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なぜひとには自分の心情を押し付けるひとがいるのか?
- ひとに対して自分の心情を押しつける行為は、本当に人間と呼べるのか疑問に感じる。
- 一部の人は自分の心情に反する意見には耳を傾けず、自分の考えを押し付けようとする。
- このような人は自己中心的であり、他人の感情を無視する傾向がある。
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こんばんは、お世話になっております。Hidocchiでございます。 また、neutral様のお元気そうな言葉を拝聞し、うれしく思っております。 > ひとりだけは例外をつくって 自分の心情にさからうからという理由で おまえは消えろと言い あとの人びとには 一方で世辞をつくろい あぁいい考えですねと受け答えつつ 他方では自分の心情を是が非でも何としてでも押しつけようとする。こういうことしかしないひとは 人間と呼べるか? まず、結論から申しますますと、”人間”と解しております。 確かに、”珍種の生物”と考えたこともございますが........ 以下に愚見を述べさせていただきます。 おそらく、”特定の例外者を排除し、 他方では自分の心情を是が非でも何としてでも押しつけようとしかしない人”も、普段の生活では、よき同僚であり、よき親・兄弟であり、また、よき友人でもあるかと思っています。 ですが、ある集団関係(組織)の中では、逆に、排除・抹殺者ともなってしまうのではないかと考えております。 その中で、想起しましたのは、ナチスによるユダヤ人の迫害・殺戮をモデルにした”スタンフォード監獄実験”でございます。 つまり、ある空間(例えば、OKWaveコミュニティー等です)では、質問とそれに対する応答を繰り返していますと、「理性の歯止めが利かなくなり、暴走してしまう」ことが生じてしまうということでございます。特に、そのひとに人気があったり、かつ、そのひとに、”独自の正義感”のようなものが生まれますと、起こりうる可能性が非常に高いと推察されます。 そして、いったんそれが暴走してしまいますと、止めどなく繰り返してしまうものかと考えております。これは、”監獄実験”で、実験が中止されたにもかかわらず、「話が違う」と続行を希望したひとがいたのと同じ傾向かと思われます。 (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%89%E7%9B%A3%E7%8D%84%E5%AE%9F%E9%A8%93 からでございます) お役に立つところがございましたら、幸いでございます。
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ご返答いただきまして、どうもありがとうござました。Hidocchiでございます。 また、愚生へのお気遣い、また身に余るお言葉を賜り、重ねてお礼申し上げます。 ご参考までに、以下の文章を載せさせていただきました。 「戦前、戦中と、軍人には一切選挙権がなかったこともあらためての発見であり、日中戦争が勃発する以前までは、天皇制の否定以外の言論の自由があったことも意外な事実でした。 戦争がはじまると、それ以前は”反戦”であった諸新聞が”賛戦”に変わるのが、政府の弾圧のためではなく、”反戦”だと新聞が売れなくなるために営業戦略上”参戦”に転向するという現実も初めて知りました。」 田原総一朗「日本の戦争」(小学館文庫) 文庫本あとがき からでございます。 「わたしはかつて東条の用賀の家で、東条の娘光枝を取材したことがある。畳の部屋で行李一杯の手紙やはがきを見せられた。日本国中から寄せられた一般の国民からの郵便物だった。内容は二つに大別された。「米英撃滅」「鬼畜米英を倒せ」「猶予は亡国、即時立て」といった戦争を強く促す内容と、「何をぐずぐずしている」「弱虫東条」「いくじなしはヤメロ」といった「ぐずぐずしている」東条批判である。東条が首相になってから開戦までの五十日あまりに(マスコミに煽られた郵便物が)三千通以上来たということだ。」 (ibid, p.565からでございます) 上記内容に関しまして、ご質問等ございましたら、”ニート問題”等のご質問にて、愚生の回答への補足欄等で、ご拝読させていただきたく存じます。 末尾ながら、ご参考になれば、幸甚に存じます。
お礼
戦時中の新聞業界の行動については すでに大衆迎合もしくは民意の操作などにかんしておそわっていました。 ひどっちさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 どうでしょう こと志と違うという現実に直面して くさってしまい辞めたいと思うのと くさりつづけつつ進むのと どんな割り合いになりましょうか。わたしは 半々であって欲しいと思うのですが たぶんそれは 《辞めたい》というのが50%いたというアンケート結果とは 中身が微妙に違うのではないかとも考えます。たぶんその50%の中で それでも辞めない場合と辞めて行く場合とが半々であるかも知れないからです。 そうすると 志をそれでもつらぬこうとする人びとが 四分の三いることになるかと言えば そうでもないかも知れません。《もうどうでもよい》という場合もあるかに思われるからです。 ただいづれにしましても ○ 大衆迎合 および大衆の意見の操作(マインドコントロール?) ☆ については 公然とにしろ隠然とにしろ 問題でありつづけているのでしょうね。そう推測します。 東条英機につきましては そのひとりの側近による回想を部分的に読んだのですが けっきょく《純粋なる心》をその人たちは拠りどころとしていると考えました。その純粋なる精神の現実の拠りどころは 天皇に対する忠誠心であるというきわめて経験的な・つまりうつろい行きがちな心のあり方に行き着くとも感じました。 何のことはないといった印象でもあります。 でしたら 大衆への迎合と言い人心の操作と言い ひょっとすると日本人の社会は 一時的ににしろ きわめて緊密に公民と市民とが――観念の運河によってでしょうか――入り組みあい織り合わさっている。あるいは そういう情況を呈することができる。ということかも分かりません。いざというときには です。お隣の韓国でも 案外そういった情況が見られるのではないでしょうか。 共同幻想という言葉が すでにあります。 観念の共同 共同観念。 ツイ(対)の関係においても 昔はと言うべきでしょうか この共同観念のもとにあって 夫婦・家族・イエといった共同体をつくる要因が生きていたと言うべきでしょうか。 《もっともわたくしなるもの》からは 共同化しうる主観が得られると考えます。共同主観・コモンセンス・常識です。 共同主観はあたらしく顔形を現わして ふるい共同観念を突き抜けてすすむと考えます。そうして これまでの歴史においては あたらしい共同主観も そのまま月日とともに 観念化して――あるいはただの民族主義といった情念と化して―― ふるい共同観念になるのかという見方です。 この共同観念としての《空気》は 世の中のそこここに掘られて道筋を前例として・慣習として作り上げている《観念の運河》だとも考えました。 ここからも出発することができるかと思います。 そうですね。この質問はそろそろ閉じたほうがよいでしょうね。
- 阿加井 凛悟(@neutral)
- ベストアンサー率29% (231/773)
こんばんわ。へまちです。 なかなか言葉が出ませんまんまです。 えと、今度は マスメディアさんのお話ですか。 (そういえば元ダーリンが、 マスメディアの人だったなあ。) >社会的影響度が非常に高い存在 :なので、 この人たちは、 淡々と現状を伝えるだけぢゃなくて、 み・ん・な・が!喜ぶことを 何故か、なるべく、 しゃべらなくちゃ、ならなくて、 そうすると、 おへそを曲げたくなくても、 曲がりまくっちまって、 曲がりまくらざるを得ないことに、 何かムカついてるんぢゃないかなあ。 完全にわたしの憶測なんですが。 ただのわたしのおしゃべりなんですが。
お礼
ご回答をありがとうございます。 この質問をめぐっては やり取りをしていく内に質問者のほうが自分の中で答えを模索してひとまづ得たような状態になっています。これは 変則的ではなく それはそれとして起こることだとも思ったりします。そして実際みなさんの考えとあまり違わないわけですし。 ★ ~~~~~~~~~ み・ん・な・が!喜ぶことを 何故か、なるべく、 しゃべらなくちゃ、ならなくて、 ~~~~~~~~~~~~ ☆ つまり 自分の会社や業界としての利害関係に直接かかわるというよりは 《報道あるいは 事業としての発信でしょうか》その伝達の内容を 八方美人のようなものにするということでしょうか? 読者や視聴者の多数がよろこぶものを流す。それによって会社や業界がうるおうことにも通じると。 そうですかねぇ。あっ 利害関係にかかわることを報道するときに 多数の人つまりいわゆる大衆に受けるような内容やその報道の仕方をとりわけ選ぶようにするということですかねぇ。 ▲ (ヰキぺ:マスゴミ) ~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%82%B4%E3%83%9F 2. TBS不二家捏造報道問題・関西テレビあるある大事典捏造問題・朝日新聞珊瑚記事捏造事件・毎日デイリーニューズWaiWai問題などに代表される捏造報道。 なお、これら公平性・中立性の無視や捏造報道については明確な放送法違反であるが、当事者は通常、事実関係すら認めようとしない姿勢を取ることが多い。 3. 自らの思想信条や主義主張と相容れなかったり、敵対勢力と見なす個人・政治家・団体などに対しては徹底的・執拗な批判を展開するが、自身あるいは自らが支援する個人・政治家・団体の不祥事に対しては隠蔽・黙殺・開き直りとも思われるような態度を取る。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このような事件においても 《大衆がよろこぶ》ことを目指すのだと。そういう視点も じつはあるのだと。そうかも知れないですね。つまり よろこばれることを至上命令としていて 番組内容までをねつ造してしまうというような。 そうすると それが 一人の権限者によるものか それとも集団心理で組織ぐるみによるものかも かかわって来るでしょうか。 そう言えば 迎合するという言葉がありましたね。大衆に迎合しつつ 自分たちも有益となるために 《押しつけ》ようとすると言えるでしょうか。押しつけようとする心情は 報道側と受信者の側とのあいだの阿吽の呼吸で決まるのでしょうか。 いえ 憶測です。憶測でした。
こんにちは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。 ここ数週間が体調が芳しくなかったこともあるのですが、ご返答が遅れてしまい誠に申し訳ございませんでした。 > ひとつは 仕事のやりがいという主題。? ★ ~~~~~~~~~~~~? 「辞めたい職業1位はマスコミ・広告 割合は50.4%」? ( a )について。経済不況で仕事が減ることと 《仕事のやりがい》がなくなるのとは 別だと思います。? 確かに、民法に限って申しますと、最も制作費・時間を要するとされていますドキュメンタリー番組は、元来僅かしか作られておりません。従いまして、不況との直接的な関係はないように察せられます。 ( b )について。 これは、愚生の憶測に過ぎませんが、マスメディアは、こと日本におきましては、社会的影響度が非常に高い存在と考えております。もちろん、他の企業におきましても、社会的な存在ありと判断されますが、公共性という点におきましては、メディアに比肩する職種は他にないものと考えております。 そして、マスメディアという職種上、国民への情報提供(知る権利を提供することです)、さらには、権力者への監視的役割をも担っていると考えております。そして、かような”ジャーナリズムの精神”というものへの憧れ・使命感、これらを持って入社した方々も相当数いようかと思っております。 しかし、もちろん、営利団体である以上は、ある程度はやむを得ないところもあろうかと存じますが、上述の国民への知(情報)の提供、権力者の乱用を告発するといったものとは、矛盾することも頻繁に生じて来ているようにも推察しております。例えば、他では”◯△利権”とはバッシングしておきながら、自らも”電波利権”に恩恵を受けている等でございます。その他にもございますが、詳細は、以下をご参照いただければ幸いでございます。 (Wikipedia ”マスゴミ” からの「事例」2, 3 and 7でございます)? > ▲ 「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」? ☆ と言っています。言っていますが そのあとピラトは けっきょく自分のローマ帝国のユダヤ総督としての名のもとにその権限において 磔刑を執行したのではないのでしょうか? 結果として《責任》を取るというかたちからは逃げていないと思います。? イエスに対する裁判における論理的かつ現実的な判断を放棄したのだとは見られます。? 申し訳ございません。愚生の不注意でした。権限が存するところには責任も生じますから(「自由の無いところに責任は存在しない」の拡大解釈でございます)。? > ○ 人間と呼べるか? ☆ この主題について決定的なこたえを出すのは むつかしいかと考えます。? まず、”人間”の定義により、左右されるところもあろうかと存じます。例えば、”悪”を行う自由を備わっているのも”人間”と解しました場合。さらにまた一方では、”悪”の定義の問題もございましょうから。 また、仰られますように、 「ピラトもその立ち場において自由と責任を持ち ユダヤ人たちは その群集心理としての表現行為について 事実である限りにおいて 自由と責任とを帯びる」 この文章内容は否定できないかと考えられます。 ただ、「何が”悪”で どういう行為が《”人間”のすることとは呼べない》か」は、非常にご心象を害する言い方をしてしまいますが、「神のみぞ、これを知る」と思っております。極論を申しますと、「いずれにしましても、人間である」と考えております。 ご参考になれば、幸いでございます。
お礼
こんばんは ひどっちさん。わたくしもこの夏は これまでになく思うように動けなかったという感じを残しました。涼しくなってようやく そういうふうにふり返ることが出来ました。でも 簡単に推測するのも失礼ですね。ぼちぼちまいりましょう。 ご回答をありがとうございます。 ★ ただ、「何が”悪”で どういう行為が《”人間”のすることとは呼べない》か」は、非常にご心証を害する言い方をしてしまいますが、「神のみぞ、これを知る」と思っております。極論を申しますと、「いずれにしましても、人間である」と考えております。 ☆ あぁ そういう見方ですか。《神のみぞ知る》というのは 一般的なものだと思います。それでも 少し意外なことにそういう見方ですかと思ったのは それは ひどっちさんが答えを出そうとしておられるということです。答えを――《極論を申しますと、「いずれにしましても、人間である」と考えております。》というふうにも明らかにして――出すというそのことに接してです。 つまり言いかえますが この質問についてわたしは 答えが出ない・出せないと 一たん思ったからです。文字どおり《保留》というかたちにしておくという答えを出したからです。 なるほど人それぞれだと思いました。それで 交通において差しさわりはない こうも思います。 十人十色ということわざが 初めて分かったような感じです。 価値観が違うというときにも 互いに異同を確かめて 異なる部分について議論の及ぶ限りでやはり互いに批判しあいつつ共通の理解へと進めるものと思います。 でも この《何が悪で どういう行為が人間のすることとは呼べないか》については 答えがない場合もそしてある場合にはそれぞれ違っていても それで交通には支障はない。こういった捉え方を持ちました。 まっ たぶん悪とはこれだとか こういう場合には人間とは呼べないとか 明確な答えを出した場合には そのときには議論になるし 議論をしておかねばならないでしょうけれど。 ★ マスゴミ ☆ の問題 よく分かりました。公共の利益を守ると言っておきながら 自分じしんの利害関係については 公共という目的はほったらかしにして私利私欲に走る――こういう矛盾した二枚舌が 顕著に現われることが そこで仕事をする人間を くさらせるのだと。 わたしは マスコミのこのマスゴミぶりをあまり知らなかったのですが――極端に言えば やらせ事件くらいでした―― それでも白い巨塔以来でしょうか 大学紛争を経て小学校教諭から大学教授まで あるいは 警察の腐敗また今回の検察のでたらめぶりに到るまで いわゆる権威はすべて地に落ちたとは思っておりました。つまり ふつうの市民という水準にまでは すべて落とされたのだと思っていました。 そういう意味では どこで働こうともどういう仕事であろうとも いやなことはあるでしょうし それでも少しづつは改善しながら進めていくのだとは思っていました。 そんな事情を それのみを申し述べました。 例によって もう少し開けています。
こんにちは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。 「辞めたい職業1位はマスコミ・広告 割合は50.4%」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは 正直を申せば もっと中身を知りたいところですね。半分の人が辞めたいと思っていると出れば 見過ごすことは出来ないでしょうが。 このご時勢のため、スポンサーがつかないのもその理由の一つと考えておりますが(ですが、未だ高給取りであることには変わりはありませんが)、おそらく、現在の自己を振り返ってみた際に、“初心”からはほど遠い自分がいることに気がついたからだと推察しております。 > ○ 利害関係・プライド・ルサンチマン・・・ ☆ ですね。 はいその通りかと存じます。以下はマタイによる福音書からの引用でございます。 マタイ伝27章15~20、23、24節 ところで、祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。 そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。 一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。 <中略> ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」 (ピラトも、群集心理に恐れをなし、責任放棄をしています) > ニュウトラルさんの提起されている主題は 一般論としてよさそうですが どうですか。 以下の議題のことでしょうか。 http://okwave.jp/qa/q6191141.html 「ニートや引きこもりは 人間の人間による人間のための未来社会構築の過程である。」 もしよろしければ、後日、愚見にお耳を傾けていただきたく存じます(愚生の場合は、時事問題がメインとなってしまいますが......)。 ご参考になれば、幸いでございます。
お礼
ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ううーん。今回は わたしはまだ釈然としません。 ひとつは 仕事のやりがいという主題。 ★ ~~~~~~~~~~~~ 「辞めたい職業1位はマスコミ・広告 割合は50.4%」 ( a ) このご時勢のため、スポンサーがつかないのもその理由の一つと考えておりますが(ですが、未だ高給取りであることには変わりはありませんが)、 ( b ) おそらく、現在の自己を振り返ってみた際に、“初心”からはほど遠い自分がいることに気がついたからだと推察しております。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ( a )について。経済不況で仕事が減ることと 《仕事のやりがい》がなくなるのとは 別だと思います。 ( b )について。《“初心”からはほど遠い自分がいることに気がつ》くことと 《マスコミ・広告》の仕事に従事することとは 直接につながらないように思います。つながるとしたら それは 業界や仕事の違いにかかわらず 誰でもどんな仕事においても そうなると考えられます。 マスコミ業界に従事することは 社会人として新人であるときの《初心》を消してしまうという固有の問題がありましょうか? (人文・社会科学における実験あるいは統計について あまり信用していないというわたしのやぶにらみがはたらいています)。 ★ (ピラトも、群集心理に恐れをなし、責任放棄をしています) ☆ 《群衆心理》つまりは 一般に何らかのかたちで初めに条件づけられた情況の展開としてあたかも人びとのそれぞれの自由意志を超えて(あるいは無にするようなかたちで)必然性の流れが優位にはたらくという集団心理の力 これにピラトは屈したようだとわたしも思います。 ですが どうなんでしょう。 ▲ 「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」 ☆ と言っています。言っていますが そのあとピラトは けっきょく自分のローマ帝国のユダヤ総督としての名のもとにその権限において 磔刑を執行したのではないのでしょうか? 結果として《責任》を取るというかたちからは逃げていないと思います。 イエスに対する裁判における論理的かつ現実的な判断を放棄したのだとは見られます。 ○ 人間と呼べるか ☆ この主題について決定的なこたえを出すのは むつかしいかと考えます。もし出したとすれば その本人の自由な表現とその責任とのもとにおこなったということになると考えます。つまり けっきょくは――理論としての決着を問い求めるというよりは―― 社会における人間的交通にかんする表現一般についての取り決めに従うというかたち。これが 当てはめられるのだと いまのところ 思います。 つまり 自由と責任という一般論で取り扱うということ。ひとの悪にかんする極限の理論は まだ分かりません。 逆に言いかえると 《ひとに対して 自分の心情を押しつけることしかしない》場合は もしそれがそのような事実行為としてあるとすれば それとしての表現であると見なされ その表現にかかわる自由と責任が やはり一般論として 適用されるのだと。 《ひとと呼べるか》は 扱いにくい主題である。という到ってふつうのこたえです。 つまりはピラトもその立ち場において自由と責任を持ち ユダヤ人たちは たとえ集団心理としてであっても・それゆえ事後的な見なしにおいてにしろ その群集心理としての表現行為について 事実である限りにおいて 自由と責任とを帯びると。何が悪で どういう行為が《人間のすることとは呼べない》かとは 或る種の仕方でかかわりなく 表現行為の一般論として 扱われる。 まだ整いません。と思いますが 述べてみました。どうでしょう。
こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。 申し訳ございません。もう一言だけ、愚見を述べさせてくださいませ。 > ☆ この分野と言いますか主題についてもわたしは ほとんど注意してこなかったのですが。それはたとえば 今回の尖閣諸島沖の漁船との衝突事件をめぐっても 政府もマスコミも 冷静です。中国というのは 分からないですねぇ。一世紀ほど頭の中で時代が遅れているのでしょうか。 中国問題は非常に難しい問題かと思われます。武力衝突(愚生は、その可能性はかなり低いと推察しておりますが)と、お互い持ちつ持たれつという経済の問題との間で、矛盾する事柄が出てくるのがその一因かと考えております。 > あるいはまた 新聞報道にしても 誤報にかんしてはそれなりにきちんとあとでわびつつ訂正するというしきたりはあるように思います。 ということは 記者たちが自由度をうたがうということは 一般のわたしたちには分からない事件などの報道をめぐって その姿勢に問題があるということなのでしょうか。 マスコミにおきましては、確かに、錯誤等が各社で認められたときには、迅速な謝罪をしたりします。一方、例えば、松本サリン事件での河野義行元容疑者につきましては、未だに、謝罪はされておりませんし(読者には謝罪していますが)、長野県警も謝罪はしたものの、当時の田中知事により、監督機関である長野県公安委員に任命され後、はじめて謝罪したぐらいです。唯一の例外は当時の公安委員長の野中氏だけだったと記憶しております。 理由は不明ですが、以下のような報道がなされたのも、マスコミの社員(従業員)自体も問題を抱えているようにも見受けられます。 「辞めたい職業1位はマスコミ・広告 割合は50.4%」 http://news.ameba.jp/domestic/2009/12/52537.html > あっ いまふと思ったのですが けっきょく《心情》というのは こころ(精神)の上っ面で動く心理作用のようなものですから――《信条や信念》とは違うはずですから―― 中身はない。言いかえると 中身として事由づけることは 何でもありとなるかも知れません。やはりボスの鼻息しだいでことが起こったり変わったりするということでしょうか。 はい、仰られますように、“信情”とは、信条・信念とは明らかに異なるものかと考えております。単に、その場の“空気・雰囲気”にも容易に変化してしまうものだからでございます。 “ボス”というある意味での独裁者もいようかと思われますが、“組織”というものも存在しているようにも思われます。昔も今も省庁の権限は強いでしょうから(昔は軍務省、今は財務省?) > そのような――法治ではなく――人治社会は 中国のことだと言われて来ていますが 日本にもどこかにその傾向があるのでしょうか。あるいは 一般には 個人的なルサンチマンでないとすればやはり利害関係と見るのが妥当なのでしょうか。 もちろん、利害関係も存在するかと察せられますが、それのみならず、“プライド”(往々にして、傲慢にも繋がりますが)の存在も大きいかと考えております。 こう言ってしまえば、身も蓋もないのですが、“絶対”という概念が、特に東アジアには希薄だったこともその一要因かと思われます。 駄文、ご一読いただきまして、厚くお礼申し上げます。
お礼
ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。分かりましたというお答えになって あまり展開がこちらからは出て来ません。 ★ ~~~~~~~~~~~~~ 理由は不明ですが、以下のような報道がなされたのも、マスコミの社員(従業員)自体も問題を抱えているようにも見受けられます。 「辞めたい職業1位はマスコミ・広告 割合は50.4%」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは 正直を申せば もっと中身を知りたいところですね。半分の人が辞めたいと思っていると出れば 見過ごすことは出来ないでしょうが。 外国語学部を出て(仏語科でゼミは経済学) 日本鋼管(当時)に入って呉でしたかに行ったかと思っていたら 大阪で毎日新聞社に入ったと言います。遊軍記者で楽しいと言っていました。当時は 関空の話が有りましたね そう言えば。 もうそれ以来は何の音沙汰もないので 分かりません。 新聞社ということで思い出しました。 寮は高石市だと言っていました。 時間が 不規則ですからね。でもほかに何か自由を妨げることだとかがあるのでしょうか。 山形出身です。 ★ 中国問題は非常に難しい問題かと思われます。 ☆ のとおりだと思いますのに 展開する方向をいま探しかねています。 あっ あちらからは 衝突のときのヰ゛デオを見せろと言って来たようですね。 ○ 利害関係・プライド・ルサンチマン・・・ ☆ ですね。 ニュウトラルさんの提起されている主題は 一般論としてよさそうですが どうですか。
- 阿加井 凛悟(@neutral)
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ぶらじゅろんぬさん。こんにちわ。 たびたび失礼します。 >人間と呼べるか? :分からんです。お手上げです。 何がどうなってるのか分からんです。 まるで分からんです。 誰かを嫌うとか憎むとか、 誰かに嫌われるとか憎まれるとか、 食欲や性欲や睡眠欲と同じぐらい 自然なことだと思うのですが、 なんで神経症みたく過敏に その自然を見なかったことにしたり、 必死で蓋をしたり、 必死で避けようとするのでしょう。 (主語が何なのかもわかりません。) なんで「嫌う」のが「悪い」ことになっていて、 なんで「嫌ってませんよ」 って言わなくちゃならなくて、 なんで「嫌われてない」 って思わなくちゃならないのですか。 わたしはぼちぼち訓練しますわ。 ちゃんと見る訓練とか、 ちゃんと受容する訓練とか。 ちゃんと嫌う訓練とか、 ちゃんと嫌われる訓練とか。
お礼
つづいてです。 ★ ~~~~~~~~~ >人間と呼べるか? :分からんです。お手上げです。 何がどうなってるのか分からんです。 まるで分からんです。 ~~~~~~~~~~~ ☆ 前回答へのお応えとして次のように書きました。 ☆☆ (No.22補足欄) ~~~~~~~~ ★ ところでヒトラーさんは人間だと思いますか。 ☆ この質疑応答を経て来て思うようになったのですが こう考えます。 《人間と呼べるか》とまで疑うことになったとしても そしてあるいは《人間ではない》と断定したとしても そのように言うのは 《あんたは あんたも 人間であるのではないか。みんな同じ人間であるのではないか》という思いを訴えているのではないか。 別の言い方をすれば ヒトラーが人間であるかないかを規定するというよりは 特に実際に対面する機会がある場合などには 自分の考えをきちんと明らかにして伝えることが いちばんよいのではないか。こう思うようになって来ています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《ルツの物語》。ルツの類型なら 《うたがい》は持ったとしても とにもかくにも相手がどういうことをやったとしても 同じひとであるという思いは揺らがなかったかも知れない。ううーん。ちょっときついかなぁ。言い過ぎかなぁ。 前回つぎの箇所を見過ごしました。 ★★ (回答No.22) ~~~~~~ いやしかし、ぶらじゅろんぬさんは、 相当この島国が好きなんだなあ。 あ、イヤミぢゃないですよ、念のため。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 同胞のために成るのなら 自分はたとえキリストに見捨てられてもかまわないとパウロが言っていましたっけ。わたしは 国粋主義者よりも日本人です。たぶん。 ★ ~~~~~~~~~~~~ 誰かを嫌うとか憎むとか、 誰かに嫌われるとか憎まれるとか、 食欲や性欲や睡眠欲と同じぐらい 自然なことだと思うのですが、 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ これはわたくしは 好き嫌いあるいは愛情と嫌悪 これら両方をまとめて愛――関係性とその意志――だと言っております。無関係もしくは無関心が 愛の反対として死であると。 言いかえると 間違った根拠によって不当に過剰に嫌われたり好かれたりすることに対しては その事実関係を正して欲しいという思いはあると思います。 次のようでしたら分かります。 ★ ~~~~~~~~~~~ わたしはぼちぼち訓練しますわ。 ちゃんと見る訓練とか、 ちゃんと受容する訓練とか。 ちゃんと嫌う訓練とか、 ちゃんと嫌われる訓練とか。 ~~~~~~~~~~~~~ 公共のことがらに関しては 身内も好悪も仲間もないということになると確かに思います。 この主題は 現実にきわめておおきな課題になるかと思います。 別の見方をすれば ふだんから互いに批判の応酬をとことんおこなうという訓練もいいかも知れません。
補足
No.22でお応え損ねました。 ★★ (回答No.22) ~~~~~~~~~ わたしの感想なのですが、 ( a ) 「>以空気伝空気そしてその輻射・対流」というのは、 ( b ) とても暴力的な気がするのですが、 ( c ) 平和なフリができちゃっている、ような気はします。 ( d ) わたしが「暴力的」と言っているのは、 たとえばこういうのです。たとえばですが、 ( e ) 「わたしはこんなに傷ついています」と言って涙を流す、 その涙が暴力的で、 ( f ) その涙に憐れみを持って反応する人たちが暴力的、 と、わたしは感じるのですが、 このわたしの感じ方に文句があればよろしくどうぞ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そうですね。これは いろんな場合があるようにまづ思います。 取り敢えづ挙げられている事例について考えます。 その前に( a )はこうです。一人ひとりの人は やはりいわゆる以心伝心のごとく現象していると思うのですが その《心》がむしろ空気としての情況から来ていて これを受けとめ どういうわけかほかの人にも流している。というような情況とそれについての感じを言おうとしています。 それが ( c )《平和なフリができちゃっている、ような気》がするゆえに( b )《暴力的》だと感じるのですね。 たぶんそこまでの余裕はないようにも思いますが どうでしょう? 以心伝心(テレパシーでしょうか)はあくまで個人に起こっているのですが 必ずしも本人が本音で思ったことではないと考えられます。という意味で 以空気伝空気と言いかえました。 どちらかと言えば 責任を社会全体に転嫁しようとしているかも知れません。そのように誰かほかの人の所為にするのは 《暴力的》かも知れません。本家に代わって言うわけですが 《自己防衛のワルモノづくり》ですね。 ( e )は確かに 《涙を流す》行為が ひとつにやはり責任転嫁をかんたんにおこなっているならその部分について《暴力的》である場合が見られるようです。 ( f )は その《涙を見せた》行為にまづは同調し同情するというのは ならわしなのでしょうね。もともとは思いやりからそうしたのでしょうが 儀礼的になっている部分もあるように思います。 あっ ( e )《「わたしはこんなに傷ついています」と言って涙を流す》のは 見方によっては これがフリをしている場合であるかも知れませんね。 ということは ( f )《その涙に憐れみを持って反応する》こと これもフリをしてそういう行為におよぶのかも分かりません。 もしそうだとすれば この《暴力的》だと感じられたならわし(行動様式)は やはり社会全体における空気の対流のようであり 別の見方をすれば 世の中にあたかも人びとのおこないや振る舞いをみちびくような運河が通されている。あのヱ″ネツィアの街のごとく縦横無尽に作られたこのいわば観念の運河を難なく通って人びとは 互いに交通をいとなんでいる。 この観念の運河を通せば それはならわしとして人間的な交通が出来ていると人びとは思っている。思い込んでいる節がある。 たしかにわたしに言わせれば そのようにあたかも刷り込まれているたぶん心理的なだけの運河交通網は 一応誰もがそこを通して発言するのだけれど それは必ずしも人間のそれぞれ《わたし》を生かすものだとは言えない要素がある。 古くて意味がなくなっている場合がある。悲しいからと言ってあるいは被害を受けたからと言って 泣けばいいというものではないはずだ。それに対してただ憐れみを示せばいいというものでもない。 ただただお上に従うという道筋がついているだけの場合がある。小沢一郎と言えば 剛腕の実力者であるという観念の運河が掘られつづけている。 そのほか古くさい運河 そらぞらしい道筋が 右向け右症候群にはあるように思われる。 ですから この観念の運河が壁として立ちはだかって内向きになってしまった人たちも それが観念の運河であるとだけは認識して欲しいと思いますね。 たぶんそのように世の中を分析したときに 《暴力的》だといった気持ちにかかわるたぐいの言葉を出すのは 注意深くうまく滑り込ませる必要があるようには思いました。がどうでしょう?
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
bragelonneさん私が何か、neutralさんに謝りましたかね。 健忘症なんて罵られたくないのですが。 こういうふう一面識もない場面での、やりとりには人間同士として、そのような言は避けないといけませんね。 むしろbragelonneさんの言はいたく、人の心を傷つけるものではないでしょうか? 私は一度bragelonneさんとのやりとりは中止したのですが、私の質問に対して難しいが何かと言語の話をしてくれたので、全てを水に流して、できうる限りのことを真正面から答えました。 私などが、恥ずかしくも自己の思うことをあからさまにして、信頼して出しました。 本来、私もあのようなことを人に話す資格はありませんし、照れくさいものです。おこがましいものです。 でもbragelonneさんを信頼して、素直に出しただけなのです。 人の行き違いは対面でも、近しい中でもあるものですから、bragelonneさんに何も言いませんが、私は人に自分の考えや、信条も心情も強制は致しません。 近しい人にも、家内やこども達にも、親兄弟にも。 それぞれの人生と考えを尊重しているし、同感をもっています。 自分を強制するほど、私は自分のことに自信がないものではありません。 人とは違う、お互いに違うということも認め合って生きてきておりますよ。 それにしても、bragelonneさん、人生はいろんなことがありますね。一面識もない方のことで、こんなつらい思いをするとは私も思いませんでした。 もういかなるcontactもありませんので、どうぞご安心ください。 名古屋もそしてその以西も親類や知人がたくさん居ます。 かの日本福祉大学っていうところもご縁が深くありますし、同じ信仰の方々もたくさんおられましてね。 その都度bragelonneさんのことは忘れませんでしょう。
お礼
ふたつのことをお伝えして おこたえに代えます。 ★ 私が何か、neutralさんに謝りましたかね。 ☆ 誤解です。 ☆☆ (【Q:どうしても《絶対》ということが 腑に落ちないでしょうか】No.34)~~~~ http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6174142.html 【回答】 シンボルが突然変わりましたね。変えたのか、代わったのか。 【お礼欄】 シンボルは ニュウトラルさんへのおわびのしるしです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この質問のNo.8・10・11でのやり取りでは わたしがニュウトラルさんのお心をうまく捉えきれなかったそのことへのおわびとして 花束をシンボルとして出しました。 クリアさんとは何の関係もありません。 * (α)系: ★ 全てを水に流して、できうる限りのことを真正面から答えました。 ★ 私は人に自分の考えや、信条も心情も強制は致しません。 ★ 人とは違う、お互いに違うということも認め合って生きてきておりますよ。 ★ もういかなるcontactもありませんので、どうぞご安心ください。 (β)系: ★ 名古屋もそしてその以西も親類や知人がたくさん居ます。 ★ かの日本福祉大学っていうところもご縁が深くありますし、同じ信仰の方々もたくさんおられましてね。 ★ その都度bragelonneさんのことは忘れませんでしょう。
- 阿加井 凛悟(@neutral)
- ベストアンサー率29% (231/773)
ぶらじゅろんぬさん。こんにちわ。 ご返信ありがとうございます。 ぶらじゅろんぬさんの思考のペースに なかなか付いて行けませんでして、 なかなか反応できないんですが、 ご返信文を読みきれていないんですが、 あれ?新しい質問を立てたんですね、 で、どこでなにをしゃべっていいのか、 分からんのですが、とりあえず。 16番のご返信文は、 なかなかガツンと来ました。 わたしは「>まだ《振りをする状態》〔など〕に移行」 していないのか?まだ免疫ないのか?と思って。 >熱心に十二分になびこうとする過剰適応という反応は 《わたしがわたしである》ことの持続のためのしかるべき自己表現である。と考えられる。互いに 意志はどこにあるかと 暗黙のうちに問うている。 これは基本的に 《わたしがわたしする》行為ですよね。 :すみません、よく分かりません。 「過剰適応」することを「意志」していると言っていますか。 積極的に「ふりをしている」と言っていますか。 わたしの感想なのですが、 「>以空気伝空気そしてその輻射・対流」というのは、 とても暴力的な気がするのですが、 平和なフリができちゃっている、ような気はします。 わたしが「暴力的」と言っているのは、 たとえばこういうのです。たとえばですが、 「わたしはこんなに傷ついています」と言って涙を流す、 その涙が暴力的で、 その涙に憐れみを持って反応する人たちが暴力的、 と、わたしは感じるのですが、 このわたしの感じ方に文句があればよろしくどうぞ。 >これにかんしてわたしの立ち場は はっきりしています。 >放っておきます。(14番) :これも、ただ、うらやましいです。 なかなか、できませんです。耳栓とかしないと。 ああなんか順番がむちゃくちゃだ。 半年ほど前だったかな、 ニートであること、に、なぜか困っている人と 何度か話したことがあったのですが、 ニートさんや、ひきこもりさん、は、 (みんなが、とは言いませんが) 「とりあえず考えることを選んだ人たち」の代名詞のように 挙げさせてもらいました。 わたしのようにオツムのCPUが悪く知識もない場合、 考え始めてから何か発言するまでに、 とても時間がかかるだけなのぢゃないかなあ、 とかそんなことも考えていました。 期待しすぎでしょうか。のんびりしすぎでしょうか。 で、この「ニート・ひきこもり」という状態を、 なんで「とりあえず何とかしようと」するのかなあとか、 そんなことも考えていました。 >じさつって にげたんぢゃない? :別の、逃げ方が、できたんぢゃない? (どのように、逃げるのか、ってことでした。) ルツの物語ありがとうございます。 これから読みます。 いやしかし、ぶらじゅろんぬさんは、 相当この島国が好きなんだなあ。 あ、イヤミぢゃないですよ、念のため。 ちっとも反応しきれていなくて申し訳ないのですが。 ところでヒトラーさんは人間だと思いますか。
お礼
ニュウトラルさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ あれ?新しい質問を立てたんですね、 ☆ ゴーイン〔グ〕マイヱイのごビョーキです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ ぶらじゅろんぬさんの思考のペースに なかなか付いて行けませんでして、 なかなか反応できないんですが、 ご返信文を読みきれていないんですが、 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ いえいえ それはこちらのセリフでして。ただどうも口が先に出てしまうようで《反応》だけはするみたいです。 ★ 16番のご返信文は、 / なかなかガツンと来ました。 ☆ 17番のほうかと思っていました。なかなか読みが的確には行かないみたいです。 ★ わたしは「>まだ《振りをする状態》〔など〕に移行」 / していないのか? まだ免疫ないのか?と思って。 ☆ あぁ そうでしたか。まづ次の主題と絡んでいると思います。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆☆ (14番お礼欄)~~~~~~~~~~~~~~ これにかんしてわたしの立ち場は はっきりしています。 噂であるとかわたしの直接にかかわらないところで空中戦のごとく飛び 交う《前へならえ!病。右向け右!病》については 放っておきます。た だし 誰かがわたしに直接にその話をしてきたら それ相応にわたしの意 見を述べて対処します。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ :これも、ただ、うらやましいです。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《振りをする》のは この《空中戦》つまりは《空気や噂の伝播》に対してです。 そしてただし特殊で例外的な情況として戦時中の場合があると思います。直接に誰かが《右向け右!》を言って来たとき 戦時中ならそうたやすくは反論し得ないと思います。さらにそして一般の情況にあって《振りをする》と言っても あからさまにそうした日にはやはりあぶない。赤かと疑われます。 確かにたやすくはないですね。異者(えた・非人)か精神病者かに決めつけられがちです。 ですから ニートや引きこもりやウツになったりするというのは 昔からの《大合唱病》の歴史的遺産を引きずっているところもあるでしょうし あるいはあたらしい社会を芽生えさせるその息吹きであると見られるところもあるでしょう。 ★ 「過剰適応」することを「意志」していると言っていますか。 ★ 積極的に「ふりをしている」と言っていますか。 ☆ ひとつに事後的なさとりであってよいと考えます。あとづけで納得できるだけでじゅうぶんではないかと。もうひとつに 《振りをする》というのは 要するに 《指揮者のいない合唱隊への組み込み》症候群から一歩ないし半歩ほどでも距離を置くことができればそれでよしとします。事立ててフリをする必要もないと思います。 あるいは別様に言いかえれば 《目に見えぬ国民総動員の二人三脚運動》へ組み込まれて行っている友だちらに対しては そのようだとわたしには思われると思って見守ってやっていればよいのではないでしょうか。それに その情況をじっと見守っていれば 自分の認識に間違いがあれば気づくようになるでしょうし。少しづつ情況認識を確認していければよいのだと考えます。 ★ ~~~~~~~~~~~~ ニートさんや、ひきこもりさん、は、 (みんなが、とは言いませんが) 「とりあえず考えることを選んだ人たち」の代名詞のように挙げさせてもらいました。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ なるほど。わたくしもどちらかと言えば過剰適応――と言うよりも 脳天気でした・つまり結果として 高校生まででしょうか のめり込むこともありました(*)――の口でしたので 《考えることをえらんだ》と聞くとうらやましいです。 * のめり込むほどであった結果 これまたさらに今度は 教師に対し てそっぽを向くほどにさげすむような態度を取ったこともあります。 なぐられました。高校三年生。 ★ ~~~~~~~~~~~~~ で、この「ニート・ひきこもり」という状態を、 なんで「とりあえず何とかしようと」するのかなあとか、 そんなことも考えていました。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 逃げる・逃げないそしてどう逃げるにしても 《空気》という情況の動きについては 認識したほうがよいと考えます。
補足
お礼欄からのつづきになります。 ★ ~~~~~~~~~~~~ >じさつって にげたんぢゃない? :別の、逃げ方が、できたんぢゃない? (どのように、逃げるのか、ってことでした。) ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 情況(あるいはさらに 相手がどういう人間であるか)の認識だけは持ったほうがよいのではないかと。 逃げる・逃げないも どうも結果としてそうなったという部分もあるように思います。 ★ ところでヒトラーさんは人間だと思いますか。 ☆ この質疑応答を経て来て思うようになったのですが こう考えます。 《人間と呼べるか》とまで疑うことになったとしても そしてあるいは《人間ではない》と断定したとしても そのように言うのは 《あんたは あんたも 人間であるのではないか。みんな同じ人間であるのではないか》という思いを訴えているのではないか。 別の言い方をすれば ヒトラーが人間であるかないかを規定するというよりは 特に実際に対面する機会がある場合などには 自分の考えをきちんと明らかにして伝えることが いちばんよいのではないか。こう思うようになって来ています。 さて どうでしょう。
こんにちは、ご返答おくれまして、申し訳ございませんでした。Hidocchiでございます。 ?> ☆ これはですね。気持ちとあい反するようなことを言わなければならないのですが 《暴走》ならまだましだと考えるのです。台風が過ぎ去れば からっと青空になります。? いわゆる《空気》問題が そこに脅迫の要素を加えてくると 厄介なことになります。 仰れますように、思考停止状態(自らの意思を放棄し、まわりの雰囲気・空気のみによる状態)での問題、さらには、そこには脅し・脅迫が加わりますと、全くの別問題になろうかと考えられます。 ?> ルサンチマンからついにそのはけ口を得て暴走するなら ともかくそれとして筋があります。ない場合に厄介なことが起こります。? 論理が破滅、もしくはそもそも確たる原因が存在しない場合では、状況は悲惨を極めると思われます。 こちらは、ルサンチマンの例でございますが、あのポーランドの事件も、もし、弁護士、法学者、教師等が、亡命もしくは逮捕されずに、あの場所に立ち会っていれば、あの悲劇は生まれなかったかもしれない旨のことが放送の中で言及されていました。 ですが、原因が分からないとなりますと、もっと厄介になろうことは容易に想像出来ます。 ?> 霧か靄が地上すれすれに深く立ちこめるかのように ふつうの生活圏が暗い世界になって来ます。ウラの世界がオモテにかぶさってくるかのように。? まず、日本人におきまして、”体感治安”の悪化傾向は非常に高いと言われています。例えば、「安全神話の崩壊」等でございます。 では、実情はと申しますと、決して、そのような悪化傾向示すデータは存在しておりません。 2009年の統計からです。 殺人認知件数(未遂・予備容疑含む):1097件(警察庁 犯罪統計) 他殺による死亡者数:474人 (厚生労働省 人口動態統計) 自殺者数:30649人 (厚生労働省 人口動態統計) 自殺者数 / 他殺による死亡者数:64.6倍 つまり、自分もしくは、近親者が、他殺による被害に遭遇する機会よりも、自殺により命を失う確立が60倍以上高いことを示しております。このような極端に差が見られる国は、愚生が調べた限りではございませんでした。 空句、その背景には、警察庁の人材確保・セキリュティ装置の増加(監視カメラの数は増加傾向にあるようです)、一方では、マスコミの劇場型”犯罪報道”があろうかと思います。つまり、社会不安を煽ることにより、警察庁は利益を得、一方では、マスコミは警察からの情報提供等による便宜ははかってもらう等の利益がございます。 ご参考までに、マスコミに対する各国の信頼度調査結果を以下に載せております。 電通総研、日本リサーチセンター共著「世界主要国価値観データブック」(同友館)のデータを、以下のサイトでは、エクセルでグラフ化してくれています。 http://www.garbagenews.net/archives/1102258.html ですが、日本のマスコミの評価は余り高くはないようでございます。 ソース:国境なき記者団調査、日本は報道自由度51位 http://www.mynewsjapan.com/reports/471 ?> 《心情》という気持ちが 帝国を築くに到っている。のかも知れません。世に陰謀説が絶ち切れないのは そのゆえであるかも知れません。 確かに、かようにも盛り上がりを見せますのは、そうした理由があるのかもしれません。”心情”を全面に押し出されてしまいますと、ポーランドの事件を上回る悲劇が生まれる可能性は否定できないかと。 ?> へらへらと靡く者も あぶないです。消耗品にされてしまいます。? 仰れますように、何時自分のところに降り掛かってくるやもしれません。そしてそんなことを考えれば、かえって心も休まらないと思われます。つまり、益々ストレス社会を構築しているようにも見受けられます。 ?> 果たしてブラジュロンヌは 無頼漢に対しては無頼漢のようになったでしょうか?? 「最高のものを求める人は、つねにわが道を行く」かと思っているのですが.......? ご参考になれば、幸いでございます。
お礼
ひどっちさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 今回の話題のやり取りは ここからはあまり生産的な展開がむつかしいかに思える段階にあると考えます。 ★ ですが、〔* ルサンチマンすらなく〕原因が分からないとなりますと、もっと厄介になろうことは容易に想像出来ます。 ☆ ひとつ思い浮かべたことは――話を落としますが―― ひとりのボスがいてその〔あえてそういう言葉を使うなら〕女が けっきょくやはりルサンチマンなどを持っていてその気持ちやら心情やらから事を起こすように頼んだという場合です。事件の内容や被害者と ボスの心情とは丸きり関係ないという場合です。 いえ もうこれは あいづちに過ぎません。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~ まず、日本人におきまして、”体感治安”の悪化傾向は非常に高いと言われています。例えば、「安全神話の崩壊」等でございます。 では、実情はと申しますと、決して、そのような悪化傾向示すデータは存在しておりません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ いつぞや 少年による酷い犯罪がいくつか続いて起こったとき それでもたしかに発生した件数もしくは比率として過去から際立って増えたということはないという情報が伝えられたことを思い出します。《体感治安》ですか。はづかしながら初めて耳にしました。受けとめた側の感覚は 悪化傾向のように思うということでしょうか。 家や自転車に鍵をかけるかどうかなどから言っても 変わって来たことはあるにはあると思います。荷物や持ち物の置き引きに対しての警戒心は 昔と比べて 格段の差があるようには思いますから。 ★ ・・・一方では、マスコミの劇場型”犯罪報道”があろうかと思います。 ★ マスコミに対する各国の信頼度調査結果 / 日本のマスコミの評価は余り高くはないようでございます。 ☆ この分野と言いますか主題についてもわたしは ほとんど注意してこなかったのですが。それはたとえば 今回の尖閣諸島沖の漁船との衝突事件をめぐっても 政府もマスコミも 冷静です。中国というのは 分からないですねぇ。一世紀ほど頭の中で時代が遅れているのでしょうか。 あるいはまた 新聞報道にしても 誤報にかんしてはそれなりにきちんとあとでわびつつ訂正するというしきたりはあるように思います。 ということは 記者たちが自由度をうたがうということは 一般のわたしたちには分からない事件などの報道をめぐって その姿勢に問題があるということなのでしょうか。アメリカCIAと検察とマスコミの連携などは 明るみに出されつつあるようだとうかがって来ているところですが。 あっ いまふと思ったのですが けっきょく《心情》というのは こころ(精神)の上っ面で動く心理作用のようなものですから――《信条や信念》とは違うはずですから―― 中身はない。言いかえると 中身として事由づけることは 何でもありとなるかも知れません。やはりボスの鼻息しだいでことが起こったり変わったりするということでしょうか。 そのような――法治ではなく――人治社会は 中国のことだと言われて来ていますが 日本にもどこかにその傾向があるのでしょうか。あるいは 一般には 個人的なルサンチマンでないとすればやはり利害関係と見るのが妥当なのでしょうか。 やはりあいづちの域を出ません。 相手と同じようになる――この主題は 保留させてください。まとまりません。ふたつの k… について進展はきわめてあいまいですし。
こんにちは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。 > 本的にこの《スタンフォード監獄実験》の結果としての《まとめ》をまちがいだと考えます。? 確かに、この結論は断定し過ぎのように考えられます。 そこで、上官であるヒムラーの命令を無視してまで、虐殺を実施したアイヒマンについて、少し補足させていただきます。 このアイヒマンも元ナチス幹部と同様、アルゼンチンに逃亡し、結局逮捕されてしまいます。そして、尋問が行われました。その結果、このアイヒマンなる人物はごく平凡な一般人であることが分かってきました。つまり、当初の悪魔のような人間とみなされていたアイヒマンが、検察官等の予想とは全く異なったものというものでした。そして、その不可解さを実験的に調べてみようとしたのが、この実験(ミリグラム実験も含みます)だったと記憶しております。 従いまして、統計の問題ではなく(統計的有意性の有無等です)、単にかような条件下では、ひとはそのような残虐な行動を採ることが”あり得る”ということを示唆したものに過ぎないと解釈しております。 つまり、以下の表現が正しいと考えております。 ”暴走してしまう” → ”往々にして暴走してしまうことが起こりうる” ”役割を与えられただけでそのような状態に陥ってしまう” → ”役割を与えられただけでそのような状態に陥ってしまう可能性が存在する” > すなわちわたしがそこからみちびく結果は 事実としての結果は 《たとえ暴走したとしても 理性の歯止めはやがて利くであろう。もしくはまったく利かなかったとしても あとでは(または内心では)どうも間違っていたようだなぁとの思いを抱くであろう》になります。 これは、孤軍奮闘されておられるbragelonne様なので(最近は、支持される方々も増えてきているように見受けられますが)、かような歯止めがかかると思っております。 ですが、大勢が群衆心理で行動に出た場合、往々にして、歯止めが利かなくなることもあろうかと存じます。例えば、ポーランドのイェドヴァブネという小さな村におきまして、何の罪もない(チクっていた大半は、実際はポーランド人でした)ユダヤ人を虐殺したという事例からも、ある程度伺えるものと思われます。なお、群衆を駆り立てたのは、ドイツ人と同様、ルサンチマンであったとされています。??> その場合の《話》は その本人の作るがままになります。《話しが違う》もなければ 大きな広い場としての《話》にわざわざ合わすこともないと成りかねません。? 確かに、この危険性は常に孕んでいるように思われます。ただ、この実験では、残虐性の可能性を模索した一つの実験に過ぎず、”往々にして、このような悲劇が生まれる可能性は否定出来るものではない”と解すれば、そんなに問題ではないとも考えております。ただ、この限られた実験だけをもって、拡大解釈される危険性もまたあとうかと存じます。 ?> 一事が万事と見ることは為し得ないか。? 一匹よりも九十九匹を大事にするべきか。?? 《まこと》は 中間にありましょうか?? 中道と言うべきでしょうか。 ”両極”にはないことは、事実と考えてはおりますが、その場その場に応じたものになろうかと思われます(恥ずかしながら、愚生にはわかりません)。 ?> 《無頼漢》――その気配を わたし( bragelonne )に感じたということでしょうか。 いいえ、常々ご敬愛しているbragelonneには、そのような思いは愚生は持ちあわせておりません。ただ、今はかなり少なくなりましたが、異常なまでの誹謗中傷の嵐がご質問者様にむけられていたという事実、そして彼らによる《無頼漢》との断定に対して、愚生はその原因を探って見たという次第でございます。 駄文、ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。
お礼
ひどっちさん ご回答をありがとうございます。 アイヒマンの人となり問題から 実験が行なわれたということ。実験結果は そういう可能性が見出されたことをもってひとつの成果とするということ。拡大解釈は つつしむのがよいということ。――この説明をいただきました。 ★ これは、孤軍奮闘されておられるbragelonne様なので(最近は、支持される方々も増えてきているように見受けられますが)、かような歯止めがかかると思っております。 ☆ これはですね。気持ちとあい反するようなことを言わなければならないのですが 《暴走》ならまだましだと考えるのです。台風が過ぎ去れば からっと青空になります。 いわゆる《空気》問題が そこに脅迫の要素を加えてくると 厄介なことになります。脅しは 一般には自分が暴走をしないで済むようにするための手立てだと考えられます。 ルサンチマンからついにそのはけ口を得て暴走するなら ともかくそれとして筋があります。 ない場合に厄介なことが起こります。 霧か靄が地上すれすれに深く立ちこめるかのように ふつうの生活圏が暗い世界になって来ます。ウラの世界がオモテにかぶさってくるかのように。 《心情》という気持ちが 帝国を築くに到っている。のかも知れません。世に陰謀説が絶ち切れないのは そのゆえであるかも知れません。 すなわち この心情には 筋がありません。話が分かっていません。その帝国の空気として決まるものなのでしょう。あとは そのくしゃみや咳になびくかどうか。それで 人間の社会的な位置づけが決まります。へらへらと靡く者も あぶないです。消耗品にされてしまいます。 この無頼の世界にわたしたちはどう向かい合うか。 ▼ (パウロ:コリント前書 9章) ~~~~~~~~ 19:わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。 20:ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。 21:また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。 22:弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。 すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。 23:福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このパウロにあやかるためにではないのです。あとで考えたら この場に押し出されて来ていたのです。 果たしてブラジュロンヌは 無頼漢に対しては無頼漢のようになったでしょうか? 九十九匹よりも一匹というブラックホウル(じつは ホワイトホウル)にわたしはあるでしょうか? ただの猿芝居なのでしょうか。
補足
ひどっちさん。 これは わたしの勘ですが いまこの哲学カテはその有効性をかけた一人ひとりの決断のときに差し掛かっていると感じます。 広く人びとのあいだでの対話とそこからの広がりについては 有益でしょうが それだけではどうでもよいと見なされます。けちをつけるつもりも さげすむつもりもありませんが 茶飲み友達の世間話が初めから限界を設定したようなかたちで続けられることには 有効性は出て来ません。 ふるくからの志のある方やあたらしい同じくの方たちとともにあゆもうと心に決めてわたしも三・四年参加して来ましたが どうもわたしの感覚では ここで行き詰るかその壁を突破できるかのときに当たっているのではないかと思います。 特に何かをするということでもありませんので そういう見方をつぶやくのみなのですが。
お礼
これについて まづわたしは( a )をかの実験にならって《権限を付与された人間》と設定しました。言いかえると 《話が違う》となりうるところの《話》をその実験なら実験という狭い範囲において設定しているかたちです。 したがって ( a-1 )は その社会情況に違いはむろんあるのですが 全体の社会の中でおこなわれるところのあたかも実験の場合に相当すると考えます。要するにその場合の《話》は あるとするなら 社会全体の側から一人ひとりの個人にその情況として 暗黙のうちに与えられている(か または そんな社会の黙契をへっちゃらだと思っているかである)と思われます。 すなわちわたしがそこからみちびく結果は 事実としての結果は 《たとえ暴走したとしても 理性の歯止めはやがて利くであろう。もしくはまったく利かなかったとしても あとでは(または内心では)どうも間違っていたようだなぁとの思いを抱くであろう》になります。 情況を架空のうちに設定する(ゆえに それとしてほんとうの)《実験》は 《作り話》としての話が大前提にあります。社会(人間関係)として狭く限られた空間で行なわれますし その時間過程も限られています。そのような場合 旅の恥はかき捨てではありませんが いわゆる責任を取らないでよい(または 限られた責任しか取らなくてよい)という思いが強く 何ごとにもはたらくのではないでしょうか。 つまり 情況やそれにまつわる《話》が もっと広く生活に即した実際のことであるならば 割り合いに責任感は持つでしょうし まわりからもかもし出されてくると言えるのではないでしょうか。 問題は この《実験の場と時間》を どういうわけか 《ひとの生涯》に当てはめてみるという場合です。早くいえば 《どうせ五十年か百年のこったぁ。向こう見づの無頼漢で何がわるい。殺したくば さっさと殺せい》という思想を持つ場合です。その場合の《話》は その本人の作るがままになります。《話しが違う》もなければ 大きな広い場としての《話》にわざわざ合わすこともないと成りかねません。 言いかえると 上の分析での次の内容が示す範囲をはみ出す場合です。 ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~ (5) おそらくナチス下での被験者らは いやいやながらあるいは不本意だがやったと言うでしょう。思いも実際そうなのでしょう。たとえめちゃくちゃに暴走したとしてもです。途中でやめさせられて《話が違う》と言い続行を望んだとしてもです。それとも ユダヤ人憎悪一色に心の底から染まった人物が たのしかったと言うかではないでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち 無頼漢にとっては 何かをおこなって省みるに《いやだった》という場合がありません。不本意だったと思っても やったことはやったことだと見るでしょう。《暴走する・しない》は 話の筋に入って来ません。もし物理的な力によってその暴走をとめられたとしたら ただそれだけのことと思うはずです。もし一応《話がちがう》ということになったら もう放っておくだけです。そんな過去はなかったことになります。いま現在の《話》から遠ざかったのなら なかったことになります。《ユダヤ人憎悪だったかどうか》も 過去となった話にはもうかかわりがありません。 すなわち 自分のいま持っている《話》だけが 現実であり 他人もみなすべて――本来は――このおれにとっての現実である《話》に従え。染まれ。という思いのみが 《人間として持つ思想》だと思っている。つまり 端からおしまいまで 《押しつけ人生》になりがちです。 これを《人間》と呼べるか? ただし おっしゃるように この自分独自の《話》を無条件に頭っから《自由に》降り注ごうとするのは ただひとり 世間にとって例外だと見なされている〔と自分が確信を抱いたところの〕人間にのみ当てはめるというものです。 ★普段の生活では、よき同僚であり、よき親・兄弟であり、また、よき友人でもあるかと思っています。 ☆ というそのとおりの現実があるようなのです。 一事が万事と見ることは為し得ないか。 一匹よりも九十九匹を大事にするべきか。 《まこと》は 中間にありましょうか? 中道と言うべきでしょうか。 《無頼漢》――その気配を わたし( bragelonne )に感じたということでしょうか。
補足
そうですか。――ひどっちさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。――まづもってわたしは 根本的にこの《スタンフォード監獄実験》の結果としての《まとめ》をまちがいだと考えます。 したがいまして ひどっちさんの結論すなわち ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ まず、結論から申しますますと、”人間”と解しております。 確かに、”珍種の生物”と考えたこともございますが........ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これにも批判をしてみたいと考えます。強いて申せば 《まこと》は中間にあるというふうにも考えました。 ▼ (スタンフォード監獄実験 Stanford prison experiment)~~~ § 実験の結果 ○ 権力への服従 強い権力を与えられた人間と力を持たない人間が、狭い空間で常に一緒にいると、次第に理性の歯止めが利かなくなり、暴走してしまう。 ○ 非個人化 しかも、元々の性格とは関係なく、役割を与えられただけでそのような状態に陥ってしまう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ どちらもわたしは ふつうの生活において人間〔関係〕に起こり得る一般的な傾向だとは認めません。 ★ ”監獄実験”で、実験が中止されたにもかかわらず、「話が違う」と続行を希望したひとがいた ☆ この同じ事実に逆に 認めない理由があります。 (1) すべては取り決め合った《話》を前提としその筋においておこなわれていると見るからです。 (2) 言いかえるなら ユダヤ人虐殺の場合とは 大きく社会の情況がどうであるかが違っているという意味です。 (3) 逆に思考実験をしてみましょう。ナチスドイツという現実の社会情況の中で そのユダヤ人の迫害を《実験》としてやろうとした場合はどうかです。 (4) 被験者は仮りにことごとくスタンフォード監獄実験の結果と同じような行動を取ったとしてみます。つまり実験結果は その現象として起こった事実はおおむね同じ内容を示したという場合です。 (5) おそらくナチス下での被験者らは いやいやながらあるいは不本意だがやったと言うでしょう。思いも実際そうなのでしょう。たとえめちゃくちゃに暴走したとしてもです。途中でやめさせられて《話が違う》と言い続行を望んだとしてもです。それとも ユダヤ人憎悪一色に心の底から染まった人物が たのしかったと言うかではないでしょうか。 一般にわたしは人文科学の主題や社会科学の問題で実験というものを信用しません。逆に言えば 国家のもろもろの政策から個人の生活態度まですべては 試行錯誤をまぬかれない実験の過程だと捉えざるを得ないところがあると考えます。 いわゆる統計は その選択肢に即しての限りで有意な内容を示しているのでしょうけれど 選択肢を立てる思想が違えば かなり違った結果を示し得るとも考えます。言いかえると この統計も実験のようなものだと考えます。 仮りにですが このOKWave でその参加者のあいだに――監獄実験にならえば―― ( a )《権限を付与された人間》と ( b )《( a )に比べて権限を持たざるふつうの状態にある人間》との区別があるとしてみましょう。(《レフリー》の制度もあるようですから 多かれ少なかれ適度に《監視》が行なわれていると言えるかも知れません)。 このとき要するにひどっちさんは ( a )の内容をそれとは違って ( a-1 )《人気がある。あるいはつまり人びとのためにも行動しているのだと自認するようになる。やがてその人の中に或る種の正義感が生まれその信念によっても 自分の行動に持つ自信を深める》というふうに設定されたわけです。 そこで ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ つまり、ある空間(例えば、OKWaveコミュニティー等です)では、質問とそれに対する応答を繰り返していますと、「理性の歯止めが利かなくなり、暴走してしまう」ことが生じてしまうということでございます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ とみちびかれた。