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『羅生門』の解釈について
小森陽一さんの『大人のための国語教科書 あの名作の“アブない”読み方 』↓という本の中で、『羅生門』は当時の天皇制に対する疑問を呈した(表現した?)作品、という解釈がされていたと思うのですが、こういった解釈は一般的(割と常識)なのでしょうか? あるいは、上記の本にオリジナルな解釈なのでしょうか? http://goo.gl/UIGYV
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あいにく、小森陽一の書籍は読んだことがないので、要領を得ないかもしれませんが、芥川の作品からは、人間のエゴイズムやそれを表現するリアリズムは認めることはできても、それ以上のもの(=思想)を芥川に求めると、解釈が破綻し始めるような気がします。 小森は、そういう解釈も教育の世界では「あり」というものだとは思います。 芥川は、明治政府で出来上がってしまった階級制度そのものに問題を呈したとは考えてよいかもしれないが、いかなマルクス主義に傾倒していたとしても、間接的であれ、当時の明治政府の天皇の批判、もしくは天皇制批判というか、階級制度の頂点に目を向けているとしてしまったとしたら、少なくとも文学論として、小森の解釈は、40年前ならあるかもしれませんが、いまとなっては、「時代ズレ」しているように思うのです。明らかに、マルクス主義文学として、階級闘争や弁証法的唯物論世界観を示しているならともかく、そうでないものに、そちらに方向を向けてしまうと、逆に、芥川の作品の持つ芸術性がボケてくるように思います。予め答えが決まっているような解釈などは、面白みに欠けるのです。 私は、オリジナルな解釈というものを知りませんが、しかし、小森が言う「マイナーな解釈」を、それを特化してしまったら、芥川の作品の解釈を矮小化してしまうように思うのです。 また、平安時代の世界観として、天皇というものが、いわゆる権力の象徴的存在として、尊敬であれ、諸悪の根源であれ、庶民に「明確な存在」であったのか、疑問に思うのです。北朝鮮における、金正日のように、良かれ悪しかれ独裁制のトップとして君臨しているものとは違うものだと思うのです。もともと、日本人は、階級制度の中で生活することを苦にしない民族だと言われます。政治と宗教を厳密には切り離せないのも特色です。だからこそ、天皇自体の仕事というのは、古代の頃はともかくとして、一貫して政治色よりも宗教色が強かったのではないか、と考えています。それで政治色を強めたのは、明治以降のものではないかと思います。 私自身は、高校の時に、教師から、そういう教育をされた記憶はあります。国語の授業に一体どこから、現天皇批判が湧き出してくるのか、さっぱり論理的に結びつかないのです。教師たちは、学生運動に加わった身であって、安保反対であれ自民党批判に始まり、天皇制批判、学生運動の実際など、教室内でしていて、それが国語であり、それが公立の高校教育だったというのだから恐れべき授業であったに違いないと思います。
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- isa-98
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もちろん、 今昔物語を基にした小説ですが不敬罪とも受け止められる節があります。 しかし、不敬罪とは天皇や皇族批判を意味し、 過去の事実などを包括するのかどうかまでは決まりはありません。 また、羅城門が幕府の政(まつりごと)になると解決した訳ではなく、 戦国時、 禁裏御料は次々と戦国大名が私有地化した為、 皇室財政は天皇の葬式も出せない状態まで陥りました。 織田信長は7千石の領地を天皇に献上します。 また、譲位(天皇が位を譲る。)は大金が必要ですがそれを融通します。 大儀での権力に対する疑問であれば十分有りだと思います。 死ぬまで生活の変わらぬ世界では疑問を持ち、変化が有れば期待を持つのが普通です。