自由と放埒との境目はどこかという問題を考えない時、
「自由」といっても、個人個人の言い放題で終わってし
まいます。
自己中心的な自由も利他中心的な自由も
すべて「自由」だと言って終わってしまいます。
動物のように、欲望を満たすためにただ徘徊することが
「自由」だ!と言えば事足りてしまいます。
しかし、自由とは、歴史上、人間が勝ち取る前に、
先に、神様が人間に賦与しようとした特権だということ
を知らないとなりません。
では、動物に、自由があるかどうかという問題ですが、
答えは「ありません。」
なぜなら、「自由」とは、「自由意思」とそれに伴う
「自由行動」のことを指すからです。
自由意思を持たない動物は、自由というものを「享受」
することはしないし、享受出来ません。
ただ、本能の赴くままに行動しているだけです。
「自由意思」とは、目的を遂行しようとする意思ですが、
「目的」を指向する能力=思考力=
「目的観念」を持ち得ない動物には「自由」もないん
ですね。
だとすると、人間だけが、「自由」を持っていると
いえますが、ここで、「自由意思」が問題になります。
悪いことを行おうとする意思に基く自由行動も
「自由」なのか?という大問題です。
目的とは大きくは、神様の人間創造の目的になります。
人間は神様の願いによって創造されましたので、
神様の願いに生きることこそが「善」となります。
神様の願う世界は、真の愛を中心とした「為に生きる」
世界であり、人類一家族世界です。
ですから、神様を愛し、隣人を己を愛するように愛する
ことで、人類が兄弟愛によって堅く結ばれて生きる
世界です。
そのような神様の創造目的に反する方向を指向する
欲望、そして、それに伴う行為を「悪」と言います。
ですから、そのような悪を行う自由は、創造原理に反する
ので、違反行為なのであり、決して「自由」などとは
言えません。以上のことをまとめると、
1.責任のない「自由」はない。
2.原理を離れた「自由」はない。
ということになります。
もし、神様がいないなら、もともと、偶然に生まれた
人間なので、元来善も悪もありませんので、
自由と放縦・放埒も大して変わらないものになってしま
い、ここで「自由」とは?と題して、議論する必要も
なくなってしまうのです・・・。
お礼
ありがとうございます。 なるほど、そのような解釈でよろしいと思います。ただ、授業の中では個人の欲求(通俗的なものや低次元なもの)はどちらかというと否定されていますね。むしろ高次の欲求への言及が主でした。