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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:大正時代の花街遊郭街で働いていた娼妓芸妓から生まれた子供の人権について)
大正時代の花街遊郭街で働いた娼妓芸妓から生まれた子供の人権
このQ&Aのポイント
- 大正時代の花街遊郭街で働いた娼妓芸妓から生まれた子供の人権について、その扱いや生活状況について考えます。
- 娼妓・芸妓から生まれた子供は、孤児として生活し、飢餓や貧困に苦しむ実態がありました。
- この時代の社会制度や偏見により、彼らの生活は困難であり、人権が保障されていなかったと言えます。
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>児童はその後どのような扱いを受けていったのでしょうか。 基本的に(建前上)は、娼妓や芸妓のいた「置屋」で育てられました。 しかし、食事などはロクに与えられず、常に腹をすかした状態でした。 娼妓や芸妓にしても、置屋の食事は粗末で、常に腹をすかせた状態で、付いたお客にねだって酒食をおごらせるかを競わせ、揚げ代の他に、酒食のバックマージンがもらえるかを競わせていました。 従って、私生児などは、置屋でも「余分な者」「厄介者」以外の何者でもなく、姉女郎(母親の元同僚)などからの「おすそ分け」をもらったりして、かろうじて生きていくことができました。 >>(私の祖母が実際見てきた近所にあった遊郭で生まれた子供の場合は、乞食となって、ドブに落ちたものを食べ、赤痢等になり、ばたばた死んでそこらへんに沢山倒れていたとのことです。) その通りです。昨今の「ホームレス」と同じ状況です。 ただ、第二次世界大戦以後は、衛生状態も管理されるようになりましたので、疫病の爆発的な流行はありませんが、昔は、コレラ、赤痢などは、日常茶飯事でした。こうした病を「流行病」(はやりやまい)と呼んでいました。 それでも、子どもが7~8歳位になると、 男子は、置屋の「若衆」の見習いとしてコキ使われました。 女子は、禿(かむろ)となり、姉女郎(姉娼妓や姉芸妓)に仕え、娼妓や芸妓の見習いとなり、ゆくゆくは娼妓、芸妓にさせられました。 そして、ロクに育てられてもいないのに、「お前を育ててやったのだ」と、置屋からは言われ、多額の借金を背負わされました。
お礼
ありがとうございます。 劣悪な貧しい環境だったんですね。 参考になりました。