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五戒を守ったらどうなる
仏教には守るべき五戒というものがあるそうです。(1)不殺生戒(2)不偸盗戒(3)不邪淫戒(4)不妄語戒(5)不飲酒戒というものです。これらをしっかりと守ることでどんな社会を出現させたいと仏教は考えているのでしょうか?あるいはこれら戒めを破りつつも、そのたびに悔悟するようにせよとしておられるのでしょうか?
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こんにちは。 ブッダもそれは苦労したと思います。考えに考えたのだと思います。 ここでは 五戒のうち《ころすなかれ / ぬすむなかれ / うそ・いつわりを言うなかれ》は およそ普遍的な道ですので そして《不飲酒戒》は一般にどうでもよいと考えられると思うので 《姦淫するなかれ》のみを取り上げます。 基本的な考え方として 戒律・禅定・智慧のみっつがまとまってひとはめざめる(ブッダになる)ということだそうですね。 おそらく戒めを守って難行苦行をしたから悟りが得られるとかいうのではなく(ただし得られないというのでもなく) いちど心にたましいの落ち着きを得たからもう大丈夫だというのでもなく(でも いちどの即身成仏ですでに生涯のやすらかさを得たという見方もあるようで) 智慧がすぐれているからもう何が来てもだいじょうぶということでもなさそうで。・・・ 動機としては 生老病死の四苦をあきらかに見ることを目指したとも言われますが 老病死のみっつの苦については分かりやすくても 生という苦については 分かりづらい。宮元啓一の説によると――これはわたしは bonbonnier という方からおそわったのですが―― 生存欲のことだそうです。なおまだ分かりにくい部分を残すと思いますが 周りのことが目に入らずただひとりだけにおいて生きようという欲望に駆られているときの無明(無知)なのでしょうか。 ▲ 宮元啓一:苦楽中道――ゴータマ・ブッダは何を発見したか―― http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/kuraku.html ☆ これによると まづブッダが初め修行のためについた仙人らのおしえは こうであったと言います。 ▲ ~~~~~~~~~~ 輪廻←―行為(業)←―欲望 すると、輪廻的な生存をやめるためには、つまり解脱にいたるためには、善悪の業を滅ぼせばよく、善悪の業を滅ぼすためには、欲望を滅ぼせばよいことになる。この解脱のメカニズムを図示すれば、つぎのようになる。 欲望の滅―→業の滅―→輪廻の滅(解脱) ~~~~~~~~~~~~ ☆ ところがブッダに分かっていたこととしては この《欲望の滅》などは 一時的な・心理的な・うわべのことに過ぎないということ。そこで到達した結論としては 先に触れた生存欲としての無明なのではないかだったと。欲望の起こる根源を見つけたのだと言います。 ▲ ~~~~~~~~~~~~~ 輪廻←―善悪の業←―欲望(貪、瞋)←―根本的な生存欲(渇愛、癡、無明) ・・・では、欲望のよって起こる根源である根本的な生存欲を滅ぼすにはどうしたらよいか。それは、ふつうの人間には自覚できないことをはっきりと自覚すること、根本的に無知だった状態から最終的に脱出することである。 これを可能にするものこそが、無自覚、無知の対極にある智慧であると、ゴータマ・ブッダは見たのである。すると、解脱のメカニズムは、図示すれば、つぎのようなものに改められることになる。 根本的な生存欲の滅―→欲望の滅―→業の滅―→輪廻の滅(解脱) ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ただしこの智慧は わたしに言わせれば たとえば梵我一如としての世界との一体感に見られるような《心がやわらがしめられている状態》だとは思います。そのことは措いておいて ブッダの考えによると 五戒のうちの特にいま取り上げている《(3)不邪淫戒》はたとえば ▲ 苦行は心身を清澄にする効能がある。 ☆ といった観点からも 智慧に到るひとつの道であると考えられたようです。 ★ どんな社会を出現させたい ☆ かと言えば 一人ひとりが世の中について ものの見えたる境地に到っている社会であろうと思われます。 ただ たぶんですが ブッダは なにぶんにもブラフマニズムを否定しておのれの説を打ち出しましたから けっきょく神はいなかったわけですし 後世に説かれて来る仏性も明確には言わなかったので 拠りどころがあいまいに成ってしまった様子です。 《おのれ》を拠りどころにせよと言っているか あるいは《ブッダ自身 もしくは 観念のブッダ》をそれとするか。さらにあるいは 《戒律のみ もしくは その修行のみ》という派閥を生むことになってしまったか。《言葉では何も言い表わせない》という密教方式に走ったか。などなど 拠りどころは不明確・不明瞭なものとなりました。つまり多様なものとなりました。 ぎゃくに言えば 仏性 このひとことで済むはずだとも言えます。 それにもましてブッダ自身が唯一のカリスマになってしまったとすれば そのおしえは――わたしには――インチキだったと思われます。
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- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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ANo.7において、質問者さんのコメントを頂きました。 【「五戒を完全に守ることは困難だ」とおっしゃるのですね。そうしてなおかつ疑問が残ります。「守れそうにない五戒」なのか「強く守れ」なのか?守ることで何が得られるのか?】 1. 「五戒を完全に守ることは困難だ」という件 そういうフレーズでの表現をしておりましたか?いい抜けではありませんが、そういう意味の事は申し上げておりませんで、人それぞれに一定の教えを頂き、理解し精進していきます。 同じ人はいませんが、オリジナル性は貫かれなければいけません。 言葉の意味や知性だけではなく、実際に精進する中で「不可能なアヒムサ」の実際の意味内容が始めて分ってくるものだと存じます。 知的い形式的に論理演繹して内容をことば化するものではなく、私達の人生での不殺生の意味を知ることでなく、その教えで何を実現し、自分の何をもたらそうとしているかのことだと存じます。 つまり教えの当為命題の出てきている基盤を自己に持つことだと存じます。 2. 「守れそうにない五戒」の件 私は五戒は守らなければいけないと存じます。それ以上ではありません、それ以下でもありません。 従って当然に、「守れそうにない五戒」ではありません。 素人ですが、“戒”をどう理解するかではないですか? 自然界、動植物の存在と存続。この遣り方に戒に違背しているとかなんとかいいますか? 毒蛇が自己の保全のために殺そうとしなくても人を噛んで殺して、殺人になりますか? 毒蛇は誰の毒を持っているのですか? 毒蛇はその毒で自分は死なない。 創造界の中に、人間には不正義や不道徳となるようなことがたくさんあって、創造の主格は決してそれで影響を受けていない。 人間への五戒ですからね。 3. 「強く守れ」 ANo.10でも出しましたが、在家にも出家にも強く守れです。 どうでもいいでありえません。してはいけないこと、私達、Self-Realization Fellowshipの教えでは、ヤマという禁則があります。そしてニヤマは積極的な、逃げないで行いなさいということ。 そしてアサナという修行、プラナヤマという意識と生命のcontrol、そして内方化、集中、瞑想、サマディといきます。 五戒はその最初の段階の戒めです。当然守らなければいけません。 4. 守ることで何が得られるのか 自分自身の正常性です。
お礼
いろいろご意見を頂いて大いに得るところがありました。「五戒を守る」は目的でもなんでもない。私が私の勤めを(仏教徒にふさわしく)果たすためには五戒を守りながらでなくてはうまく行かないはずだ。このことを考えながら勤めをすることにします。皆様有難う御座いました。
補足
有難う御座います。「強く守れ」ですね。「仏法とは知識・認識でなくわが身を解決する(度脱する)方法だから、実行できなくてはならない」と思い至りました。皆様のお蔭で五戒を実行する意欲が沸いてきました。皆様有難う御座います。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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ANo.10:最初に ANo.10でいう行為とは、私たちにおいては、生活、呼吸、生理作用と生命作用を内包しております。 私はSelf-Realization Fellowshipというところの哲理で勉強と精進をしてきております。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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ANo.9のご回答で、私達の信仰では仏教はカルマ(行為)の修行(ヨーガ)だといわれていることの意味を理解する手掛かりがありました。 五戒はそういう中での、質問者が仰せの、(在家のための)ゆるい指針でもあるわけなんですね。 有り難う御座いました。
- neil_2112
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まず最初に確認しておきますが、五戒というのは在家の信者が守るべき徳目として存在するものです。後代には、三帰と五戒をセットで受けることが在家信者になるための儀式となりました。出家修行者のほうは、(見習いの期間はともかく)正式の比丘になるには、当然より多くの戒を受けますから、五戒の議論をするという際には、出家者と在家信者の違いを念頭において語ることが前提となります。 さて、この五戒は、あくまでも強制力のない徳目、もっと言えば「心がけ」です。ですから、仮に守れなくとも罰則もありませんし、懺悔も求められません。破ったことで在家信者の資格がなくなる、といったこともありません。比丘にとっての戒と違い、在家信者にとっての戒は、その意味では非常にゆるいものなのです。 なぜそのようにゆるいのかと言えば、五戒が目指すのが、いわば「心の持ちようの意識的な改善」といったものだからです。例えば、五戒を自ら受けて、かつそれを人前に表明した者は、もちろん積極的に生き物を殺そうとは思わないでしょうし、それだけではなくて、虫を踏みつけてしまいそうな場所を避けたり、足元が見えない場所などへの外出を控えようとも考えるでしょう。 仏教は行為の動機に重きを置きます。ですから同じ殺生でも、生き物を意図して殺した場合と、過失によって結果的に殺してしまう場合では、大いに意味合いが違います。五戒も、在家信者に過失も含めて是が非でも守らせようとしたわけではなくて、少なくとも故意に悪事を働くことは抑制しながら、広い意味で日々心がけを改善するような生活態度を求めたものなのです。いわば戒は広野に立てられた旗のようなもので、戒を受けた者は、その旗を常に視界に収めて定点を意識することで、自らの生活を反省的に営みやすくなるのです。 このことからもわかるように、仏教は個々人に対して、大きく言えば「自らをコントロールする人間として生きよう」という呼びかけを行ったと言えるでしょう。原始経典には盛んに、「自らを調御する」という言葉が出てきます。この言葉は、自分でよく考えること、感情や欲望に流されないように反省的に自分を見つめること、そしてそういった態度を怠らずに続けようとすること、そういった仏教の理想的人格に至る営みを一言で表わしたものと言えます。五戒もその理想にのっとったものです。 以上、要点のみ。戒のはなしは、誤解が多いだけに議論が錯綜しがちですので、整理の意味でとりあえずごく基本となることだけを書きました。何か補足のご質問があるようでしたら、時間をみて回答させてもらいます。
補足
No.8様へのお礼に付記しましたように「適当に五戒を守れ」ではないのだと小生は考えるに至りました。有難う御座います。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
#5 「適当に五戒を守れ」というのではないですよ。 五戒も三戒もいろいろ人によってあったと思いますし、伝わってきているし、その間には多少手垢もついているだろうし。 それ、それぞれにその中に入って、或いは一定の修行の中で頂きや出会をしてその内容が分ってくるものではないですか? 私は、言葉や知性で追究していく事は不適当な界だということを言っているのです。 また、釈尊など古代からのヒンドゥの教えの世界観って、宇宙は即、人体の知覚経験の用具での構成体ということでもあり、個人の修行は即衆生のためのものだという事でしょう。 意識は決して個体存在はしない、という論理と哲理ではないですか?
補足
思い違いをしていました。ごめんなさい。krya1998様は「五戒を完全に守ることは困難だ」とおっしゃるのですね。有難う御座いました。そうしてなおかつ小生には疑問が残ります。「守れそうにない五戒」なのか「強く守れ」なのか?守ることで何が得られるのか?
- jinseiwalk
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それらの五戒は末法には守る人はいないと釈尊は説き、仏法を持つ持戒だけでよいとされたのです。 何故なら仏法自体を守れないからで、いまは既存の宗派から新興宗教まで全仏教神と同化しているではありませんか。しゃれのようですが、どうかしてます。釈尊は最初仏教を説く時に宗教ではないとされ、神と霊魂の話しを禁じられました。 今や日本の寺院は神仏習合化しているのはあの教団さえお祭りに参加しているので明らかです。話しにならないほどです。南伝仏教でさえ神や仏像を拝んでいますので仏教ではありません。 ですのでこの質問自体成り立たないのです。五戒以前の仏教崩壊の現実には。 ただ持戒を守れる人には五戒を守ってほしいですね。そうすればもっとまともな社会が現出されるでしょうから。
補足
お釈迦様はよりよい社会をお考えだったのでしょうか。社会をより良くすることに責任をお持ちではなかったと考えておりました。有難う御座います。それにしても守れそうな戒めなのでしょうか?
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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仏教徒というより、日本の民族に生きているということで仏教の中で私達は育ってきていますので、考えることを投稿する資格があるかもしれません。 1)は言葉を字義通りに形式的に理解すれば、食事も呼吸もできませんし、道を歩くことも出来ませんね。 そして害獣や害虫も殺せないし、病原菌もやっつけられませんね。 このことは自分の修行の実践として、その実践のプロセスで自分で考えるより仕方ないのでしょうね。 3)はセックスをするな、ってことではないですよね。 2)、4)、5)は当然なんでしょうね。 そして修行はmmkyさんが仰せのように、自分の為でもあり、創造存在界全体の為でもあります、ということでしょう。 そういう修行のための諭し、綱要を示したのが五戒なんでしょうね。 こういうものは得てして、言葉だけに頼って内容の確定をしようとすると分らないものです。 言葉では表せないことを、逝っているのだと存じます。 そしてそのいっていることの背後に更に一定の経過と一定の世界のことを前提しにしていますでしょうから、そういう斟み酌りをする実際の生活が必要ですね。
補足
「適当に五戒を守れ」とのお釈迦様のおさとしだったとのお考えですね。有難う御座います。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
これらをしっかりと守ることでどんな社会を出現させたいと仏教は考えているのでしょうか? ○ 釈尊が出した5戒は個人を幸福にすると同時に社会をも幸福にするものなのですね。 仏教でいう悟りとは個人と社会の幸福論なのです。 五戒の(1)不殺生戒は、当時の階層社会では自分より低い階層の者を殺しても罪に問われなかったという事情もありますね。自分たちだけよければ他を害してもよいという考えは社会の幸福論に反しますからね。今でもアメリカなどでは無断で敷地に入ったということで殺されることがありますね。銃社会はインドの当時と同じですね。このような社会はよろしくないというのが不殺生戒ですね。 (2)不偸盗戒: これも同じですが。「盗んで何が悪い。」という国や国民は未だにたくさんいますよ。 まねではなく盗みですね。よその一部の国では普通なことですね。これでは社会の幸福にはなりませんね。当然、個人の幸福にもならないですね。 3)不邪淫戒:不倫するなということですね。不倫は家庭を壊し、結果として社会を壊すということですね。例えば、アメリカなど見て御覧なさい。離婚が多いと子供が正常な幸福を得られませんね。 不倫の勧めのような本や作家もこの不邪淫戒に触れるわけですね。 (4)不妄語戒:個人は当然のこととして、北朝鮮や中国共産党の宣伝見ればわかるでしょう。個人のみならず国家や団体が嘘をつくと決して国民は幸福になりませんね。 (5)不飲酒戒:これはちょっと解釈が必要ですね。当時のインドでは暑いので出来の悪い酒を飲むと死ぬということがあったという理由と、宗教的生活では霊的なものがありますからそれに障るという理由ですね。現代的には「麻薬をやるな。」ということですね。 酒やタバコを適度にたしなむことを否定しているわけではないのですね。呑みすぎ、食べすぎは個人にも周りにもよくないという理由ですから幸福論ですね。 以上のように5戒を守るということは個人や社会に幸福をもたらすということですね。 特に、個人に対しては5戒を守って生活すると、目には見えませんが戒体という一種のシールドが出来るのですね。それによりいろいろな実際の惑わし、霊的な惑わしから自身を守れるようになるのですね。 これは悟りという幸福を手に入れるための実践論の一つなのですね。個人の幸福が社会の幸福につながる、強いて言えば小乗から大乗へということですね。そういう深い意味もありますね。 ・・・ということでわりと深い意味がありますね。
補足
「適当に五戒を守れ」とお釈迦様がおっしゃっておられた訳はないないと考えておりました。一方厳密に守りきれそうにないとも思われます。mmky様は「適当に説」でございますね。
釈迦は弟子に五戒を与えましたが、社会には何も戒を与えていません。 釈迦の思想と、仏教はまた別のものであり、現在の仏教と釈迦の教えは似て非なるものですから、五戒とは関係ありません。 釈迦は解脱する為の法として、五戒を弟子に与えました。 弟子によって様々な戒と導きを与えています。 元々宗教は初めは、哲学であり理想社会などは完全にあと付けです。 理想社会の実現などの話が聞きたいのであれば、大川隆法さんや、池田大作さんに会ってみる事をお勧めします。 めくるめく理想社会の話をしてくれる事でしょうから。(笑)
補足
コメント有難う御座います。お釈迦様は弟子が社会のごく一部に留まっていることを願っておられたのではなく、多分多数の人々が帰依することを願っておられたと考えました。この五戒を社会の大多数が守りきることが可能と考えておられたのか、そうとすればどんな社会を予想しておられたのかと疑問に思っての質問でした。大方の人には守りきれない、さらには出家にも守りがたい戒めをどうしてお授けになったのでしょうか、というのが質問の趣旨です。
- dame-kakuseizai
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殺さない盗まない、騙さない社会でしょう 3と5が1、2、4の原因になります 嘘吐きは泥棒の親、嘘吐きは淫売の子供です
お礼
「適当に五戒を守れ」ではなくてしっかり守れとのご趣旨であったとのこと、有難うございます。そうだとすると、五戒とは信者のための戒めであって社会に与える影響についてはお釈迦様が関心をお持ちでなかったと想像しました。「不邪淫戒をも含めて強く守れ、守らなければ悟りには届き難いもの」とのお釈迦様のおさとし考えます。ご紹介の宮元啓一氏のホームページも大層示唆に富んだもので感服いたしました。有難う御座います。この方向でさらに考えを進めることにします。