ソクラテスは知識人たちに「わからないから教えてください」と質問したんです。
質問された側は「よーし 教えてやろう」と答えるわけです。
するとソクラテスは「例えばこの場合 どうですか?」と質問をすると「うむ これはこうじゃ」と相手は答え、「じゃ これはどうですか?」と聞くと「それはこうじゃ」と答える。
そうやっていくうち「あなたは最初にAと答えましたが、同じような内容なのに3つ目はBって答えましたよね。 ということは 最初の方も答えはBなんじゃないですか?」と言ったわけです。
ソクラテスは最初からBだと思っていたが、知らないふりをして質問した。
というより、自分はBだと思うが本当のBなのか、他人に質問して確かめたわけです。
最初はAだと言っていたものが、結局は誰もがBって最終的に答えたので、自分がBだと思っていたことは絶対真理だと言えはしないが、限りなく真理に近いものだ とソクラテスは確認できたわけです。
質問したことで、どの知識人の中にもBだという答えがあることがわかったし。
で、智と無知の差は、 <自分は知らないということを知っているかどうか> なんです。
世間で言われている常識とされるものを本当にそうなのか疑いもせず、真理だと思い込んで答えてしまうのは、自分は本当のことを知らないということ<さえ>知らない無知者だから。
ソクラテス自身も自分は本当のことを知らないと思っているが、他の人と同じかというと、<少なくとも>自分はちっとも知らないということがわかっている(知っている)分だけ他の人と差があり、そのわずかさ差の分だけ自分の方が智があるって思ったわけです。
このわずかな差(知らないということを知っている)が <無知の智> なんです。
例えば裁判で誰かを弁護するとします。
当然無罪だと主張する弁護をしたら、相手の弁護士から「それは確かに常識ではそうですが、本当に正しいことだと言えますか? 例えば」とつっこまれても、「そうです 常識は正しい その正しいことを被疑者はやったのだから、故意じゃありません」ということを、説明できなければならないわけです。
相手の弁護士は「じゃあ 例えば」と言って答えさせてきます。
「本件とは関係ない」と跳ね返そうとしても、裁判官が興味を示したら「却下 続けて」と弁論させます。
それに打ち勝つだけの智が無いと、無実であるという主張が通らない。
だから常識とされること、世間で正しいとされることは、どうして正しいとされているのか、本当のところ 自分は説明できるのか 自分が常識と考えることを疑うって智も、無知の智になる。
だから、ってここでなんでもかんでも 質問する人いますが、、、、、
答えると屁理屈が返って来て あまり美しい質問ではなかったとがっかりするので、あくまで相手に答えさせ、それを黙って審議するって戦術の方が美しいです。
お礼
回答ありがとうございます。 大変参考になりました。 一応、指定図書にもあった「ソクラテスの弁明」という本を読んだのですが、 そこに回答があったのですね。 非常にすっきりしました。