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へびがわたしを噛むのか わたしが蛇を迎えにいくのか
- へびがわたしを噛むのか、わたしが蛇を迎えにいくのかについて、デーモン作用と人間の関係、縁起共生の空観、人間の変化、運命の超越などを考察します。
- へびがわたしに噛まれつづけている頃を前史とし、へびなるデーモン作用が消えた後史に人間は入ることができるのか?人間の変化や将来への展望を哲学的に考えます。
- 蛇に追われるわたしの運命や弱さ、傷ついた心を照らしてくれるものへの期待を描きながら、未知の天空につながれて闘い続ける姿を浮かび上がらせます。さらに、このテーマを哲学に置くことで、将来への展望についても考えます。
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>あっ デーモンとエンジェルとの共存を前提にすべきことを言っていますか? 前提にすべき、というよりも、デーモン-エンジェルの回転を超えて、デーモン-エンジェルと”縁起共生の空観”との回転なのですから、 デーモンがエンジェルに回転しても影響はありません。日常では、大部分が半デーモン半エンジェルという共存だとは思います。 >つまり 空観も 《わたし》の生きる動態です。つまり一般に 縁起=縁起共生=空観です。 なるほど、いずれも《わたし》の生きる動態で結構だと思います。 私は、縁起共生という場合、《わたし》の独自性が極一部として、その全体の中に残っていると《わたし》が知っている《わたし》の生きる動態で、 空観は、その独自性が全体の中に溶解消失するとみる《わたし》の生きる動態かと感じていました。 >一人ひとりの地道な努力としての《回転》の積み重ねでありこれが 社会全体としての動態的な過程に現われてくることであろうと。 誰からみた場合でしょう。一人が、《回転》したなら、その人の社会は既に劇的に変容しています。本当に起こるかどうかはわかりませんが。 それを知った他人からみたら、社会がほんの少し変わったことになります。 何も知らない他人からみれば、社会はまったく変わっていないでしょうが、どんどん積み重ねられて、周りと話などをするにつけて、 《回転》の香りが漂うようになれば、彼にも《回転》が起こるのかも知れません。
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(α) このデーモンは 縁起共生の空観において消えるというのか? ”縁起共生の空観”などという言葉や方便にこそデーモンが生息するんじゃありませんかね。 (β) 人生においてそのへびに噛まれつづけている(もしくは みづからすすんで迎えている)頃を前史とすれば 果たして このへびなるデーモン作用が消えた後史に ひとは入ることができるか? それはできないでしょうね。人生とは、デーモンに噛まれ続けているということですから、デーモンの作用が消えた後はもはや人間ではありません。 (γ) 人間(現実)は変わるか? 前述の通り。 (δ) 将来への展望といったたぐいの主題は 哲学にならないか? これが希望という人生に不可欠の作用ではないでしょうか。
お礼
知性ペンさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。 ★ 人生とは、デーモンに噛まれ続けているということですから、デーモンの作用が消えた後はもはや人間ではありません。 ☆ これが 基本的なご見解のようです。 そうしますと ★ ”縁起共生の空観”などという言葉や方便にこそデーモンが生息するんじゃありませんかね。 ☆ という命題の意味は 縁起共生の空観を持ち出すひとは 《デーモンが生息する》からには 《人間》であるということのようですね。どうでしょう? どこかで話しが行き違ってきましたか? ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ (δ) 将来への展望といったたぐいの主題は 哲学にならないか? これが希望という人生に不可欠の作用ではないでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ええっ? 《将来への展望を語る》のも哲学であるし そういう《デーモン作用》も《人生に不可欠の作用》であるということでしょうか? 茶化すつもりはないのですが こんがらかっているようですので ちょっと 解きほぐしていただくとありがたいです。どうでしょう?
昔についても今についても認識が足らないおかまちゃんが、 未来について哲学することは出来ません。 回答 手懸りとして現合というものがあります。 かまれていないのにかまれたというのは妄想です。 希望退職なのに解雇された。というのはいじめられっこの泣きじゃくりです。 本論 Hegel 法哲学35をお読みになったごようすですね? 補足要求(注意事項 A-No.1お礼 引用文が 間違っていますよ) Hegel 法哲学35 補筆をみると 抽象的意思「Wille」、別しては即自的に今存在している意思が、(法解釈上の)「人」である。人間至高の目的とは、(法の下の) 一法人たることである。ここで、しかし同時に、単なる抽象化された法的「人」の概念が、価値論的に高い位づけを受けているとはいいがたい。法的「人」とは、実体という観点にひきつけて述べるとすると、「主観」とは相容れないばかりか、人の人とたるゆえんである。主観とは、単に人格の可能性に過ぎず、可能性とは、主観の受け皿であり、存在論的に見るとただの修辞である。というのも、全ての生きとし生けるものは、可能性としての主観を保持しているものであり、法の下の「人」は、数ある主観のうちで、主観的連関を対象(オブジェクト)として掌握している一法人であるからだ。法の下にある「人」として、自我は、即自的に現在する。この文脈で、人格こそが自由な現存であるといえ、その現在(如実としてあるということ)は、純粋な自己意識のなかに、孤高として起つのである。 一法人としての自我は、自由を知り満ち足りている。自我は自己の何たるかを、物理的事象から選り分け実体化する。というのも、自己・純粋人格・無を対置したとき、純粋人格を捨て置いて、自我を語ることは出来ず、自己の本源性を無と対置する哲学的ではない誤認となってしまうからである。 にもかかわらず、実存する自我は、法制上「特定の人」として把握された場合、徹頭徹尾、束縛されているとも言える。特定の年齢・身長・どこそこに住所を持つといった具合にである。 言い換えれば、そういう意味で、法制上の「人」は、最高の価値をもつ、と同時に、取るに足らない「もの」であるという見方があるのである。 かくして、一法人という概念の中に、対立的意義として、定律性と非定律性・限定性と非限定性が、ひとつ 結びついているのである。人格の尊厳性は、ある種の統立的矛盾を自己の中に封じ込めている。そういう意味で、「自然的事物」とは、相反するものであり、内容的にも独立しており、自然的なものが何者であろうと寛容な態度では容認することが出来るはずもないのである。 とかいてあります。 質問者様の読解力を疑います。引用には何を使っているのですか? 貴方のオレオレは、思いつきの自然です。 あなたの理論は、それを容認してしまうとヘーゲルさまに怒られてしまうような とんでもない動物的「おさる理論」です。私は騙されませんwwwにょ 「猿の惑星」の平和(やっぱり臭いの?)を乱すつもりはございませんが、 わたしはこころの兎をおされてませんwwwので その御つもりで 本題に戻りますと 「無限なものと 有限なものとの一体性」 というよりは 抽象世界での一箇性というべきところの精神です。 無知の知こそが、普遍と自由の源だといっているだけです。 動物の主観と人間の主観を区別する境界線の「はなし」が出てきて 人格が大事であると述べている。 さて質問者様の人格=はなぢはどうなのでしょうか? 「矛盾」ではなく対述用言的体言Widerspruchです。 わたしたちの中に息づく「もの」ではない「根源」を抽象性に類すると述べているだけであって読み間違いです。 法哲学 の 本来的意味 すなわち インテリジェンス を前提とした権能=Recht としての訳文把握が出来ていないので見逃しているようです。 自然ではないものとは、人的格律としての主観のことです。Gesetzではありませんので・・・ 提案 訳し間違えても意味が通ってしまうフランス語風散文とはわけが違います。 「ウッキィー(=いいぢゃないか;自然原語意訳ウィー)」 (出典『おぢぢ自然旋律 第13 -おさるの障-』)ではだめですよwww ヘーゲルを批判したいと思うのなら もうちょこっとドイツ語を勉強しなさい。 ハイデッガー批判も取り下げなさい。 (英語でも部分的に許可www、 勉強嫌いのおぢぢ様へ わたしは貴方の診方です。 味方かどうかは考えればわかりますwww) 異物は、もう少し心の余裕を養うべきです。今からでも遅くありません。 最近 さるまわしも拍子抜けしているようです、元気を出してがんばってください。
お礼
どうも主題をつかむことから始めなければならないところを ひとつの事項をのみ捉えて茶の木畠に入って行ってしまっている。 ご投稿に感謝しますが 方向やねらいが定まっていないようです。 まづ 訳文を それでは掲げておきましょう。 ▼ (ヘーゲル:法哲学 §35 追加) ~~~~~~~~~~ § 35 追加〔人格という概念の高さと低さ〕 対自的ないしは独立に有る意志 すなわち抽象的な意志が 人格である。人間の最高のことは 人格であることである。だがそれにもかかわらず たんなる抽象物たる人格といえば すでにその表現においてなにか軽蔑すべきものである。 人格は 主体とは本質的に区別されている。というのは およそ生きものはいづれも一つの主体である以上 主体はただ人格性の可能性でしかないからである。したがって人格とは この主体性が主体にとって(対自的に)有るところの主体である。なぜなら 人格において私はまったくただ私にとって(対自的に)有るからである。すなわち人格とは 純粋の対自的存在における自由の個別性である。 私はそうした人格として 自分を自分自身のなかで自由であると知り いっさいを度外視しうる。なぜなら 自分の前には純粋な人格性以外になにものも存在しないからである。 しかも私はこの者として 一つの完全に規定されたものである。――たとえば しかじかの年齢 しかじかの大きさ この空間にいるなど まだほかにいくらでも一個特殊的なものがあるであろう。 こうして人格は 高いものであると同時にまったく低いものである。人格のうちには 無限なものとの こうした一体性がふくまれている。この矛盾は どんな自然的なものも自分のなかにこれをもっていない ないしはこれを我慢できないであろうが この矛盾を持ちこたえることができるのが人格の高さである。 (藤野渉・赤澤正敏訳 1967) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これで意味はじゅうぶんに通るし取れるはずです。もっともわたしは あくまで自分の趣旨に合わせて引き合いに出しているというかたちです。 こまかく見れば 《対自的》と《即自的》がちがっていますね。この訳文に即すかぎり 《主体性》のほうが 《即自的》な存在を言おうとしているようですから 人格については対自的の訳語のほうが妥当だと見られます。 ★ 無知の知こそが、普遍と自由の源だといっているだけです。 ◆ 人格の尊厳性は、ある種の統立的矛盾を自己の中に封じ込めている。そういう意味で、「自然的事物」とは、相反するものであり、内容的にも独立しており、自然的なものが何者であろうと寛容な態度では容認することが出来るはずもないのである。 ☆ つまり 人格ないし単純に人間存在はその《自然本性》において潜在的なかたちでにしろ 《ある種の統立的矛盾を自己の中に封じ込めている》。そうなのであるが しかも《自然的なもの〔としての状態にあるひと〕》はその《封じ込め》ないし《含み持つこと》が出来ていない。 このときこの訳文にしたがう限りで言えば 人格が《自然的事物とは相反する》という表現は あやしい。自然本性において 人格ないし人間存在は 自然的事物と 別に相反する必要はない。相反する自然的事物というのは 自由意志のわがまま・つまりへそ曲がりのことであろう。これは 人格にさからう要素を持つ。ただし もともと人格についてはその高さを言おうとしているのであるから この《わがままなへそ曲がりとしての自然的事物(恣意性というべきか)》をも人格は自分の中に湛えている。 ★ 自然ではないものとは、人的格律としての主観のことです。Gesetzではありませんので・・・ ☆ そうですよ。だからぎゃくに《自然的なもの》は この人格としての主観のようには 《無限なもの》をみづからの中に採り入れることが出来ていない。となります。 ★ 法哲学 の 本来的意味 すなわち インテリジェンス を前提とした権能=Recht としての訳文把握が出来ていないので見逃しているようです。 ☆ そうでもないでしょう。あるいは逆に わたし自身の意図は わざわざ《権能》を出して来る必要を認めていないということです。あくまで《自然本性》という概念で扱い得るという姿勢です。 つまり早く言えば わたしはここでヘーゲルを捻じ曲げている。ただその文章を出汁に使っているのみだとも言えるでしょう。(それによって じつは このヘーゲルの文章も生きるとは思っています)。 どうでもよいことですが ◆ 法人 法的《人》 ☆ こういう訳語は こなれていないどころか 誤解を生みやすいでしょう。
- 来生 自然(@k_jinen)
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思いの方向として、α→δは扱い得ることでしょう。。。 だからこそ、α→δ(という知)、および「その(越えた)向こう側」を思おう(愛そう)ということ【=愛智=哲学】は成立し得るのでしょう。。。 しかしながら、そういったもの全て「アルパから(デルタを越えた)オメガまで」が「知・智」のみで記述可能・共有可能(すなわち、万人の間で交換可能)といった途端に、(神ではない)神概念(ないし神的に捉えられるものごと)も(悪魔ではない)悪魔概念(ないし悪魔的に捉えられるものごと)も人智の範疇にあって、消滅させることができずに、ただ変容させることしかできなくなるでしょう。 ※「消滅させた」と誤認するなら、「復活した」と誤認することも同時に成立すると言うことです。 人類が、聖書・教典の類を「言葉」(ないし言語・思考の問題)として取り扱いうると信じ、そうして、万人に共通の概念になりうると信じた時から、既に「アルパからオメガまで」を取り扱いうる(すなわち人智=神智になりうる)と確信犯的に行動するのだと思います。 そのような「知・智」の極限に到達した場合、「神・悪魔」を「神概念・悪魔概念」では捉えきれないが実存する「もの」だとして取り扱う限り、人々は自らの内部に「も」あるにもかかわらず「神的なもの・悪魔的なもの」を、外部の神・悪魔「のみ」によって生じたものだとすることで、「主体性の放棄・責任転嫁」といった選択肢を担保することになるでしょう。 また一方で、「神・悪魔」を実存しない「もの」だとして取り扱う限り、「神概念・悪魔概念」は混沌とした淵にて混ぜ合わされ、「神的なもの・悪魔的なもの」を、人々の内部「のみ」に追求し続け、第二、第三のアウシュビッツといった選択肢を担保することになるでしょう。 詩は、歌われるときに、単なる文字・記号を超えることでしょう。。。 聖書・教典の類も、「何かを求めようとする思い」にて読まれるときに、単なる文字・記号を超えることでしょう。。。 そうして、その「超えた」領域は、詩単独が内在するものでもなく、歌い手単独が内在する者でもなく、聞き手単独が内在するものでもない・・・ 強いて言うなら、詩・歌い手・聴き手およびその歴史と未来とを含む「全体」の変容として感じ取られるときに「超えて」いると思われるのかも知れません。。。
お礼
お早うございます じねんさん。おもしろいと思います。ご回答をありがとうございます。 たぶん――復唱することも おそらく必要のないゆえに せずにわたくしの反応から入りますが―― 表現が どの位置から出ているか これが必ずしもはっきりしないうらみがある。まづ こう思いました。 つまり簡単に言って じねんさんご自身の立ち位置のことなんですが たとえばそれは 《人間》もしくは《じんるい》といったところでしょうか? もしそうだとしたら そこには《わたし》がまだ見えない。じねんさんご自身の《わたし》です。 むろん そういうふうに特定のひとの《わたし》が見えない文章というのは 概念の普遍性にもとづこうとする推論から成っていますから 言わば《理念的》であり 誰もの認識を深めることになるかと考えます。 しかも どうなんでしょう それは理念の認識というひとつのことに収れんするのではないか。あるいは そういう仕事として枠組みがはめられてしまうのではないか。こうも思うのですが その点はどうでしょう? つまり最初のわたしの反応に帰って 意味はこうです。 じねんさんご自身の立ついまの場所は どういうふうであるか。どういう環境であって どういう風が吹いていて それらに対して ご自身〔の《わたし》〕は どうふるまっているのか。 つまりこうです。 ★ 「アルパからオメガまで」 ☆ を全体として・すなわち世界全体としての認識のために 概念とそのありよう・或るいは概念の扱い方をきちんと捉えわきまえておこうという心づもりのもとに――つまりそういう出発点に立って―― 文体を歩き出させている。全体観ですね。 では ご自身は アルパなりベータなりの一つひとつの過程やその局面において どう考えどういう判断をくだして《生きている》か。その《わたし》が いまひとつ 分からない――そういううらみです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ 詩は、歌われるときに、単なる文字・記号を超えることでしょう。。。 聖書・教典の類も、「何かを求めようとする思い」にて読まれるときに、単なる文字・記号を超えることでしょう。。。 そうして、その「超えた」領域は、詩単独が内在するものでもなく、歌い手単独が内在する者でもなく、聞き手単独が内在するものでもない・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ご自身が歌った結果 どうであったか。《わたし》が読んだとき 《単なる文字・記号を超えた》ところは どうであったか。 《詩単独や歌い手単独や 聞き手単独がそれぞれ内在するものでもない》領域に 《わたし》はどのような貌をして立ったのか。どういう風が吹いていたのか。 つまりは いくら《超えた領域》と言っても いま・ここなるわたしの外の場ではないはずです。たとえわたしを超えていて外の場であったとしても それをもわたしが見たのですし そこにわたしが立ったのです。 もしそうでないと言うとすれば それは 《縁起共生も空観も 前史から後史への回転も 復活も何もかも》 まやかしだという見解の披露になります。そういう見解もあり得ますから そこのところを明確にすることで 何らかのかたちの領収証を 対話の双方が互いに 切ることが出来る。と言いますか そもそも文体という動態は その文章におのれの指紋を残すものである。それだからこそ 読むひとは その人に〔正負の〕信頼を抱くことができる。 そういうたぐいの問題が 見え隠れしている。これが わたしの偽らぬ感想です。どうでしょう? * (影の声):じねんさんは まじめすぎるのかなぁ。
プライムエイプです。 ひとつ、処世術です。 >> おそらくは〔* デーモンの幻想は〕消えない。 悪の観念に確かな種子(記憶の根拠)があるのなら、悪は消えない。 ただ生命が悪を手放すのみであり、悪は神にゆだねられる。 それをもって悪神である。 今、曖昧なまま表現するなら、こちらの方が正しいのでしょう。 このカッコでくくられた、〔* デーモンの幻想は〕は、悪神にゆだねることで霧消します。 愛ゆえに悪を生む。 それを司るのが悪神の愛です。
お礼
つづいてです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ このカッコでくくられた、〔* デーモンの幻想は〕は、悪神にゆだねることで霧消します。 愛ゆえに悪を生む。 それを司るのが悪神の愛です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これについては すでにお答えしたところを掲げます。 ☆☆ (No.2補足欄&お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~ 〔 まづ《それをもって悪神である》は 上に触れた表現つまり《善人にも悪人にもひとしく雨を降らす》というふうに《悪人にも愛をそそぐ》そのひとつの側面を 《悪神》と呼んでいるのだと取ります〕。 さて このようでしたら 先に出ていた《消える》問題は それほどむつかしいとも思えません。 《神》から見て・もしくは世界の総体において 悪は《消えない》。個人にあっては 《前史から後史へ入った》なら その限りでデーモンは――《種子:記憶に蓄えられたもの》としては――《消える》。 《消える》と言ってはいますが わたしの表現としては むしろもっと弱いものなのです。つまり ★ 生命が悪を手放す ☆ というまでの表現をまだ取り得ず ただ《デーモンないし悪もしくは罪》が なにものかによって 覆われる。〔包み込まれる〕。よって表には出ない。けっきょくその意味で《消える》と言っているのですから 《消えてはいない》とも言えます。 でも前史での現われとは 一線を画しているのが 後史だと言えるとも思います。 デーモンよ さようならと。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ 悪神 ☆ これは 神のそういうはたらきとしての一面を名づけたものと取れますし取りますが あまりよい命名ではないと考えます。 ひとつに 神(ないし無神)が 一つ二つと存在するという印象を与えてしまう。 ひとつに ★ 悪神にゆだねる ☆ という表現についてですが そもそも身も心もゆだねるその相手は 非思考の場においてなのですから なぞであり分かりません。それを 一般に神と呼んでいますが それをそのはたらきの一面を捉えて《悪神》と名づけるのは まだよくなじめませんし分かりません。つまり 身をゆだねるのは 神である。そのほかに《デーモンやその幻想》なり何なりにしたところで これを神なら神に押しつけるわけではありません。 わたしはわが身と心を神の みこころのままにとしてゆだねることによって 前史の海から後史の心の海に本籍を移すことが出来た。その結果 デーモンやその幻想が消えた(包まれつつ もはや表で出ることがなくなった)。という経過をたどっているとは考えますが いかがでしょう?
プライムエイプです。 a2についていくつかぶっきらぼうに。 > そのことを ヘーゲルの表現じたいはまさしく言っています。 これはその通り。 その点を私にも理解でき、ブランジュロンヌさんも同様の理解をしている。 しかし当のヘーゲルが当時いかようであったか? 明瞭な理性を示す事は簡潔な文章にて表すことで当人の理解のほどが判る。 その限りでは哲学書も本来ならもっと薄っぺらでしょう。 要するにヘーゲルは果敢な先達ではあったが、後世の理解者ほどの理解力は無かった。 これは哲学書に限らず宗教的聖典にも同様に言え、過去に殉教心を示す墓守志願者は膨大な研究書を残すが「そんなもんありゃしねー」でふっ飛ばしたがごとく後世の人の理解は本来はより明晰かつ簡潔である。 > そのような自然の摂理を理解する事です。 その神性はあくまでも理解する事です。 さらには自らも自然の一部であり神性と一体である事を身をもって肌で感じる事です。 理解できると尻尾を振って従う姿勢を見せるのみではいけません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これも たぶんそうなのだろうと思いますが 前回の回答としては 次のようなたとえが出されていますから わたしの応答となったのだと考えます。つまり ★★ (回答No.1) たとえば第3次世界大戦の勃発と言う幻想で人類が滅亡するはずだったのはもう過去の事、このような幻想を見せた人の心が変わる。 これはまだあいまいなんです。 >そのような自然の摂理を理解する事です。 その神性はあくまでも理解する事です。 さらには自らも自然の一部であり神性と一体である事を身をもって肌で感じる事です。 これだけでもまだ理解の順路のような事柄が必要になりそうな点で曖昧なままです。 「消える」「消えない」があいまいです。 >何故なら神の発見が人間を人間たらしめる知性の萌芽であり、それ以前は言葉で語られる事はありません。 要はこれを理想として全うする事なんですよ。 実はかように表現した私自身からしても、これは人間の知性では及びもつかない理想です。 しかしだからと言って、もう私にはこの点で迷いの類は無い。 そこでは、 >★ 自らも自然の一部であり神性と一体である事を身をもって肌で感じる事 ☆ としてあると言えるでしょうか? わたしにはまだ 薄い皮を一枚へだててこの認識を飲み込むことしか出来ていません。さらに説明をねがえればありがたいです。 信仰で無く確信であっても、その確信を楽しんでいても私にも薄皮のごとき感覚がある。 この薄皮は世間が一般に抱いてきた悪の認識と自らとのづれです。 たいして気にする問題じゃあない。 以下にお礼で提出した諸問題に関しても、 >何故なら神の発見が人間を人間たらしめる知性の萌芽であり、それ以前は言葉で語られる事はありません この理想を検討することでおおむね説明できるのではないか? > つまり このようにデーモンに別れを告げたあとその後史にあっても 社会におけるまじわりの関係つまり人間的交通網においては デーモン作用を大いに受ける。あたかも自分では張ってはいないのに すでにアンテナが張られていて それをとおしてのデーモン電波の受信は 引っ切り無しでさえあるようです。 というのが わたしの偽らざる現状ですが――受信情況は 意識しなければすでに潜在意識におさまっていますので 安心してください―― さて いかがお考えになるでしょうか? 私はもうこの点では安心しきっていて、逆風と言っていい世の禍根の残滓が垣間見える中、それなりに今を楽しむつもりです。
お礼
プライムエイプさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 最後のところ: ★ 私はもうこの点では安心しきっていて、逆風と言っていい世の禍根の残滓が垣間見える中、それなりに今を楽しむつもりです。 ☆ これだけでは 申し訳ないが 分かりません。理解をたすけてください。 ★ 安心しきっていて ☆ この状態は 分かります。つまり 何はどうあれ《後史》に入ったのですから あとは なぞの何ものかに任せ切っており 安心しきっています。それゆえ心という海の表面に起こる波風をも《楽しむ》というなら それも分かります。 ただし《デーモン電波》にしても 中には(という意味は こちらの境地が上がるにつれ さらに強烈な作用が来ることになるようですから)《手に負えない》ものも来ます。もつれをほどくのに時間がかかるものもあります。 つまりそういう意味では 《肌で感じる》体感にはまだ薄皮の一枚も二枚もをへだてたところがあります。 ★ この薄皮は世間が一般に抱いてきた悪の認識と自らとのづれです。 / たいして気にする問題じゃあない。 ☆ ここにもわたしの感覚とのずれが感じられるので 異同を明らかにしたいと思います。 わたしの場合 《後史》という位置にあって《世間一般のデーモン電波網とそのふるまい》について《気にしてはいない》のです。しかもそのデーモンの海を漂う前史のありさまは じゅうぶんにわたしの心の中に――中性子のように通り抜けても行きますが――入り込んで来ます。これを受けとめ受け取るときの・相手の心〔にある確かに認識〕とのズレも 大きい。 ここですね。この相手との・あるいは世間とのズレ これは逆に言うと 小さいものでも 問題は大きい。と感じるのです。ないがしろにすることは出来ない。――そういう思いが 靴の上からかゆいところを掻く感じをも与えています。 ★ 要するにヘーゲルは果敢な先達ではあったが、後世の理解者ほどの理解力は無かった。・・・後世の人の理解は本来はより明晰かつ簡潔である。 ☆ これは これも そうは言い難いの感じがあります。なぜかと言えば 雑多な見解や思想がありその中に たとえ理解が薄かったとしても 言葉による表現として高い水準のものがあるわけです。そのような過去の人びとの仕事をとおして そのつどその現在の人間は 理解を深め境地を高めていくのだと思うからです。 おそらくひとはつねに――生まれたときからの過程として 誰もが一たんは〔ウソをつくゆえ〕前史に落ちて ここから再出発しながら後史へと回転して行くという意味で―― 前史を さよならして来たけれど・さよならした位置にいるゆえにこそ 背負っているとも考えます。これも 独立性としての個人であるだけではないところの側面つまり関係性として存在するという側面 つまり《社会総体》という視点だと思います。 * 《社会的諸関係の総和》という言い方が むかしありました。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >何故なら神の発見が人間を人間たらしめる知性の萌芽であり、それ以前は言葉で語られる事はありません 実はかように表現した私自身からしても、これは人間の知性では及びもつかない理想です。 この理想を検討することでおおむね説明できるのではないか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そうかも知れません。そして この命題については すでにわたしは自分の考えを示しましたので これからの進展を待ちます。
プライムエイプです。 検証材料を明文化するための御意見伺いです。 哲学において割と有名な、 神を語るほどに神から遠ざかる。 ならば、 信仰として神を表すほどに、要するに礼拝の類をするほどに、同様に神は遠ざかる。 その筈なんですよ。 以上は無神論的喧嘩の口実です。
お礼
つづいてです。 ★ ~~~~~~~~~~ 哲学において割と有名な、 神を語るほどに神から遠ざかる。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ いや さもありなんとは思いましたが 知りませんでした。 ★ ~~~~~~~~~~~~~ ならば、 信仰として神を表すほどに、要するに礼拝の類をするほどに、同様に神は遠ざかる。 その筈なんですよ。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《礼拝の類をする》ことが《信仰として神を表わす》ことになるのかは 疑問です。ですが たぶん表現の問題でのひっかかりだとも捉えられます。 要するに 神学を持ち出したり 信仰から得られる観想を推論じたいに用いたりするのは 哲学として成り立たず それゆえかえって神からも遠ざかる。こういう意味に取ります。 そしてわたしは 二回の応答において 自分から《神》の語を出すことはなかったが すでに初めからひろく文脈の背景にも具体的なかたちで文章の背後にも 神学や信仰からの観想を漂わせていることは 事実です。空観や縁起共生と言ったりしてその香りを和らげてはいますが そうふうな構えになっています。 つまり ヘーゲルの文章を出しましたが・そしてその文章じたいには神という語は出て来ていませんが でも やはりそこでも 神とわたしの関係といったふうな・たしかに非思考の場のことをけっきょくは持ち出しています。 それゆえ この問いは 哲学にはなじまないのかとも自問しています。 ただ ★ 無神論的喧嘩の口実です。 ☆ ということは わたしの理解では 無神論が けっきょくいま上で触れた神学や信仰つまり非思考の場と 同じ基礎に立っているのですから そのぶんでは特に話をすすめづらいとは思わないのですが どうでしょう? そして繰り返しになりますが 神学の雰囲気は 縁起=空の切り口に置きかえて――それが 前史から後史への回転という史観になりますが―― 捉えてもらって いま少し先へすすめることが出来ればと考えますが どうでしょう?
こんばんは、プライムエイプです。 今回の御質問は落ち着いていていい雰囲気です。 久しぶりに休めます。 頂いたお礼からいくつか。 > 無限なものと 有限なものとの一体性 「私は今ここにいる」その刹那を有限の一瞬ととらえるから矛盾する。 そう感じました。 一瞬は永遠であるとも。 > 現実は変化しない。 生命の心が変わる。 心理学なり脳の医学なりで、精神世界と表現される観念世界は実在する事がもはや証拠の提示に近い証明がなされており、「無」がどーのこーの言っても哲学に置いて否定するのは理性的では無いのが現代です。 その精神(世界)と現実(世界)をつなげることが重要です。 現実世界の条理は人間には愛と理解できる神の介在で成立しています。 そのような自然の摂理を理解する事です。 その神性はあくまでも理解する事です。 さらには自らも自然の一部であり神性と一体である事を身をもって肌で感じる事です。 理解できると尻尾を振って従う姿勢を見せるのみではいけません。 > いま・ここのわたしが すでに後史ないし本史にいる この表現の延長ではすでに誰もが後史にいると言っていいでしょう。 しかし前史があったとの見解だけでも過ちです。 何故なら神の発見が人間を人間たらしめる知性の萌芽であり、それ以前は言葉で語られる事はありません。 >ううーん。どうも ひとつに この《関門》がくせものでしょうか。 かつて多くを語っためちゃんこ悪魔君に関してこのようにも言いえます。 悪魔的現象とは人間に神の愛を知らしめようとする神の愛情表現。 > ★ 消えるのとは違い非思考への回帰。 ☆ については 《消える》と言ってもよいように思えます。幻想が幻想であるとさとる。それゆえ 消える。 おそらくは消えない。 悪の観念に確かな種子(記憶の根拠)があるのなら、悪は消えない。 ただ生命が悪を手放すのみであり、悪は神にゆだねられる。 それをもって悪神である。 今、曖昧なまま表現するなら、こちらの方が正しいのでしょう。
お礼
《消える》と言ってはいますが わたしの表現としては むしろもっと弱いものなのです。つまり ★ 生命が悪を手放す ☆ というまでの表現をまだ取り得ず ただ《デーモンないし悪もしくは罪》が なにものかによって 覆われる。よって表には出ない。けっきょくその意味で《消える》と言っているのですから 《消えてはいない》とも言えます。 でも前史での現われとは 一線を画しているのが 後史だと言えるとも思います。 デーモンよ さようならと。 つまり このようにデーモンに別れを告げたあとその後史にあっても 社会におけるまじわりの関係つまり人間的交通網においては デーモン作用を大いに受ける。あたかも自分では張ってはいないのに すでにアンテナが張られていて それをとおしてのデーモン電波の受信は 引っ切り無しでさえあるようです。 というのが わたしの偽らざる現状ですが――受信情況は 意識しなければすでに潜在意識におさまっていますので 安心してください―― さて いかがお考えになるでしょうか? * デーモン作用を受信することは 或る種の仕方で悪の受容であり嫌なことですが むしろその受信をつうじて みづからの存在あるいは社会性といったことの自覚をつねに新たにせしめられる。といったところでしょうか。良薬は口に苦しといったところでしょうか。(ちょっと変なたとえです。初めの受信のときは 毒のようでもあり あとで良薬になる。あぁ まださらに的確な表現がほかにありそうです)。
補足
プライムエイプさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ 「私は今ここにいる」その刹那を有限の一瞬ととらえるから矛盾する。 そう感じました。 一瞬は永遠であるとも。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ たぶんそうなんでしょうけれど――つまり 《たぶん》というのは これは直観だからですが―― そのことを ヘーゲルの表現じたいはまさしく言っています。 ◆ 無限なもの〔* =永遠〕と 有限なものとの一体性 ☆ 精確に述べておくべきでしょうか。すなわちこれは 《有限なもの》であるわたし(人間)は その人格ないし境地において 《無限なもの》と一体であると言おうとしています。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ > 現実は変化しない。 生命の心が変わる。 (中略) ・・・精神(世界)と現実(世界)をつなげることが重要です。 現実世界の条理は人間には愛と理解できる神の介在で成立しています。 そのような自然の摂理を理解する事です。 その神性はあくまでも理解する事です。 さらには自らも自然の一部であり神性と一体である事を身をもって肌で感じる事です。 理解できると尻尾を振って従う姿勢を見せるのみではいけません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これも たぶんそうなのだろうと思いますが 前回の回答としては 次のようなたとえが出されていますから わたしの応答となったのだと考えます。つまり ★★ (回答No.1) たとえば第3次世界大戦の勃発と言う幻想で人類が滅亡するはずだったのはもう過去の事、このような幻想を見せた人の心が変わる。 ☆ つまり あとにも出てくるところの――《幻想》として説明されていたから――《消える》の問題ですね。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~ > いま・ここのわたしが すでに後史ないし本史にいる この表現の延長ではすでに誰もが後史にいると言っていいでしょう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ここは 次に出てくる《前史》をどう扱うかで変わるかも知れません。 ★ しかし前史があったとの見解だけでも過ちです。 / 何故なら神の発見が人間を人間たらしめる知性の萌芽であり、それ以前は言葉で語られる事はありません。 ☆ これは どうでしょうか。つまり 《へびがわたしを噛むのか わたしが蛇を迎えにいくのか》というふうにデーモンの海に浮かぶ時代にも 《言葉で語る》ことじたいはあったのではないでしょうか? つまり それが《前史》だと考えているのですが? 細かく捉えるなら ヒトには知性は自然本性としてそなわっている。よって言葉を持ち言葉で語り合う。しかも その時代つまり前史にあっては デーモンの飛び交うお化け屋敷に住んでいる。 この前史が 後史へ転換するか? これを問う質問です。 ★ 悪魔的現象とは人間に神の愛を知らしめようとする神の愛情表現。 ☆ おそらく《後史》へと回転して入ったならひとは そのように認識するようになるのでしょう。《善人にも悪人にもひとしく雨を降らす》というたとえによる認識だと思います。 ただこれは どうなんでしょう そのまま ★ 自らも自然の一部であり神性と一体である事を身をもって肌で感じる事 ☆ としてあると言えるでしょうか? わたしにはまだ 薄い皮を一枚へだててこの認識を飲み込むことしか出来ていません。さらに説明をねがえればありがたいです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ おそらくは〔* デーモンの幻想は〕消えない。 悪の観念に確かな種子(記憶の根拠)があるのなら、悪は消えない。 ただ生命が悪を手放すのみであり、悪は神にゆだねられる。 それをもって悪神である。 今、曖昧なまま表現するなら、こちらの方が正しいのでしょう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ まづ《それをもって悪神である》は 上に触れた表現つまり《善人にも悪人にもひとしく雨を降らす》というふうに《悪人にも愛をそそぐ》そのひとつの側面を 《悪神》と呼んでいるのだと取ります。 さて このようでしたら 先に出ていた《消える》問題は それほどむつかしいとも思えません。 《神》から見て・もしくは世界の総体において 悪は《消えない》。個人にあっては 《前史から後史へ入った》なら その限りでデーモンは――《種子:記憶に蓄えられたもの》としては――《消える》。
こんばんは、プライムエイプです。 (α) このデーモンは 縁起共生の空観において消えるというのか? デーモンとしてふるまう役目を終える。 消えるのとは違い非思考への回帰。 (β) 人生においてそのへびに噛まれつづけている(もしくは みづからすすんで迎えている)頃を前史とすれば 果たして このへびなるデーモン作用が消えた後史に ひとは入ることができるか? 未来が死によって阻まれる幻想を与えるのはデーモンの役割の一つ。 実際は死の関門は無い。 (γ) 人間(現実)は変わるか? 現実は変化しない。 生命の心が変わる。 たとえば第3次世界大戦の勃発と言う幻想で人類が滅亡するはずだったのはもう過去の事、このような幻想を見せた人の心が変わる。 それが縁起共生でもある。 (δ) 将来への展望といったたぐいの主題は 哲学にならないか? 「ときわたり」の考え方のアウトラインは表明に成功してます。 哲学として成り立つとの評価は出来るかどうか判りませんが「考え方」として理解可能な表現はできています。 以上今回の議題に沿って私の考えをまとめてみました。
お礼
プライムエイプさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 お得意の分野でしょうか。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ (δ) 将来への展望といったたぐいの主題は 哲学にならないか? 「ときわたり」の考え方のアウトラインは表明に成功してます。 哲学として成り立つとの評価は出来るかどうか判りませんが「考え方」として理解可能な表現はできています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この問いについて 次のような見方捉え方を思いつきました。 まづ 文例を掲げます。 ◆ (ヘーゲル:法の哲学) ~~~~~~~~~~~ 無限なものと 有限なものとの一体性・・・この矛盾・・・は どんな自然的なものも自分のなかにこれを持ってはいない ないしはこれを 我慢できないであろうが この矛盾を持ちこたえることができるのが 人格(* ――もしくは《人間存在》――)の高さである。 (§35追加) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《自然的なもの》というのは 生まれたままの・他者ないし異者とのまじわりを経験しない人間存在のことです。コミュニケーションをしようとしないという意味で 《人間以前の状態にある人間》を言います。《有限なもの》は そのままこの《自然的な存在》を言いかえたものです。《無限》は 後史を成り立たせるなにものか・なぞのなにものかです。 つまりこのように時間過程として捉えることをしないで やはり《無限・絶対》という概念を用いて思惟の内容を表わすかたちによれば 将来展望のことについても 哲学として扱えるかも分かりません。 つまりは ★ ときわたり ☆ も――表現としては 時間の経過をも伴なうのかも知れませんが―― このような《デーモン作用とその関係を超えた場》の問題として捉え表わす方法があるかも知れません。 一考としてでした。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (γ): 現実は変化しない。 生命の心が変わる。 たとえば第3次世界大戦の勃発と言う幻想で人類が滅亡するはずだったのはもう過去の事、このような幻想を見せた人の心が変わる。 それが縁起共生でもある。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この場合 人類滅亡のおそれ〔としての思惟とそのこころ〕が変わり 消えるということは 縁起共生が デーモン作用の関係から自由になったと言えるか。 方向としてそのようだとわたしも思います。そういうヱ゛クトルを持ったと言えるでしょうか。たぶんですが。 ★ (β):未来が死によって阻まれる幻想を与えるのはデーモンの役割の一つ。 / 実際は死の関門は無い。 ☆ この《幻想》は 《妄想そして不安》でもあるでしょうか。 《死》を生の《限られ》とは見ないということでしょうか? 死は死でおのれの気づかいをするから 放っておけばよろしいと。 もしそうだとすれば いま・ここのわたしが すでに後史ないし本史にいるのであって ただ《デーモンの前史》がちょうどヱ゛-ルのようにわたしたちの貌にかかっているだけだ。こうでしょうか? そこから《空》観につうじているのでしょうか? ううーん。 ★ 実際は死の関門は無い。 ☆ ううーん。どうも ひとつに この《関門》がくせものでしょうか。はっきりとこの関門ゆえに 前史のへび(デーモン)にひとは未練があるのでしょうか? ★ (α):デーモンとしてふるまう役目を終える。 / 消えるのとは違い非思考への回帰。 ☆ ううーん。〔を連発していますが〕。 ★ デーモンとしてふるまう役目を終える。 ☆ だとすると デーモンないし蛇は 何かそれとして実在を持つ《はたらき(力)》であるようにも見えますが この点はどうでしょう? つまりあるいは 《幻想・妄想・不安》としての《はたらき(力)》なのでしょうか? そう捉えるなら ★ 消えるのとは違い非思考への回帰。 ☆ については 《消える》と言ってもよいように思えます。幻想が幻想であるとさとる。それゆえ 消える。――ただしそのときにも 《非思考への回帰》というのは デーモンが回帰するのではなく わたしがなのでしょうね。つまりわたしは 空観をよく身につけるようになる。後史に入る。ゆえに デーモンは《デーモンとしてふるまう役目を終える》。 こうなりましょうか?
お礼
地勢ペンさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 一人が、《回転》したなら、その人の社会は既に劇的に変容しています。本当に起こるかどうかはわかりませんが。 それを知った他人からみたら、社会がほんの少し変わったことになります。 何も知らない他人からみれば、社会はまったく変わっていないでしょうが、どんどん積み重ねられて、周りと話などをするにつけて、 《回転》の香りが漂うようになれば、彼にも《回転》が起こるのかも知れません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ わたしはこのまとめの文章で 満足です。文句ありません。 彼岸ではなかった。地続きであった。ここに里程標をつくって立てておいてよいはずです。 われらこの峰に到れり。 展望すこぶる好し。 人びとよ 来よ。 ☆ 地勢ペンさん いまちょうど直前のご投稿(No.21)に対してわたしは取り急ぎ応えたところですが あなたがそのププルルさんに 答えてあげてくださいませんか。きっとわたしのぶっきらぼうな返答より 分かりやすい説明をあたえることがお出来になると思います。そう感じさせますよね 今回のご回答は。 文句ありません。疑問を投げかける恰好になっていますが たぶん問題はないでしょう。 ★ ・・・誰からみた場合でしょう。 ☆ って言ったって 自分からでしょうし ほかの人たちと互いに考えをやり取りして話し合いもすることでしょう。 ★ 《わたし》の独自性 ☆ もしお気が向いたら ちらっと見てみてください。 →【Q:ひとの個性とは 何でしょう。】( noname#80116 は わたしです)。 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4120187.html ○ 個性は属性か飾り物か。結果として 飾り物説に傾いたのでした。 ★ 空観は、その独自性が全体の中に溶解消失するとみる《わたし》の生きる動態かと感じていました。 ☆ 空観は 見方であり 《わたしがわたしである》ときの――最終的には――判断のあり方だと思います。そしてそれは つまり自由ということではないかと。 意志の自由の 結果でもあり それを担保しうるものでもあるところの判断の自由なあり方。 或る種の仕方では 脳天気のようなものです。エポケーですとか。 ▼ (雅歌 4:1-16&5:1) ~~~~~~~~~ 恋人よ、あなたは美しい。 あなたは美しく、その目は鳩のよう ベールの奥にひそんでいる。 髪はギレアドの山を駆け下る山羊の群れ。 ・・・ 恋人よ、あなたはなにもかも美しく 傷はひとつもない。 ・・・ わたしの妹、花嫁よ、あなたの愛は美しく ぶどう酒よりもあなたの愛は快い。 あなたの香油は どんな香り草よりもかぐわしい。 ・・・ 北風よ、目覚めよ。 南風よ、吹け。 わたしの園を吹き抜けて 香りを振りまいておくれ。 恋しい人がこの園をわがものとして このみごとな実を食べてくださるように。 わたしの妹、花嫁よ、わたしの園にわたしは来た。 ・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
補足
おぎないます。 ○ 回答No.21は 《ププルルさん》ではなくて ヘイボーイさんでした。 ☆ 澄みません。おわびします。 ププルルさんというのは ほかの質疑応答でのご回答者でした。 ちょうどいま エンジェルの羽根だけでデーモンの海から飛び立とうというような思想を披露しておられますので その頭で 地勢ペンさんになら あっ これはよい 持って来いだと思ったところから勘違いして出てしまったもののようです。