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死生観と無常感
死生観と無常感 歴史的な事ではなく、今現在に生きる皆様のご感想をお聞かせください。 年齢的な要素も多分にあると思われます。 宗教の有無を問いません。
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まずは死生観かな~ ある牧師はこう言いましたね 「キリストに救われたのなら (自殺を含めて)とっくに死ねばいい しかし、私たちは福音を伝えるために 神によって生かされています!!」 でもこれはかなり納得しましたね 神によって生かされる事を でもそこも無常感に繋がるかな マタイ6章30節 「きょうあっても、あすは炉に 投げ込まれる(かもしれない) 野の草さえ、かみはこれほどまでに 装って(育て)くださるのだから、 ましてあなたがたに、 よくしてくださらないわけがありましょうか。 信仰の薄い人たち。」 と自分は信じてますが まあ一般論じゃあねーな(汗) 一般論で言えば(?) 一筋の希望を信じて(信仰して) 生きていき神様がここまでって 言うまで生きるしかないですね 、、、、。 まあ、神が物理の世界をも動かしているし ただその中に自分たちは 傍観しつづけているのかもしれませんね。 最後に自分的には 死ぬことへの体の恐怖は拭いきれませんが 死後の世界ってどうなっているんだろうか? とかの興味はあるのでそんなに心配してないです。
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- mmky
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死生観と無常感 死生観 ○ 不死であるがゆえに死生観は相対的な感情ですね。 この世では生に喜び死に悲しむ。逆にあの世では死に喜び生を悲しむ。短いが苦難の旅に出る人々を見送る悲しみですね。でも立派に人生を全うして帰天してくることを祈り、そして帰天を喜ぶわけです。逆に失敗は悲しみの対象にもなります。それがあの世の死生観ですね。 永遠の転生輪廻において不死もまた無常なるものですね。 無常感 ○ いかに不死であろうとも無常からは逃れられない。無常はこの世とあの世を貫く一乗。 生死の意味を求めて、求めて何度生死を繰り返したことか、今回もまた仏陀再誕を知り、無理に無理を言って日本という小さな小さな島国に初めて生を受けました。 モーゼの時代、釈迦の時代、イエスの時代、いつの時代もその場にいたはずですが、何故、生死がありこの世があるのかがわからなかったのですね。気の遠くなるような時の気の遠くなるような数の転生を繰り返し、この時代によわい60にしてやっとその意味がわかりましたが、それもまた無常ですね。一つ理解すればまた一つ課題が生まれる。 多くのものは私と同じように智を求めて日本に生まれて来たはずですね。からし種一粒ほどの信仰心があり智を求める気持ちが残っているならば思い出して欲しいですね。「がんばって仏に出合って勉強しよう。」とみんなで誓って生まれてきたことを。まだ間に合うから。 ・・・・・・それが今の死生観と無常感ですね。
お礼
あの世の死生観・・・とは驚きました。 あの世からこの世を見る死生観という事になりますね。 失礼ながら、逆転の発想という見方からしてもユニークのように思いました。 生死を隔てなく観る智慧の世界を指しているようにも思われます。 しかしながら、そうした世界をお示しになられた事には感謝いたしますが、一般的には理解されない事のように思われます。 輪廻転生にまで踏み込んだ事柄は、一般的思考では捉えられない不可知の領域にあるからです。 回答者様が縁覚の境地における孤独を味わっておいでなのでしたら、ご回答文もまた、その心に沿った自然なものなのでしょう。 私はその事も内容も否定はしません。 感じるのは、人でありながらもそれぞれが持つ死生観の隔たりの大きさです。 良し悪しではないようにも思えます。 雑華厳飾という言葉がありますが その中の一つ一つが、私達には分からなくても確かに繋がっているのでしょう。 また、そうでありたいとも思う所存です。 ありがとうございました。
- 雪中庵(@psytex)
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生きる目的が、お金や物質的豊かさ、あるいは虚栄心など他律的な ものであるか、精神的充足(=認識的深まりを含む)であるかによって、 死生観は大きく異なります。 自分のためにだけ生きれば、死は全面敗北です。 しかし、あなたの生命は世界中の人の営為に支えられている=社会生命 としての自覚(=愛)において、助け合いとしての自律的社会行動により 生きるならば、死は自分を活かしきった結果(=満足)になります。 人類の細胞も、DNAの最後に回数券のようなくり返し配列が(50回ほど) あり、一回細胞分裂する毎にくり返しが1つ減って、なくなるとそれ以上 細胞分裂できず、新陳代謝できずに老化して死ぬようになっています。 生物は、有性生殖以前の「突然変異による多様化とその淘汰による選択」と いう人まかせで遅い進化に対して、交配する事で遺伝子の配列をシャッフル して多様性を生み、また交配のための種内の競争による選択という、素早い 進化を可能にしたのです。 そこにおいて、世代交代しなければ個体数が増える一方なので、自ら寿命を 制限しているのです。 細胞分裂で増えるゾウリムシ(単細胞生物)は、有性生殖など必要ないよう ですが、実は時おり他の細胞とくっついて遺伝子を交換する、「接合」を 行います。 もし接合をせずに細胞分裂だけしていると、百数十回ほど分裂したところで それ以上分裂できなくなり、死んでしまいます。 接合をすると、また若返って、百数十回分裂できます。 それほど「遺伝子の交配」は、進化に有効なのです=長生きは退化。 死は世代交代を意味し、その有性生殖において愛は生じ、親や子供は 存在するのです。 人は往々にして不死に幻想を抱きますが、人も愛さず、子供もいない、 そんな社会が魅力的には思えません。 逆に愛があれば、肉体の限界を超えて意志(=精神的充足)は広がるのです。
お礼
>自分のためにだけ生きれば、死は全面敗北です。 >死は世代交代を意味し、その有性生殖において愛は生じ、親や子供は存在するのです。 死という自らの存在の消滅を超えたものに、目を向けられておられますね。 そこに死への恐れを超えた心があるという事になりますか・・・ 愛という言葉に集約されたところに、回答者様のお気持ちが表れているようにお見受けいたします。 愛というものの主観的な基準も人それぞれのように思われますが、広く一般的にというふうに受け取らせていただきました。 愛は死を超えて不滅なるものに通じる・・・と・・ですか。 ありがとうございました。
>死生観 「神仏は敬えど、これに頼らず」 死後の評価は神仏に任せて、やるべきことをやるだけという気持ちですね。
お礼
力強いお言葉ですね。 私など神仏に頼りっぱなしで、何と意気地なしのことか・・・ 自分の信念を貫かれるという事は、それはそれで立派だと思います。 死を見据えつつ、自己の力を信じて前向きに進んで行く、という事なのでしょう。 神仏を敬う心があれば、ご本人の全く知らぬ間にご加護を受けているという事もあるように思われます。 それは、やるべきこと、というお言葉の中に、正しさという意味が含まれているように取れる面があるからです。 ご精進なさってください。
お礼
正直なご感想ありがとうございました。 やはり信仰を持っていらっしゃる方は、一般との隔たりを感じておられるのでしょう。 私もそうですが、年齢と共に死に対する客観性が増してきますので、主観的にも不思議だと感じない諦観が付きまとうようになってきます。 そうした中での前向きな主観の大切さは、人それぞれに違っても価値があるようにも思われます。 そうしたお気持ちを大切にされようとするところに、安心感をいただく事ができました。 ありがとうございました。