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「標準的な人間像というのは個性的な人間を排除するためのものではなく、そ
「標準的な人間像というのは個性的な人間を排除するためのものではなく、その個性を理解するために使う道具だ」 この言葉を皆様が関心をもつ突拍子もない立場(例. 料理、読書、化学)から見下ろしてください。
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「標準的な人間像というのは個性的な人間を排除するためのものではなく、その個性を理解するために使う道具だ」 ○ まあ、人間も松竹梅、それ以外で例えると、梅が9割ですから梅が松と竹、それ以外を見てどう思うかですね。松や竹は秀でてると見るのでしょうから目標や嫉妬の対象ですね。さてそれ以外については理解できますかね。 例えば、漫画の妖怪の世界の住人、宇宙人、幽霊、こんなの本当にいるのですね。これは漫画程度の知識なら笑い話で済むでしょうが、実は存在してますと現れたら梅人間は理解できますかね。こし抜かして逃げるだけでしょうね。 標準的な梅人間の人間像はそれほど軟弱で間違った知識に汚染されているという意味でしかないのですね。特級松人間がそれを教えても戯言にしかきこえないでしょう。そこでいろいろな個性的変わり者を少し標準的な人間のなかに投げ入れて混乱を起こすわけですね。羊の群れに狼を入れてみるわけです。羊も多いですから狼の一匹や二匹では群れはびくともしませんね。ほとんどの羊は無視しますね。一部の羊は興味をもって観察し、一部は持ちすぎて食べられてしまう。というのが大枠の動きですね。 さて本題の質問は、一部の羊は興味をもって観察する。にあたる部分でしょうか。 ということで羊が狼を観察しても理解までは無理ですね。つまり、梅が理解できるのは梅しかないのですね。また観察できるその他は、狼ぐらいしかいないといいたいのですよ。たけしとかお笑い芸人、詐欺師ぐらいかな。梅が松や竹になりたいのなら先ず何が自身を梅にしているかを知る努力が必要ですね。そういう意味では命題も意味があるのでしょうね。
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