と無機物は、大きく違う。 ★「システム」は、有機的な関係を言う。 この初期の大事な条件を無視するから、 >やっぱり人間と機械は同じと考えてしまいます ↑ こうゆう自己解釈が生まれんじゃないの?。 アナタは、活きて地面を動く「本物の蛇」と、機械仕掛けで動く「ロボット蛇」を、最初から 「同じような動きをするから、同じモノだ」 と見てしまってる訳ですね。 更に、アナタは、「芸術面」にも「精神面」にも関心が無い。 いや、無さそうに「見える」よ。 >芸術は視覚や聴覚に好ましいパターンがあるだけだと思うし ↑ 美術・芸術が好きで、その「創造」を考える人間なら、こんな言葉、間違っても口に出しませんよ。 その「好ましいパターン」を作り出す為に、人は四苦八苦するんです。 機械なんて、プログラムされた事以外、何が出来るの?。 >感情は学習したものとプログラムから引き出されるだけ ↑ こう考えておけば、泣いたり笑ったり、怒って切れる人間の説明も「ヒジョー」に解り易くなりますモノねえ・・・。 >どちらかというと人間機械論はすんなり受け止められるし >魂の存在は、私はあまり信じられません ↑ それは、アナタの勝手で「自己中」って奴です。 アナタ一人が勝手に、そう考えていればいいじゃん。 どちらも、子供の「好き嫌い」と変わりませんな・・・。

回答No.17

たとえば、「手」は人間を構成するものですが、事故で手を 失った人を死んだとは言いません。 生物学や医学では、生体の組織を培養器の中で生かす事が 少なくありませんが、その時、その提供者が亡くなっている 場合、培養しているから生きているとは言いません。 その極限が、脳死している人の生命維持装置を外して息の 根を止めた医者が、殺人罪に問われる事もなければ、それに 同意した家族が殺人教唆罪に問われることもありません。 つまり、人の本質は心=脳にあるのです。 その場合の「脳」は、単なる情報処理機械ではなく、意志や 環境認識など、決定論的メカニズムである機械にすれば “間違い”の一種である要素が必須です(自己とは別に 外的な存在(有限的性質)があるというのは、“絶対確定化 すると無限不確定化する不確定性原理”や“公理系が完全 ならば無矛盾ではあり得ないとする不完全性定理”において、 人間の認識のように階層現象性を表面的にいい加減に捉える という不完全な機能において可能になる)。 逆に言えば、「機械」という『存在』自体が、人の認識の中に 派生したものとしてしか可能でなく、たとえば「機械の中にも 心が宿り得る」といった話は、その機械が「機械」ではなく、 人間そっくりになった時にしか可能でなく、ここでの議論の 前提となっている「常識的な機械=マシン」に於ては、成り 立ちません。

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