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「自由」とは何か?
学校の授業(教養科目)の哲学の授業で、このような問いかけをされました。先生が言うには「自由な状態では個人の言動が個人を評価する」とおっしゃるのですが、他にも「自由」に関する切り口がないものかと考えました。皆さんの考えがお聞きしたいです。
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- eric_s
- ベストアンサー率0% (0/1)
私は、自由とは欲求がどれだけかなえられているかを示す尺度であると思います。 自由である→ 思い通りに事が進むさま 不自由である→ さまざまな障害があり欲求がかなえられていない よってあなたの先生の言葉を変換しますと、 「思い通りに事が進んでいる状態では個人の言動が個人を評価する」 なんか変ですね。言葉には色んな捕らえ方がありますので、以下の解釈でどうでしょうか。 自由 → 自己判断に基づき行動できる状態 束縛 → 主体的な行動が制約される状態 「自己判断に基づき行動できる状態では個人の言動が個人を評価する」 でしっくりきます。
- welovekobe
- ベストアンサー率42% (38/90)
自由と放埒との境目はどこかという問題を考えない時、 「自由」といっても、個人個人の言い放題で終わってし まいます。 自己中心的な自由も利他中心的な自由も すべて「自由」だと言って終わってしまいます。 動物のように、欲望を満たすためにただ徘徊することが 「自由」だ!と言えば事足りてしまいます。 しかし、自由とは、歴史上、人間が勝ち取る前に、 先に、神様が人間に賦与しようとした特権だということ を知らないとなりません。 では、動物に、自由があるかどうかという問題ですが、 答えは「ありません。」 なぜなら、「自由」とは、「自由意思」とそれに伴う 「自由行動」のことを指すからです。 自由意思を持たない動物は、自由というものを「享受」 することはしないし、享受出来ません。 ただ、本能の赴くままに行動しているだけです。 「自由意思」とは、目的を遂行しようとする意思ですが、 「目的」を指向する能力=思考力= 「目的観念」を持ち得ない動物には「自由」もないん ですね。 だとすると、人間だけが、「自由」を持っていると いえますが、ここで、「自由意思」が問題になります。 悪いことを行おうとする意思に基く自由行動も 「自由」なのか?という大問題です。 目的とは大きくは、神様の人間創造の目的になります。 人間は神様の願いによって創造されましたので、 神様の願いに生きることこそが「善」となります。 神様の願う世界は、真の愛を中心とした「為に生きる」 世界であり、人類一家族世界です。 ですから、神様を愛し、隣人を己を愛するように愛する ことで、人類が兄弟愛によって堅く結ばれて生きる 世界です。 そのような神様の創造目的に反する方向を指向する 欲望、そして、それに伴う行為を「悪」と言います。 ですから、そのような悪を行う自由は、創造原理に反する ので、違反行為なのであり、決して「自由」などとは 言えません。以上のことをまとめると、 1.責任のない「自由」はない。 2.原理を離れた「自由」はない。 ということになります。 もし、神様がいないなら、もともと、偶然に生まれた 人間なので、元来善も悪もありませんので、 自由と放縦・放埒も大して変わらないものになってしま い、ここで「自由」とは?と題して、議論する必要も なくなってしまうのです・・・。
お礼
皆様、御回答ありがとうございます。 私自身も「自由」について色々と考えてみたのですが、自由というものは反意語としての「不自由」があってこそ初めて意味を持つものだと思います。何故なら、人は束縛を感じる時に自由を求めるが、いざ自由を獲得した時、今度はその中で自己責任の下生きていかなければならないからです。そうなるとどうしても「自己規制」が必要になり、実は完全な自由(無秩序な奔放とも取れるが)は存在しなくなる・・・、という矛盾に陥る↓自由とは難しいものです。
- apple-man
- ベストアンサー率31% (923/2913)
「真の自由を手に入れたとき、 人間は何もできなくなる。つまり完全なる 自由は人間を究極の束縛に追い込むもの」 自由は常に、束縛に相対するもので、 時間について言えば、一生という限られた 時間に束縛されるので、その反動として 優先順位をつけて自由を得ようという行動 に出るのが人間の本能。 永遠の時間を得て、いつでもどこでも 好きなところに行ける、好きなことが出来る といった究極の自由を手に入れたら、 何から先にやっても、いつやっても同じ なので今優先的にやる必要のあるものが なくなり、結果的に人間は何もできなく なってしまう。 無限の時間は、人間を完全に閉じ込めて しまう、檻のない究極の監獄。 自由を束縛との対比で、その極限を捕らえて みましたが、如何でしょう?
お礼
皆様、御回答ありがとうございます。 私自身も「自由」について色々と考えてみたのですが、自由というものは反意語としての「不自由」があってこそ初めて意味を持つものだと思います。何故なら、人は束縛を感じる時に自由を求めるが、いざ自由を獲得した時、今度はその中で自己責任の下生きていかなければならないからです。そうなるとどうしても「自己規制」が必要になり、実は完全な自由(無秩序な奔放とも取れるが)は存在しなくなる・・・、という矛盾に陥る↓自由とは難しいものです。
こんばんわ。 参考URL、以前自由についての質問がありました。 こちらも目を通されると良いかもしれません。 さて。私が考える自由とは。 参考URLでも答えていますが、両手を広げて立った時、他人に手が触れない範囲がその人に与えられた自由。隣接する両手を広げた他人に手が触れた時、それは相手の自由を侵しているということになります。 やはり自由というのはある程度の制約がつきものだと思います。相手の自由を侵しているか否か、それを思いはかれる感受性と、自己責任で実行する決断力が必要なんですね。 自由を謳歌するって、実は並み大抵のことでは出来なかったりして。。。でも私は節度を保った自由という概念は好きです。
お礼
皆様、御回答ありがとうございます。 私自身も「自由」について色々と考えてみたのですが、自由というものは反意語としての「不自由」があってこそ初めて意味を持つものだと思います。何故なら、人は束縛を感じる時に自由を求めるが、いざ自由を獲得した時、今度はその中で自己責任の下生きていかなければならないからです。そうなるとどうしても「自己規制」が必要になり、実は完全な自由(無秩序な奔放とも取れるが)は存在しなくなる・・・、という矛盾に陥る↓自由とは難しいものです。
- t-d-s
- ベストアンサー率23% (49/213)
おもしろいですね。参加させてください(^ー^)ノ 自由・・・これといって概念がないのでこんな感じかなってのを やっぱ俺が思うには自由は、何も束縛するものがない。自分の思うがままに。が自由とも言えるけど、 本当の自由は、決まりごとの中にあるのかもしれませんね。とかおもう今日この頃
お礼
皆様、御回答ありがとうございます。 私自身も「自由」について色々と考えてみたのですが、自由というものは反意語としての「不自由」があってこそ初めて意味を持つものだと思います。何故なら、人は束縛を感じる時に自由を求めるが、いざ自由を獲得した時、今度はその中で自己責任の下生きていかなければならないからです。そうなるとどうしても「自己規制」が必要になり、実は完全な自由(無秩序な奔放とも取れるが)は存在しなくなる・・・、という矛盾に陥る↓自由とは難しいものです。
- mktoolll
- ベストアンサー率22% (20/88)
私の考える完全なる自由とは、「万物について何一つ定義されない状態」。 つまり、全てはそこにあるが同時に全ては無である状態。 日常語られる自由とは、反自由(思想を縛られる状態や行動を縛られる状態)という定義に対して語られるものであり、物事の本質を語られないように感じる。 反自由が人知の及ばない次元の事象を指すならば、自由という定義も人知の及ばないものとなる。 人類は「思考しなければならない(物事を定義付けていかねばならない)」という反自由からは永遠に解き放たれないだろう。つまり、本当の意味での自由な状態はありえないと私は考えるのです。 「真に自由な状態では、全てがそこに存在するが全ては全く関係をもっていない。」というのが私の自由論です。
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皆様、御回答ありがとうございます。 私自身も「自由」について色々と考えてみたのですが、自由というものは反意語としての「不自由」があってこそ初めて意味を持つものだと思います。何故なら、人は束縛を感じる時に自由を求めるが、いざ自由を獲得した時、今度はその中で自己責任の下生きていかなければならないからです。そうなるとどうしても「自己規制」が必要になり、実は完全な自由(無秩序な奔放とも取れるが)は存在しなくなる・・・、という矛盾に陥る↓自由とは難しいものです。
- 100Gold
- ベストアンサー率27% (284/1018)
「色即是空」とか「全てを持っている人は何も持っていないのと同じだ」とかいうように、自由な状態というのも、不自由な状態と等価です。 より自由な状態というのは、より制約が少ない状態を指します。つまり自由とは、光に対する影のようなものであるのであって、制約が無ければ成立しようがありません。 単に自由という状態を想定した場合、いかなる制約も無い場合を指すことになりますが、肉体、時間など逃れ得ない制約が存在する以上、このような状態はありえません。 我々の人生の中で、この意味での自由は、幼児期に味わう全能感です。何も出来ない時期にだけ、完全な自由を満喫することができるのです。
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皆様、御回答ありがとうございます。 私自身も「自由」について色々と考えてみたのですが、自由というものは反意語としての「不自由」があってこそ初めて意味を持つものだと思います。何故なら、人は束縛を感じる時に自由を求めるが、いざ自由を獲得した時、今度はその中で自己責任の下生きていかなければならないからです。そうなるとどうしても「自己規制」が必要になり、実は完全な自由(無秩序な奔放とも取れるが)は存在しなくなる・・・、という矛盾に陥る↓自由とは難しいものです。
「自由」ですか。 私は、「自由」は、その人の考え方一つだと思います。 例えば、全く同じことをしていても、 嫌々やっていれば、不自由極まりないですが、 ありがたい、とか、面白い、といった風にやっていれば、その人は、自由を謳歌していると思います。
お礼
皆様、御回答ありがとうございます。 私自身も「自由」について色々と考えてみたのですが、自由というものは反意語としての「不自由」があってこそ初めて意味を持つものだと思います。何故なら、人は束縛を感じる時に自由を求めるが、いざ自由を獲得した時、今度はその中で自己責任の下生きていかなければならないからです。そうなるとどうしても「自己規制」が必要になり、実は完全な自由(無秩序な奔放とも取れるが)は存在しなくなる・・・、という矛盾に陥る↓自由とは難しいものです。
- hajime40
- ベストアンサー率38% (192/498)
長渕剛の「ステイドリ-ム」という歌の歌詞の中に次のようなものがあります。(間違っているかもしれませんが・・・) 「尽きせぬ自由は、がんじがらめの不自由さの中にある。」 やはり自由とは、何らかの「縛り」の中から発生するものだと私は思いますよ。 (「縛り」が無い状態では、「自由」を「自由」だと気がつくこともないでしょうから・・・。) 参考にしてみてくださいね。
お礼
皆様、御回答ありがとうございます。 私自身も「自由」について色々と考えてみたのですが、自由というものは反意語としての「不自由」があってこそ初めて意味を持つものだと思います。何故なら、人は束縛を感じる時に自由を求めるが、いざ自由を獲得した時、今度はその中で自己責任の下生きていかなければならないからです。そうなるとどうしても「自己規制」が必要になり、実は完全な自由(無秩序な奔放とも取れるが)は存在しなくなる・・・、という矛盾に陥る↓自由とは難しいものです。
こんにちは。 自由とは、自らの選択により、自らの未来を 選び取ることができることだと思います。 たとえば自由な社会、と言ったときに、人は 八百屋さんにも、魚屋さんにも、商社マンにも、 教師にもなれる選択が可能です。 (なれるかなれないかは別として) 服装の自由とは、自らが自らの意志でその洋服を 選び取ることだと思います。 つまり反面、自由とは、自らの意志により、 すべてを選ばなくてはならない、自己責任の ともなうとても素晴らしくも厳しい概念であると いえましょう。 かなりサルトル的な発想ですが。
お礼
皆様、御回答ありがとうございます。 私自身も「自由」について色々と考えてみたのですが、自由というものは反意語としての「不自由」があってこそ初めて意味を持つものだと思います。何故なら、人は束縛を感じる時に自由を求めるが、いざ自由を獲得した時、今度はその中で自己責任の下生きていかなければならないからです。そうなるとどうしても「自己規制」が必要になり、実は完全な自由(無秩序な奔放とも取れるが)は存在しなくなる・・・、という矛盾に陥る↓自由とは難しいものです。
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お礼
ありがとうございます。 なるほど、そのような解釈でよろしいと思います。ただ、授業の中では個人の欲求(通俗的なものや低次元なもの)はどちらかというと否定されていますね。むしろ高次の欲求への言及が主でした。