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いつ死ねば人は満足か?
- いつ死ねば人は満足か?
- 「今すぐ死ぬ」のと「未来永劫生きる」のと、どちらを選ぶか?という質問がありました。この世が楽園でないため、「今すぐ死ぬ」という回答が多かったと思われます。しかし、究極の選択であるため、どちらも嫌という矛盾が生じることもあります。いつ死ねばいいのか、人それぞれの考えがあるでしょう。
- 質問者はいつでも死ぬことを受け入れていますが、それでも「今すぐ死ぬ」という選択は嫌です。人には生きるも死ぬも嫌という矛盾があるかもしれません。
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質問者が選んだベストアンサー
ANo.4において私が偉そうに、【人間の決意したり、決定したり、希望したりする問題の外に出てしまった人】といいましたが、このことでご誤解されると困りますので、一応補足させていただきます。 このような人が何か現実にいるようにいっていますが、そう簡単な事ではありません。 イエス・キリストさまも、十字架で【主よ、あなたは私を見捨てられたか】と肉体を出るときに仰せられたと伝えられております。 同じような事を、孔子も晩年に発したとされています。『子曰。鳳鳥不至。河不出圖。吾已矣夫』(拙訳:鳳鳥は至らず(こない)。河は圖をださない。あぁ、やんぬるかな。天我を滅ぼせり) (投稿しているこの私としては、孔子の場合、天に後の事を託している感懐を含んだことばだと存じますが。) そして私の40年以上精進しているインド哲学でも、もう神域になっている大先生がまは・サマディ(直感的にお呼びが分ると、座禅の姿勢で三回周り、一定の呼吸と技法を行って、最後に呼気を吐いて、肉体を去る)に入る前に、肉体を出る、マハ・サマディを嫌悪するような素振りをされたとの事です。 釈迦は涅槃入滅のときにどうだったかの事情はあまり存じません。 釈迦もイエス様も、そういう方々が突然、育ってくるはずはありません。ですから、そういう方が私たちの眼前にお出でになられたということは、人の前にでることのない、こういう方々と同じかそれ以上の方々が現存しておられたことを示します。 ですからそういう、姿を見せなかったそういう方の中には、【人間の決意したり、決定したり、希望したりする問題の外に出てしまった人】もおられたと存じます。 インドの哲学でも、そういう人が一人出る為にはそれ以上の人が二百数十人現存してきたのである。 釈迦の前には釈迦となる人が二百数十人おられるのである。といわれています。そういう人は【人間の決意したり、決定したり、希望したりする問題の外に出てしまった人】だと存じます。 普通の人は無理です。rin00077 さんと同じです。 付言(関連):rin00077 さんの質問に関心を持ったのは、執着と嫌悪をことばにされているからで。 執着=ふっきれないこと、はなれられないこと。 嫌悪=きり離れたい事。 これは物事の表裏となっており、普通の人間の意識原則の形成の重大なファクターです。 そういうことから、ひと事、拙い投稿をさせていただきました。
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- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんにちは。 この朽ちるべきからだとしてやるべきこと・やりたいことは やったようだ これがわたしの人生だと言えるころに死ねば満足です。 ただ 勝手な見通しとしては 二百歳がだいたい人間の寿命であるという時代がくると思います。
- Mokuzo100nenn
- ベストアンサー率18% (2123/11344)
質問が間違っていますよ。 人間はどう生きれば満足か? あなたはどう生きれば満足か? であれば、問うに足りる質問と思います。 いつ死ねば人は満足か? この問いは間違っています。 「いつ」が付く前の文、すなはち「死ねば満足」と言っているからです。 死ねば不満足です。 ですから、死ぬまでに、どう生きたいのか?が問うべき質問なんです。 答えは難しいけれどね、、、。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
【人には生きるも死ぬも嫌というような矛盾があるのでしょうか?】 とおおせられている通り、人間の決意したり、決定したり、希望したりする問題の外のことであるのだと存じます。 だから人間はどちらも嫌なんですね。 そして人間の決意したり、決定したり、希望したりする問題の外に出てしまった人は、【生きるも死ぬもどうってことがない。どちらも結構】ということになっていると、存じます。
- Y Y(@yy8yy8az)
- ベストアンサー率17% (89/501)
人間以外の動物は本能が生きようとし続けます。だから命の終わるときが、寿命といえるのでは。 それが人間になると、自ら“寿命”を縮め命を絶つ人がいたり。 そう思うと、人間は本能のみで生きているのではないような。 ということは、本能以外の“何か”があるようで。 その“何か”は、欲、欲望。なのでは? そしてその欲、欲望、の発生源は“精神”“心”。 動物は本能の枠の中で、肉体を生かします。 人間は、本能+精神によって“生きている”あるいは“生きようと”しているようです。 その“精神”に宿る欲望、また願望を満たそうとするエネルギーが生きる力(ちから)となるのでは。 そう思うと、願望が満たされれば、いつ死んでもいい、と思えそうで。 だから願望がなくなったときは、人は死を選ぶようにも思えてきて。 でも願望が満たされているときは、心持がいいはずなので、そんなときに死にたいとは思わないだろうし。 嗚呼、答えが見つからない。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
最新の量子論的世界像によれば、有限的存在性(宇宙)は認識される事で生じています(無=不確定性無限の潜在としての自我仮説と時空仮説の相補分化)。 であれば、世界は自己存在を可能にするための必要であり、“自分が生まれた”という条件を最大限に生かす事(~精神的充足量の最大化)が、唯一の目標であり、そこに於て時間的流さは、意思の強さやその達成度、結果の感受性、それらの基底としての認識の深まり、といった幾つもの関数の1つに過ぎません。 社会的生命として、あるいは存在性の起源としての世界の他我化(=愛)に於て、“自分を最大限に活用する事”以上に、他人(自分の影)と長さを比較する意味はありません。
つまり、未来永劫に生きることもせず、いま直ぐ死ぬこともせず、『自分の「寿命」を全うする』ということになりますね。 私も質問者様と同じです。人間、いつかは終わり(死)が来るなら、それまで精一杯生きていたいと思ってますよ。 つまり、その「終わり」が明日であったなら、今日1日。いつ終わりが来ても良いように(悔いが残らぬよう)、『今』という時間を精一杯生きるってことです。