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傍らの可愛い幼児に危機が差し迫ったとき命を投げ出してでも助けるでしょう
傍らの可愛い幼児に危機が差し迫ったとき命を投げ出してでも助けるでしょうか。 その幼児が他人の子であった場合です。 また、助ける行動を起こす人と、起こさない人の心理的違いは何でしょう。 また、老若男女の差によっても違いがでるものでしょうか。
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- akiko0828
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よく人命救助した人のインタビューで「無我夢中だった」といいますが実際そうなんだと思います。 可愛いとか可愛くないとかこどもだとか大人だとかは関係ないことかも思います。 線路に落ちた酔っ払いなんかも助けようとするわけです。 助ける行動を起こす人と、起こさない人の心理的違い 日頃から他人に無関心は場合、とっさの場合にもやっぱりそうなんじゃないでしょうか。
御邪魔致します。 *その人自身に「命の危機も問わず助けたい人がいる」 *助けたい人と、眼前の「危機にある人」が重なる の条件が合致すれば「何も考えずに動く」 合致しなければ「理性が動いて躊躇」、、、となるのではないでしょうか。 3児の母をしておりますが、よくその手で困る事が多いです。苦笑 階段のある店舗で、階段前で遊んでいる兄弟が居て、遊びが過ぎて転げ落ちそうになる。 我が子達と似た年頃、背格好であれば、もう何も考えずに飛びつきます。 結果、自分が足をくじいたりします。 自分の傍らには、ちゃーんと我が子達が居て「あのおともだち、あぶないねえ」なんて しゃべっていたり、します。 そっか、、、今の子達は、うちの子じゃなかったっけね。。。と。笑 道端で遊んでいる小学生。 後ろから来る車に気づいてない様子。 それなのにふらーーっと車道に出て行きそう。 思わず大声が出るか、容赦なく腕をつかんで引き戻します。 我が子への対応、そのままです。 だから、相手にはびっくりされます。苦笑 その瞬間、「よその子」も「我が子」なのです。 常に常に、「こうなったらこういう事が起きる?」「こうしたらこういう危険がある?」 と脳内シュミレーションばっかりしていますので、それに合致する行動をする子がいたら、 それは「我が子」です。 いたずらでも、その気のない事でも、子どもと言うのは「予想したうちで一番最悪を実行する」生き物です。 それを如何に事前に阻止するか?が、親の最優先義務です。 それだけに追われて幼児の母というものは生きています。 だから、おっしゃるように、 >命を投げ出してでも助ける についてはいつも気をつけなくちゃ!と思っております。 自分の命も、ですが、傍らの(無事な安全な)我が子たちを、 私が飛び出す事で危機に晒してしまう事だってある筈です。 そうならないように、、、自制せねば、と。 やはり、何を差し置いても、自分を差し置いても、一番守るべきは我が子達、ですので。 でも、現実に目の前で起こったら、その子と我が子を重ねずに冷静に対処できる自信は私にはありません。 きっとまさに「頭に血が上る」だろうなあ、、、と。 参考まで。
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ご回答いただきまして誠にありがとうございます。 私見ではございますが、「可愛い」=「守りたい」であると仮想しています。 よって、助ける対象を「可愛い」と感じていれば衝動的に行動し、そうでない場合は衝動で行動することはないと考えています。 例え他人の子であっても、確かに「可愛い」と感じていれば、この衝動は生じると考えます。 回答者様のご回答は参考にさせていただきます。 ありがとうございました。
- konata508
- ベストアンサー率26% (514/1954)
私は「助けるのが当たり前」のような条件反射で飛び出してしまい、行動理由は終わった後に考えるタイプだと思ってます。ですので、冷静に対処しないとそのまま自分が死ぬこともあるほうでしょう。事実結構この手のことで後から反省した経験があります(実際に交通事故現場や災害現場に遭遇した経験があるんで)。 余計なことを考えて躊躇するとはっきり言って動けません。他人だろうが身内だろうが「行動理由は助けた後で考えればいい」でそれよりも先に「救出方法」や「救命方法」を先に考えるようにしてます。ですので、誰だろうが関係はないです。正直後から怖くなることやなんで助けたんだろうと終わった夜に考えて寝られなくなったぐらいです。
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ご回答いただきまして誠にありがとうございます。 私見ではございますが、「可愛い」=「守りたい」であると仮想しています。 よって、助ける対象を「可愛い」と感じていれば衝動的に行動し、そうでない場合は衝動で行動することはないと考えています。 例え他人の子であっても、確かに「可愛い」と感じていれば、この衝動は生じると考えます。 回答者様のご回答は参考にさせていただきます。 ありがとうございました。
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
助ける場合はある。 その場合 血のつながりがある場合のみ、自己犠牲を払う。 例えば高齢者が孫の代わりに勝ち目の無い敵に立ち向かい その隙に孫を逃がすとか。 種の保存を完了しているので、できる。 孫が祖父母の身代わりになり死ぬってことは無い。 これは他の動物もそう。 ですが、死ぬという認識が無い場合は、血のつながりが無い子も助ける。 血のつながりが無い人の身代わりに自分が死ぬという特徴を持つ人は、子孫が増えない。 そういうことをしないって人は、それでは死なず、子孫を作り続ける。 もし他人のために自己犠牲を払って死んでしまったら、残された子を養育する力が他の子より減るでしょ? すると養育が十分ではない他人のために犠牲を払う特徴をうけついだその子は、他人のために命を投げ出しやすくて死にやすく子孫を残しにくいでしょ? そういうことを何代も繰返しているうち、他人のために自己犠牲を払う遺伝子を持つ人は消えるでしょ? 自然淘汰の法則。
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ご回答いただきまして誠にありがとうございます。 私見ではございますが、「可愛い」=「守りたい」であると仮想しています。 よって、助ける対象を「可愛い」と感じていれば衝動的に行動し、そうでない場合は衝動で行動することはないと考えています。 例え他人の子であっても、確かに「可愛い」と感じていれば、この衝動は生じると考えます。 回答者様のご回答は参考にさせていただきます。 ありがとうございました。
- toshipee
- ベストアンサー率10% (725/7148)
ウチの子がいなけりゃ、助けてしまうかも。我が子に対して、親は正しく示したいエゴのような正義感が俺にはあるなぁ。あの世でたぶん自慢げに見られる気がして。親が子供に対して正しくなかったことも起因してるかな。無性にそう思う。
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ご回答いただきまして誠にありがとうございます。 私見ではございますが、「可愛い」=「守りたい」であると仮想しています。 よって、助ける対象を「可愛い」と感じていれば衝動的に行動し、そうでない場合は衝動で行動することはないと考えています。 例え他人の子であっても、確かに「可愛い」と感じていれば、この衝動は生じると考えます。 回答者様のご回答は参考にさせていただきます。 ありがとうございました。
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ご回答いただき誠にありがとうございます。 たとえば、「老人」と「子供」の二人の命のうち、どちらか一方の命を生き長らえさせる事が出来るとした場合、私は子供の命を優先すると思います。 同じように「自分自身」と「老人」、「自分自身」と「子供」だった場合、「自分自身」は「老人」に優先し、「子供」は「自分自身」に優先するように思います。つまり、「子供」>「自分自身」>「老人」となるように思います。「自分自身」も決して特別な存在ではなく、このような自然の摂理が人の深層心理にも深く潜んでいるのではないかと考えています。(道徳的、倫理的にどうかということには関係なく)