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【中世】二条城の南側の道は三条坊門小路(現・御池通り)です。坊門は条の

【中世】二条城の南側の道は三条坊門小路(現・御池通り)です。坊門は条の真ん中だとすると、二条城のあるところは三条なのでしょうか? 今の二条城や、同じく三条坊門小路沿いの信長・秀吉の二条城は、三条ではないのでしょうか? 中世の京都の二条と三条の範囲がよくわかりません。中世の条はどういう範囲のことなのでしょうか?

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  • Pinhole-09
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回答No.2

先の答えは、条里制 → 条坊制の流れと矛盾します。 大通りに囲まれた区画を「坊」、坊が横に続いて「条」 が正しいのです。 従い南北は、二条大路と三条大路に挟まれ、東西の端は 東京極大路、西京極大路である、細長い区画が「三条」 です。  以下「九条」まで同様。 ご指摘のように二条城の大部分は「三条」内です。 古語辞典の付図の「平安京条坊図」で、二条殿が「三条」 内にあります。   私はこれで錯覚しました。 「三条」内なのに二条城というわけは、 足利義満の屋敷が二条通りに面していて、二条城と呼ばれ 以降、将軍家の屋敷は二条通りに面していなくとも、 二条城と呼ばれたとあります。 信長が足利義昭のために建てた二条城も同じです。 二条殿は摂関家の二条家の邸宅なので、そう呼ばれました。 この跡が、義昭の二条城、織田信忠が明智光秀に討たれた 二条御所となります。 家康は別邸ですが将軍なので二条城と名付けました。    

参考URL:
http://homepage1.nifty.com/heiankyo/heian/heian03.html
jitu
質問者

補足

お礼、ご返信が、申し訳ありません、遅れました。メールがこなかったものですから。 ご回答ありがとうございます。 >足利義満の屋敷が二条通りに面していて、二条城と呼ばれ 以降、将軍家の屋敷は二条通りに面していなくとも、 二条城と呼ばれたとあります。 「とあります。」とうことは、古語辞典の文でしょうか? よろしかったら、どちらの古語辞典か教えてください。 ありがとうございます。 しかし、二条城というネーミングにそのような事情があるとは、意外でした。 世上でよく言われる「二条城は二条にあるから二条城」という内容の話は、間違っている部分があるということになります。 なかなかに込み入った事情でした。ご説明申し訳ないです。

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その他の回答 (1)

  • Pinhole-09
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回答No.1

平安京の「条」を例で説明します。 南北は、 三条坊門小路と四条坊門小路とに挟まれた地を 「三条」と言います。    中央の大通りが 三条大路です。  「八条」まで以下同様。 東西は、東京極大路と西京極大路が両端です。 細長い区画です。 「二条」は一部が「内裏」と重なるるので、 大炊御門通りと三条坊門小路に、挟まれた地に なります。 二条城はこの中にあります。 二条大通りは中央通りですが、朱雀門に接して います。  角川古語辞典(平安京条坊図)、WIKIの 「平安京」をご覧下さい。 度重なる兵火、特に応仁の乱の大火で当時の条坊 はすっかり乱れてしまいました、今に残るのは 四条と七条大通り位でしょうか。

jitu
質問者

お礼

角川古語辞典は覗いてみます。 なにか調べてから返信を、と思って、返信いたしておりませんでしたが、長い時間がかかってしまうので、取り急ぎお礼まで。 ありがとうございます。

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