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ヴィトゲンシュタインと無業禅師の関係と哲学的な問い
- ヴィトゲンシュタインと無業禅師(760~821)の関係について明確な情報はありませんが、両者の言葉には共通点が見られます。
- ヴィトゲンシュタインは「語り得ぬこと、それに関して人は沈黙しなければならない」という考えを持ち、無業禅師の「莫妄想」という言葉と関連付けられることもあります。
- 両者の共通点は、思考や沈黙を通じて真理や意味を追求しようとする姿勢にあると言えます。質問の裏定義として、両者の戒めを受け止めた上で、我々は何を考え、何を語るべきかを考える必要があります。
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==再びNo.3です== 沈黙しなければならない は自己に対する言論(発言)統制とおもうのです。でなければ ヴィトゲンシュタインの後半生においての多くの発言は理解できないように思います。一切の思考を停止しろ という理解をしたとしますと 途中で思考するという検証(思考停止の逆)の放棄をしており 哲学者としては問題と思います。この延長で言うのであれば 沈黙しろ は誤りであったと どこかで発言するべき ではないか とおもいます。 もちろん、一切の思考を停止しろ という原点から出発する哲学(禅と重なっている)もある と思います。産業革命前から圧倒的に多数者の支持を得たものであれば 人類を滅亡させるような原爆はなく 平和的なコミュニティが成立していたでしょう。アーミッシュのようなものです。ただし 自動車も、TVも、月に人が行くことも 無かったとおもいます。選択の問題でしょうが 禅的な主張は 人々に理解されてはいますがマジョリテイになったことはなかったと思います。 私は莫妄想は決断時に自己に言い聞かせる言葉 と思ったのです。そうではない 一切の思考停止であるという理解もあるとおもうのです。が、哲学的に思考するならこのような哲学中心に位置する言葉は定義が明確でないと 誤解されることになると思います。多義的言葉は さけるべきではないか とおもいます
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- sannbaka2
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仏教の無記や大乗起信論の「言に因って言を遣る」の論法に似ているという説がありますけど、>無業禅師の仰る妄想という概念は非常に広くて、我々が思考と言うか、人生に思いを巡らすときの思考とほとんど一致するぐらい広大な意味空間を持っています。 ということであれば似てないと思いますよ。 頭のいい大工さんのことだから6・5と6・521を比較してお読みになればわかると思います。
お礼
ありがとうございます。 妄想とは過去の事すべてと、未来の事すべて、だそうです。 禅は考えをめぐらすことをたしなめているのでしょうね。 もう少し勉強してみます。
補足
とかく荒れがちの哲学のカテゴリーで、拙者の質問には常に真摯な考察が、時として諧謔が与えられるので幸せです。 質問に対する直接の回答は得られませんでしたが、すべて施策の糧食(Food of thought) になりました。 ここで今一度御礼申し上げます。
- cyototu
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ご質問とは関係ないのですが、カタカナ氾濫に関して常々憂いていらっしゃった大工さんに朗報があります。今日、数日遅れの毎日新聞の川柳を読んでいて、カタカナにも意外な効用がある例を発見致しました。 マニフェスト 大風呂敷と訳されて なるほど、カタカナには自由な漢字が当てられるのですね。カタカナ言葉は禅問答をする時にぴったりな言語だと思いました。 あっちとはこっちのことだとそれが言い
お礼
ありがとうございます。 語りえぬもの、それに関しては沈黙しなければならない。---ヴィトゲンシュタイン 片仮名しか浮かばぬもの、それに関しては沈黙しなければならない。---大工
- cyototu
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#7の最後の段落に誤植がありました。 はじめに整合した世界の記述ありきとして、 と読んで下さい。
お礼
ご丁寧にありがとうございます。
- cyototu
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>物理学者は妄想した。妄想の内容は非現実的であり、妄想を記述する数学も無かった。でも、それを語った、語りえぬのに語り続けた、そして、ついに言葉(物理の言葉は数学)を作ってしまった。 そうですね。言葉と数学を駆使して仕切り直しを何度も繰り返し、自分を混乱のるつぼである分岐点にじりじりと押し込んで行く。そして、いよいよ後が無くなったときに、その混乱の重圧に耐えかねて、ままよっと、右か左に目をつむって飛び込んでしまう。その時は目をつむっていますから、言語も数学もへったくれもない。だから女神様の出番なのですね。 #6さんの >もちろん、哲学の原理を確立するための 混沌とした素材から 対話を通して始める という手法は 許されている に関して。 分岐の理論の成果によると、哲学を語る場合、混沌は「始める」という出発点ではなくて、その反対に先ず秩序から始まるようです。はじめに整合した世界的な記述ありきとして、自然言語を駆使しながらその整合した世界を記述し始める。そしてその発展が、自己の内部で世界観を特徴づけている様々なパラメーターの値を僅かに変化させてしまう。そして、その僅かな変化が世界観に影響を与え、さらにその世界観の変化がまたパラメーターを僅かに変化させる、すなわち自分の変化が自分の変化の契機となる「自己触媒化」と言う典型的な非線形現象をもたらし、その非線形効果が混沌と言う分岐点の崖っぷちにその哲学者を押し込んで行くのだと思います。
お礼
ありがとうございます。 後半の部分に関してですが、哲学学者でなくて、本物の上等な哲学者はモーツアルトやベートーベンの様に楽想が浮かんだら一気呵成に“作曲”してしまうのではないでしょうか。 哲学は、作曲や建築物を作るときに似ているようなトップダウンの要素があると思いますがねえ。 自然言語でなく、不自然言語(=数学)を使う物理学の場合は、詰将棋みたいな思考過程が必要なのでしょうけれど。
- ok9608
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==No.3です。蛇足です== 沈黙しろ は 一人での思考を停止しろ とは言ってなく むしろ 自己内部で熟成しろ と言っているとおもうのです。中心部分が固まれば当然外部への発言が始まると思います というか 外部発言を期待しているとおもいます。弁証法は新規な哲学原理を創るための有力な手段と思いますが 一人でも使用できる手段と思います。沈黙しろ は他者に対する自分の発現に対して言っているわけで その意味では 弁証法を用いた哲学だけでなく 他の手法を用いた哲学議論については発言するな ということだ と思います。 他者に対して説得を試みる場合 論理は最有力な手段とおもいます。その原理(述語論理の公理)が 理解されるかどうか が最初の関門となります。ここがクリアーされれば あとの論理展開の中に多少検証されていない命題があったとしても許容されるとおもいます。数学のなかに証明できていない命題があっても その数学が否定されてない のと同じと思います。つまり 沈黙しろは しっかり哲学の原理を熟慮しろ と言っているようにおもうのです。 ポストモダンは10人10色の哲学を認めているわけで 沈黙しろ はその極一部の命題とおもいます。だから 私は それなりに 受け止めている ということです。もちろん、哲学の原理を確立するための 混沌とした素材から 対話を通して始める という手法は 許されている と思います。
お礼
三度(みたび)ありがとうございます。 哲学する姿としては、饒舌多弁よりも沈思黙考が似合うとは言えますね。
- cyototu
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#3さんの興味ある説明は参考になりました。 その説明を読んでいて、ヴィトゲンシュタインと無業禅師の比較は、勝海舟が大久保利通と西郷隆盛を比較していことを彷彿とさせました。勝は自分が今までに接した人間で、最も尊敬するのは西郷であると言っておりました。それに対して、大久保利通は同じ薩摩の出身でも、その大きさでは比べ物にならないと評しておりました。例えば具体的にロシアとの外交交渉のときの例を挙げて、「大久保は交渉の直前まで、何から何まで克明に準備をして交渉に臨もうとしておる。ところが、交渉なんて物は、どんなにこちらで準備した所で、人事に尽くし切れない予測外の展開をするのが常態なんじゃ。だから、一先ず準備をして、交渉が近づいて来たら、一旦その準備を忘れる。そして、心を空っぽにし明鏡止水の如く保って、水が回りの気配に共鳴して波立つように相手に反応して行けば良い。さもないと、相手に思うように付け入れられてしまうのじゃ」てな感じのことを言っておりました。勝はこの明鏡止水を座右の銘としているとも言っておりました。ま、ヴィトゲンシュタインは大久保利通みたいなもんだと言うことですね。 実は、現代物理学の大成果として、分岐の理論と言うのがあります。これは、自然界で自発的に構造が生まれて来る機構を明らかにした理論です。複雑な物や構造が出来上がって行く時には、回りの環境や内部の動的な相互作用によって少しずつその系を安定にしていたパラメーターの値を変化させ行き、今までの状況では安定で確固として存在し得るとされていたものが、あるパラメーターの値の所で、突然不安定に変化する。その時、その元の安定点のすぐ隣に全く新しい二つの安定点が現れて来る。そこで、その系は今までの構造を保てなくなり、そのどちらかの安定点に分岐する。系がそのように分岐する理由は、複雑な系では必ず数学で言う非線形効果が存在するからです。ところが、その分岐のどちらを選ぶかは、その非線形性の故に、全くカオス的あるいは確率的であり、前もって予測することは原理的に不可能である。そして、系がたまたま右の分岐を選んだとすると、それに整合した新たな構造が現れ、また、たまたま左の分岐を選んだならば、やはりそれと整合する構造を持つようになる。この場合、右と左でどちらが優れた構造かを論じることは意味がなく、それぞれ成り行きで、自分自身に整合した安定構造を持つようになる。そして、再びその新たな安定構造の中での内部の相互作用や回りの環境との相互作用でパラメーターが再びゆっくりと変化して行き、再び新たな不安点に到達して、また新たな分岐をする。このことを繰り返して、構造は自発的に進化して、多様で複雑な構造がこの世に出現して来たのです。 この現代科学の成果が意味することは、以下の通りにまとめられます。すなわち、物事が生産的に出来上がって来るためには、必ず不安定点を通過しなくてはならない。そして、その不安定点の近傍では、どんなに小さな揺動でもそれがゼロでない限り(専門語ではそのゼロでない量を無限小と言う)その後の系の振る舞いを決定的に変えてしまい、系の振る舞いは完全にカオス的、確率的になる。したがって、その不安定点の近傍では、その変化の過程を筋の通った論理の連続の流れとして表現することは原理的に不可能である。それ故、そんな状況をとことん言葉の論理の枠組みに乗せて見ようと言う試みは、全くの無意味な試みである。その状況では、そんな無意味な試みに拘煩っていても無駄であり、明鏡止水の如く成り行きにまかせながら、次の新たなる構造の自発的な構築に当事者達は生産的に参加すべきである。 どうやら、現代科学の成果は、無業禅師や西郷隆盛や勝海舟の世界認識に軍配を上げており、それに対して、ヴィトゲンシュタインや大久保利通は世界を単純に見すぎており、この世界が本質的に非線形であり、したがって複雑系であるという事実を全く理解していない世界認識であると判決を下しているようですね。
お礼
ありがとうございます。 西郷どんが肝の据わった人物であったことは同慶の至り。 日ロ通商交渉でも日本に有利な条件で妥結したことでしょう。 それに比べて、現代日本の政治家は、、、。止めときましょう。これこそ妄想になってしまいますからね。 先生に反論するのが目的ではございませんがね、現代物理学の大成果ってやつは、どのような営みから達成できたんでしょう? 妄想すること莫れ? 語りえぬことは沈黙せねばならない? 数学で記述できない事は、諦めなければならない? むしろ、逆だったんでしょう? 物理学者は妄想した。 妄想の内容は非現実的であり、妄想を記述する数学も無かった。 でも、それを語った、語りえぬのに語り続けた、そして、ついに言葉(物理の言葉は数学)を作ってしまった。 Cyototu先生の数学と物理学の相克物語ではそのようなお話であったかと記憶しております。 で、数学を言葉とする物理学(=現代科学)がこの様な掟破りの挑戦をして、その結果現代物理学の大成果ってのを人類にもたらしてくれた。 一方の哲学が、自然言語を言葉として世界を記述しようとする哲学が妙にお行儀よく自己規制していてどうするのでしょうか。 哲学する者は所詮ディレッタントですよ。 哲学する者は、その思考において自己中心的ですから、日本の国益を代表して交渉に臨む人物の様な責任感を備えて居ようが居まいが関係ない。 だったら、妄想をしても良いじゃないでしょうか? 妄想を口に出して語っても構わないでしょう? あまりに喧しい場合は、周囲の人が「お黙り!」と愛情を持って一喝してあげればよいだけ。 子曰く、 学而不思則罔、思而不学則殆 ここに「思」とあるのが妄想であり、また弁証法的なアプローチではではないのでしょうか。
- ok9608
- ベストアンサー率38% (50/129)
==参考までに、私の意見です=== ヴィトゲンシュタインはポストモダンを切り開いた人と理解しています。ポストモダンにおいて重要なことは哲学は論理構成であって、その中心は仮説であり仮説の周辺は論理で構成されており、その仮説は各自自由に立てられる としたことと思います。各自が自由に仮説をたてその周辺を論理で検証せよ ということだと思います。勿論、このような論理は あと付けの部分もありますが ゲーデルの不完全性定理であるとか そのゲーデル数学対象外の拡張不完全性定理とかの定理とは 整合はとれたものとおもいます。これにより 各自の哲学がいかなるものか意味付けられとおもうのです。 そのヴィトゲンシュタインの『語るべきものがないなら沈黙せよ』は まず 仮説が立てられないなら 立てられるまでは生半可な結論はだすな、まして公的な発言は 人心を惑わすことになり十分な注意が必要です と言っているように思います。人は仮説(その人の哲学中心)もないまま発言するな と言っているようにおもうのです。思考の停止ではなく 各自の哲学(検証途上であっても是、中心が重要)は十分な検討の上に確立されるべきだ 言っているように思います。 莫妄想は 捉えかたが 今現在の決断をみているように思います。つまり 思考停止をして 決断しろ と言っているように思います。特に未来について岐路に立ち どちらにしても納得がいかないが 決めないといけない場合があります。その場合に思考は無駄 停止しろ と言っているように思います。 ヴィトゲンシュタインは思考停止を言っているのではなく 思考は十分にしろ 十分ではない思考中の生半可なものは 語るな と言っているようにおもうのです。いつまでも 思考する ヴィトゲンシュタインは即断即決的決断はできなかった と思います。
お礼
ありがとうございます。 哲学も物理学も自然界(自分を含む)を理解し、記述しようという欲求から探求されてきたと思います。 ヴィトゲンシュタインは西洋の哲学者です。 ソクラテツの対話編から始まり、ヘーゲルの弁証法で世界を記述しようとしてきた文化的伝統があります。 物理学が数学で記述しようとしたのに対し、哲学は数学で記述できない部分に特化し言葉で記述しようとしてきたのではないでしょうか。 その哲学が、(言葉で)語ることのできない事に関して、沈黙しなければならない、と言ってしまっては、もはや弁証法で真理を追究することができなくなってしまう。 沈黙しなければならないというのは、言論統制の事を言っているのではなく、心の中でも沈黙することを求めていると思われませんか? 哲学するものは、一人でも対話しています。 一人で命題と反命題を戦わせ、一つ上の命題にAufhebenしようと、作業をくりかえしているのではありませんか。 このような西洋のアプローチ、科学的・分析的なアプローチを良しとしたヴィトゲンシュタインが、まるで禅僧のように、語りえぬこと、それに関しては沈黙しなければならないと言った。 哲学者が哲学の存在理由を否定してしまったように感じるのです。 これからは、やはり禅ですかね。
- tumaritou1
- ベストアンサー率28% (260/913)
人間の見ているものは、人によってはかなり違って見える場合があります。その両極端を書いてみます。一つは事実を事実として見ている場合です。この場合には、自我意識の計らいが働いていない場合です。 もう一つは自我意識の計らいが強く働いている場合です。物を見たり考えた時に強い不安や恐怖感が湧き上がる場合です。目の前の事実には不安な要素など何も無い場合の事です。他に人にはわかりにくくて、説明されても尚さらわからない場合もあります。この場合を『妄想』と言います。 死ぬ事が怖いと思う事も妄想です。自分は何者か?と言う事も妄想です。我々は何処から来て何処へ行くのか?と言う事も妄想です。 この解決が『禅問答や禅の世界にはあります』他にもあります『神と和解せよ』という中にもあります。この世界は『言葉に出来ない世界から入ることになります。』言葉では語る事が出来ない世界です。 そのために『言葉の無い世界で遊びなさい』と言う意味が、妄想するな=考えるな 沈黙せよ=考えるな のように迫ってくるのです。 生きていて言葉の世界で考えた場合には禅問答は解けません。何回生まれ変わっても解けません。禅問答が解けると言う事は、『自分自身が何者かが分かる時です』 どういう事かと言いますと、自分自身を働かせている『働き』が判ると言う意味になるからです。心を騒がしくしていたものが何者かが判るという意味になります。それ以後、心は騒がなくなるという意味があります。 まさしく、神に会って、和解が成立するからです。自分自身を悩ませて者の正体が分かるからです。そのための方法は洋の東西を問わないからです。 自我意識と自分の命の働き(無意識の意識)との出会いが心の分裂の解消方法という事になります。もう一つの意識は言葉では無いもので、自意識と交流しています。言葉は返って邪魔となっているからです。 言葉を使わない思考方法を学ぶという事になります。言葉では書けないものは、やっぱり書けません。言葉の無い世界で遊ぶと言う事は『没我』の世界で遊ぶと言う事になります。 自我意識が出ないで自分が働いている世界です。 鈴木大拙博士の本の中に出ています。
お礼
ありがとうございます。 禅僧が莫妄想を説くのは理解できます。 自分が仮に宮崎県の酪農家であり、まだ感染していない牛や豚を殺処分しなければならないとき、どう感じるだろうか、どう対処するだろうかを考えるのは無意味だといっているのですよね。 禅はよしとしましょう。 自分が酪農家であったらなら、という仮説は実体験でないから「語りえない事」であり、哲学する者も沈黙しなければならないと言っているのでしょうか。 哲学は、未だ実体験していないこと、あるいは理論的に実体験できないことを考えるのではないですか? 哲学的思考が実体験したことだけ、直面していることだけに限定するとしたら、哲学することと哲学しないことの差はなんでしょうか?
- corpus
- ベストアンサー率12% (25/200)
考えられることを考えればいいと思います。 とはいっても、考えられないことは考えられないのですから、 特に、心を改めることもないでしょう。
お礼
ありがとうございます。
お礼
ありがとうございます。 自己に対する言論(発言)統制だとすると、西洋文化の伝統であった弁証法はどうなるのでしょうか? 弁証法では、確信の無いことも発言し、対話者からのフィードバックを得ながら自らの考え(妄想?)を深化発展させてゆく、また意味空間に空白が見つかればそれを埋めてゆく、という作業を通じて意味のある構造を構築したのではないでしょうか。つまり、哲学の共同作業ですよね。 また、哲学の作業は明確な言語を部品として組み上げてゆく作業(Bottom Up)だけでなく、直観、啓示などから下に向けて構造を作る所謂Top Downのアプローチもあるはずです。このTop Downのアプローチでは、必ず埋まっていない部分が発見され、その部分を後付けで埋める、場合によっては埋めるために語彙を創出してしまうことだって必要です。ですから、語りえない事も、沈黙しちゃいけないんではないかと思う次第です。 禅問答は悟りを目指すものであるから共同作業を否定しても、否、敢えて共同作業を否定することで悟りに近づけるのかもしれませんが、哲学、西洋哲学が沈黙を求めているところがなんとも理解できません。 私自身が、わいわいがやがやと哲学したいだけなのかもしれまんけど。
補足
とかく荒れがちの哲学のカテゴリーで、拙者の質問には常に真摯な考察が、時として諧謔が与えられるので幸せです。 質問に対する直接の回答は得られませんでしたが、すべて施策の糧食(Food of thought)になりました。 ここで今一度御礼申し上げます。