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仏教の「生きることは苦しみである」は真実か
仏教の「生きることは苦しみである」は真実か 仏教の教えでは、この世が苦である理由は下の4つだということです。 1 この世はすべてが衰えてゆく 2 この世は支配できない 3 この世では何ひとつ所有できない 4 この世では常に満たされない
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僕なりに書いてみますね^^ まず「生きている」とは何かを定義してみないことには話が進まないように感じますのでそちらから。 「生ている」とは遺体と生命の差。 動くこと 感覚があること があげられると思います。 「動き+感覚(知る機能)=生きている」と言う視点で話を続けてみますね。 では感覚とはどのようなものでしょう。 感覚は楽でしょうか? もし楽なら、呼吸も食事も伸び縮みも、何もする必要がなくなるように思います。 そのままで楽なのですから。 では苦でしょうか? 苦だからからこそ、呼吸も食事も伸び縮みもする必要が出てきて、動くのだと僕は思います。 そして、物質は常に変化消滅しているものだと思っています。 では、感覚はどうでしょう? 感覚・つまり「知ること」はどのようになされるのでしょう。 僕は変化消滅するからこそ知ることが出来るのだと思います。 感覚も物質も変化消滅する。 すべての起こる性質のもの(サンカーラ・行)は変化消滅する。 「諸行無常」ですね。 何かを欲した瞬間その欲した「固定したものと思い込んでいるもの」も、「固定した存在と思っている自分」も変化しいて、欲したものも欲した自分もそこにはいない。ゆえに欲したものが手に入ることはない。 そもそも「固定したもの」も「固定した自我」も存在しないのだから・・・ 「諸法無我」 このようにこの世の起こる性質のものは不完全で満たされることはない。 「一切皆苦」 この苦はパーリ語でドゥッカといい、不完全・価値がない・空っぽと言うような意味だと記憶しています。 たぶん僕の思い違い勘違いも多いと思いますが、今のところこのような理解をしています。 何か参考になれば幸いです。 ~生きとし生けるものが幸せでありますように~
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- Full_Energy
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しかし 人間はやはり 馬鹿で頑固で卑怯で傲慢だから苦しむ。証明しろと言われても無理です。なぜなら、単にそう想うからです。 馬鹿で頑固で卑怯で傲慢でないなら苦しまない。 人として生きている限り、完全であることはないので少なからず苦しむが、完全に近ければほとんど苦しまないと言える。
- ENERGAIA
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一時的に満足したり充実することがあっても結局は皆悲しみ、苦しみながら老いて死んでいくように見える。 真実であるように思われる。
- tak7171
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執着心があるかぎり、人間は失うことを恐れ悲しみます。 生も若さも力も富貴もあらゆる快楽も。 だから体が何をしても、恐れ悲しむ心に苦しめられるのです。 仏教はその苦しみの束縛から離れ、自由な境地に至る「解脱」を 究極の目標にしているのではないでしょうか。
- mmky
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「体は何をやっても苦しい」ということが事実だと教えています。 できればこれを証明してれませんか? ○ 舞台劇の見方としてすでに回答していますよ。 あなたが客席に座って、あなた自身の舞台における役者の様を見て御覧なさい。あなた自身で理解できなければ他人の舞台、ドラマでもいいんですよ。舞台やドラマの主人公は喜怒哀楽、いろんな状況で必死に役を演じていますね。それを観て楽しんでいるあなたがいるわけですね。舞台上やドラマの主人公は「生老病死」があるが見ているあなたにはない。どちらが苦しいかはわかるでしょう。 舞台やドラマの主人公がいかに楽しくやればいいんだと考えても所詮舞台劇やドラマの中の話でしかない。 釈尊は、人間はみな本来の世界があり、地上のわずかな人生は舞台劇やドラマの一員となっただけということを見抜いたということですね。だから「生老病死」があるということなんですね。 それを知ればこの世で自分を演じることは楽しくなるはずですね。だから、多くの立派な僧は「我に艱難辛苦」を与えたまえと願ったのですね。これは、言い換えれば「主役」を私にください。ということと同じですね。端役は楽でいいけど主役は大変ですからね。 ・・・という話が仏教の本道ですよ。 仏教はキリスト教やイスラム教のようなお助け宗教とはレベルにおいて、格において比較にならないほど高度なのですね。だから釈尊は「天上天下唯我独尊」とおっしゃられたわけです。 最近は巷の仏教のレベルはお助け宗教程度にまで落ちていますが、初期仏教は本来の仏教と同じですからね。
- Mokuzo100nenn
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#1さんに反論することになりますが、宗教は科学ではありません。 科学では、立証することが大切で、真実か真実でないかは重要な論点です。 宗教では、信じることが大切で、真実か真実でないかは重要ではありません。 キリスト教では「神が6日間で世界を作って、7日目は休日とした。」というような記述の聖書を真実として信じる人達の宗教ですが、真実である必要はないのですからこれを立証する必要もないのです。 仏教はキリスト教ほどの作り話は無い宗教ですが、それでも宗教であって科学ではありませんから、「生きる事は苦しみである」と言っている諸派があれば、それを信じる人達がその教えを信じて、その諸派に帰依することでしょう。 他の諸派の方々がその信者達に対して「お前たちは真実でない教えを信じているぞ!」などと失礼なことを言ってはいけません。 宗教を自分の人生に役立てようとうするならば、真実であるか否かに頭を悩ますより、信じましょう。 科学を自分の人生に役立てようとうするならば、信ずるよりも、真実であるか否かに頭を悩ましましょう。
苦しみだけである、という体験があってこそ 苦しみである、とも、苦しみだけでは無い、とも言えるように思います。 苦しみだけである、という体験が無ければ 苦しみである、というのは仮定にしかならないと思います。 苦しみだけである、という体験を通過できるか、できないかが、真実であるかどうかの認識の分かれ目かもしれません。 見方は様々でしょうが、真実だと思えない人の方が幸せかもしれません。 真実だと思う人は、人生に常にブレーキをかけながら生きてゆく事になります。 ブレーキを踏んで、止まって周りを見渡すのもいいんじゃないでしょうか。 走っている時には見えなかった物が、見えるような気がします。 この世って結構きれいなもんです。
- mmky
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「生老病死」は煩悩ではありませんよ。煩悩というのは生きているものは誰にでもあるものですね。煩悩は統御すればいいだけですね。 でも「生まれる苦しみ」、「老いる苦しみ」、「年取れば誰でも病になりますね」そして「死からは誰も逃れられない」こんなのは執着ではなく、誰しもそのような状態から逃げられないですね。 釈尊はその理由を求めたのですね。仏の教え、仏教は非常に高度な哲学なのですね。 だから、仏教の「生きることは苦しみである」は真実か? は真実なのですね。その答えが仏教にはあるのですね。執着するなは3つの旗印の一つ「諸法無我」に関係するものですね。 ついでに言えば、「涅槃寂静」という心境が全ての答えを知った心境ですね。 ということで追伸程度に
お礼
仏教にはいろいろな宗派があるそうですが、初期仏教では 「体は何をやっても苦しい」ということが事実だと教えています。 できればこれを証明してれませんか?
- 雪中庵(@psytex)
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そのように「苦」であるのは、煩悩があるからで、 執着を捨て去れば「苦」でなくなる、という後段 までは読みませんでしたか?
- mmky
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仏教の「生きることは苦しみである」は真実か ○ 真実ですね。釈迦族の王子は「生老病死」つまり「生きることは苦しみである」ことが何故なのかを求めて出家したのですね。大悟して釈迦仏陀となったわけですが、悟りの一つは「生きることは苦しみである」が真実であるという確認とその存在理由がわかったということですね。 仏教では、仏教であるという旗印があるのですね。それが、「諸行無常」「諸法無我」『涅槃寂静」の旗印ですね。この旗印の「諸行無常」が「生きることは苦しみである」という意味を含んでいますね。 仏教では「生きることは苦しみである」であることをありのままに受け入れそれが何故なのかを知ることが悟りですね。 まあ、役者が舞台に上げれば、幕が下りるまでは一生懸命役を演じないといけないということだけなんですね。舞台でいくら楽しくても舞台は必ず終りが来ますからね。でも舞台を降りた役者が死ぬわけでもないのですね。永遠の生命の人間が高々の間、いろいろ経験するだけのことということですね。 釈迦仏陀は、実は自らが構築した転生輪廻のシステムを思い出したということですね。
- 白石 勇夫(@sunbravery)
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どちらの仏教でしょうね。 1から4ですとこの世でないところへ行きなさいと言うことでしょうか。 そんな事は無いですよね。 仏教は最高の幸福境涯である仏界を悟るために修行するものと教えていますよ。 この世で幸せになれない教えがあの世で幸せになれる事自体が矛盾していませんか。 宗教とは科学的なものです。 この世で最高に自分らしさを発揮でき生きる喜びを開発できる仏教哲学を学びましょう。
お礼
それが証明ですか?? 自分の主観を語られただけだと思いますが・・・ おまけに意味がよくわかりません