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科学者は宗教上の儀礼とどうお付き合いしてますか?
毎年、お盆に父の田舎に帰ると思うのですが、宗教上の言い伝え(ご先祖様の霊や魂が戻ってくるとか)や儀礼になんとなく違和感を感じながらやってます。 ご先祖様を思う気持ちは大事だと思います。 だけど霊や魂などの話になると「?」を感じながら適当に聞き流したり、合掌の時も周りに対し、失礼に当たらないように祈っているふりをしたりしてしまいます。 科学を信じる皆さんは宗教上の言い伝えや儀礼とどのようにお付き合いしてますか?
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まず第一に、「儀礼」とは、社会習慣上の取り決め等のことをいい、それを宗教を理由にして行うことを「儀式」といいます。 よって、儀礼と儀式は完全に切り離して考えられるべきものです。 儀礼というのは、自分の身の回りにいる人々を不快にさせないため、もしくは周囲の人に礼を尽くすために行うことで、何かを信じる/信じないの問題ではありません。 なぜならば、「霊の存在を信じない自由」は憲法で定められた国民の権利ですが、「礼を重んじない自由」は個人の勝手で、この2つは全く別物だからです。
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- nozomi500
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自称仏教徒で科学者のつもりでいる、(どっちもいいげんな)者です。 亡くなったご先祖様は、極楽にいらっしゃるわけで、お墓ニいるわけではない。 極楽はどこにあるかというと、結局は残った人々の心の中にある。 自らの心の中にいらっしゃるご先祖様を、わざわざお墓に迎えにいく必要はない。 ご仏壇というのは、極楽の「テレビ」(あるいはアンテナ)であって、合掌したり法話をきいたりするのは、テレビの感度をあげて各人がご先祖様とリアルに対話する技術ですね。 4代まえのご先祖までいわれたら、知らないんだからどうしようもないけど。 (「テレビ」論は、30年ほど前に曾祖母の葬式で浄土真宗大谷派の住職に聞いた話です。他の宗派の方は考えも違うと思いますが。) 親戚の中で、「慣習」だけでお盆を迎えている人たちの中では、私がいちばんまじめにやっているつもりなんですがね。
お礼
回答ありがとうございます。 >極楽はどこにあるかというと、結局は残った人々の心の中にある。 そうかもしれないですね。 私も、亡くなった方々のことを時々心の中で思い出して、懐かしんだりします。 ただ、しらけるかもしれませんが、やはり、科学的真理とは異なってしまう。 割り切りも必要なのでしょうか。。。 ありがとうございます。
- hatman34
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科学者ではないですが、霊とか魂は信じていません。 私も子供時代は同じように感じていました。 (「合掌の時も周りに対し、失礼に当たらないように祈っているふりをしたりしてしまいます。 」という部分) 子供時代は、そういう見かけだけの態度にやましさも感じていました。 今は、やましさを感じずに礼拝できます。 幸い両親・兄弟は健在ですが、彼らが亡くなったら、心を込めて礼拝できます(霊とか魂を信じていなくても、自然な気持ちとして) そう思えるようになってから、単なる儀礼上の礼拝がやましい気持ちなくできるようになりました。 故人の身内の方々が、参列者の敬虔な祈りで癒される(こともある)と分かったからです。
お礼
回答ありがとうございます。 >幸い両親・兄弟は健在ですが、彼らが亡くなったら、心を込めて礼拝できます(霊とか魂を信じていなくても、自然な気持ちとして) 私も、身近な人やお世話になった人が亡くなられたら、多分心を込めて礼拝できると思います。 でも、父の田舎にいってする礼拝は、どんな人か全くわからない故人に対して礼拝してるんです。 私がまだ未熟なのかなぁ >故人の身内の方々が、参列者の敬虔な祈りで癒される(こともある)と分かったからです。 確かにそうだと思います。 故人の身内の方は、参列者が少なかったりすると余計悲しくなるでしょう。 故人の死を悲しんで祈ってくれる人が多いことは、遺族の方も嬉しいことでしょう。
- tannntann
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ガリレオが 地球がまわっているといって 破門されたり 宗教と科学者は折り合いが難しいですよね。 私は都合のいいことは 認めたいと思います。 お盆で ご先祖様が帰ってくるっていうのは 会いたい人に会えるような気がしますから。 お願い事を神様にお願いするのも かなえてくれる人が本当にいらっしゃったら 素敵だと思うのです。
お礼
>ガリレオが 地球がまわっているといって 破門されたり 宗教と科学者は折り合いが難しいですよね。 科学がどんどん新しい真実を発見していくのに対し、 むかしからある宗教は、昔の常識をもとに考えていたりします。 ですから、むしろ新興の宗教の方が最新の科学的真実と近かったりします。 (だからといって新興宗教を信じたりはしませんが) 科学と宗教は難しいですね。 回答ありがとうございました。
- acacia7
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科学者ではないですが、化学技術者をめざしていたことがあるので私見をひとつ。 僕の認識としては宗教とは「誰が総作したのか不明な、規則集及びその理由付け」です。 で、実はこれは科学をも包含しています。 例えば、物理は物の運動などの法則とその理由付けの集大成みたいなものですし、数学は数の性質とその演繹などです。 実際、そのルールを誰が作ったのか不明なわけで、 科学の目指す宇宙の真理なんかは神が決めたのかもしれないわけです。 宗教は過去の先人が決めたルールが神のルールということになってたりするかもしれませんが・・ となると、その場その場でどのルール集にしたがって行動するかは各自の自由だと考えています。 ただし、相手がどの様なルールで行動しているかを良くしっている方がスムーズなコミュニケーションがとれ、好ましいと思います。 囲碁をやってるつもりだったのに、相手が突然五目並べはじめたら困惑しますでしょ?・・ そうそう・・科学について追加すると・・ 科学は全てが実証済みであるわけでないことには注意が必要です。 つまり、真理であると一部の人が思っていることも他者には真理ではない場合が、科学上もありえるのです。
お礼
回答ありがとうございます。 >僕の認識としては宗教とは「誰が総作したのか不明な、規則集及びその理由付け」です。 で、実はこれは科学をも包含しています。 なるほど。考えさせられる意見です。 しかし、宗教も科学も誰がつくったのかわからない点では同じですが、科学的真理をつくったのは明らかに人間ではないのに対し、宗教はその宗教の教祖という人間がつくりました(宗教によっては「神の子」だと言っているのもありますが、立証できません) >科学は全てが実証済みであるわけでないことには注意が必要です。 つまり、真理であると一部の人が思っていることも他者には真理ではない場合が、科学上もありえるのです 納得です。 これまでの科学の歴史を見ても、進化論・大陸移動説・相対性理論・地動説などそれまで科学的に正しいと思われていたことが覆されることは多く、我々が、今科学的に正しいと思っていることが、将来覆されることも充分ありえることです。 ありがとうございました。
- First_Noel
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下の方も書いていらっしゃいますが,科学は信仰の対象ではなく, 信じる信じないにかかわらず,物理現象は起こります. 一方,霊を信じない人には,何が起こっても霊の存在を 感じることはありません. それが両者の違いです. ときどき,「科学を信仰する」なんてことが科学に批判的なところで 言われたりしますが,そもそも捉え違いだと思えてなりません. 科学者でも敬虔な方は大勢いらっしゃいます. とある宇宙関係の研究所でも,食堂のとき, 食べる前にお祈りをしている方がいらっしゃいました. また,米国人なんかは,熱心なプロテスタントでありながら, 科学・工学で働いている人もいて,そのバランス感覚は 素晴らしいと思いました. 私は,霊などのことは,自分以内にあるものとして肯定的です. 信仰も,私も一時期通っていた時期がありますが, 自分以内での規律と言うか持ちようと言うか,そんな心を 大切にしております. お葬式のときには合掌します.これは故人のことを精一杯思い出し, 忍ぶときのひとつの礼儀と言いますか,挨拶のようなものだと思います. 勿論,苦しいときの神頼みもしてしまいます. ただ,写真に写ったとか,怨念がどうの,とか簡単に言い切ってしまう テレビ等に対しては懐疑的ですし, そもそも亡くなった方やそのご家族にとても失礼なことだと思います. ご質問のことは,例えばキリスト教徒が仏前に出るときなどに よくあることらしいですよ.故人は天国にいるのに,なぜ仏壇に 手を合わせるのか?とか.これはこれで上手におつきあいする方法が あるそうですが,私は存じ上げません.
- neue_reich
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まず、科学とは信じるものではありません。 科学は単なる学問体系ですので、信じられなければ 自分で実証してみればいいのです。 その点は宗教とまったく異なります。 で、宗教上の儀礼についてですが、これはケースバイケースですが 通常は形だけ真似ていれば良いと思います。
お礼
儀礼と信仰は切り離して考えてよいのですね。 回答ありがとうございます。
科学と宗教は別物です。もし同じなら世界中の科学を信じる人(学者も含め)はすべて無宗教になります。日本人に多い無宗教的な人は仏教の影響だと思います。仏教は人の行き方を説く宗教でユダヤ教、キリスト教、イスラムのように絶対唯一の神を認める(強制する)一神教ではありません。一神教の国でも今日では無宗教の人もいますが、日本人の無宗教とは異なります。何故なら日本人は仏教渡来前からあった八百万の神や神道の環境の中で生まれ育っているので、仏教をを信じなくても、欧米の無宗教者と同じではないのです。 一神教の国でも日本のような原始宗教はあったはずです。 ギリシャ人、ローマ人、ケルト人などは元々日本と同じような多神教でしたが、後に一神教(キリスト教)に、民族固有の宗教は排除(抹殺)され、今日キリスト教の行事の中や森の小人などのような民話に僅かに痕跡をとどめています。従って日本人の思っている無宗教と彼らの無宗教は違ってくるわけです。 信教の自由が保証されている現代ですから、表面的な仏教の形式にとらわれる必要はないでしょう。霊も魂も存在しないと信じるのも自由です。このような心境は環境や年令、人間の限界を超えた生死の体験などによって変ってきます。15歳の考え方で一生を終えるわけではないでしょう。 現代の科学者を代表するような宇宙飛行士が宇宙で神の存在を感じたと言った記事を読んだことがあります。可愛い盛りの子供を無くした母親のうち、何人が人は死んだら動物と同じ、霊も魂も存在しないので、お盆など関係ないと考えるでしょうか。
人様が大事にしていることを軽々に扱うのは良くないと思うので、礼儀に基づいて対応したいと思っています。 でも、法話とかで本意を汲み取れないような奇天烈なことを言われると、自分の中でどうう受け取ろうか、折り合いをつけるのが難しいこともありますよね。
お礼
同感です。 礼儀はわきまえなければなりませんが、奇天烈なことを言われるととまどいますね。 回答ありがとうございます。
お礼
なるほど!納得です。 >儀礼というのは、自分の身の回りにいる人々を不快にさせないため、もしくは周囲の人に礼を尽くすために行うことで、何かを信じる/信じないの問題ではありません。 儀礼と信仰は切り離されたものとしてよいのですね。 回答ありがとうございました。