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諸葛孔明はなにをした人ですか?
諸葛孔明はなにをした人ですか? 三国志の中でなにをした偉大な人か教えてください。
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三国時代に活躍した、蜀の政治家です。 蜀という国に命の限り尽くしたことで、神格化されており、 様々なエピソードが残っています。 一番有名なのが、「三顧の礼」ですね。 戦はからっきり弱いが、人望だけは無尽蔵にあった劉備。 なぜ、戦に勝てないんだろう。そうか、優秀な軍師がいない からだ!優秀な軍師を雇おう!と劉備は考えるわけです。 この時代の常識なら、劉備の部下が、「おい、劉将軍が お呼びだ、劉将軍に仕えよ」と、部下が呼びに行くのですが、 なんと、劉備自ら迎えにいきました。しかも、三回も足しげく 通ったわけです。それほど私を必要としてくれるなら、と孔明は 劉備に仕えます。 さて、孔明さんよ。劉備が天下を治めるにはどうしたらよい? という問いかけに、孔明は「天下を治めるのはもうムリです。 それだけ魏(曹操)の力が広がってます。なので、天下の半分は 曹操にあげなさい。江南の土地は、孫固の孫にあげなさい。 残った土地を、あなたの天下にしなさい。」と、天下三文の計を 劉備に継げ、孫権と結び、曹操に対抗すれば、それなりの 天下は治められることを告げます。 そのために、赤壁の戦いを仕掛けます。。。 これは演義での作り話でして、孔明は風を吹かせたわけでも なく、大した活躍はしません。ただ、劉備が孫権と結び、曹操と 争ったことで、ここから本当の意味での「三国志」が幕開けに なります。 赤壁のどさくさに紛れ、荊州南部の四郡を呉からかっぱらいます。 そして、益州を攻め立て、蜀を建国します。 この辺は、孔明の入れ知恵です。目的のためには手段を選ばない タイプのようです。 そこから色々あって、劉備が死にます。 そして、劉備が死ぬ前に「孔明よ、後のことは任せたぞ。魏の皇帝 よりお前の方が10倍すぐれてる。仮に、自分の子供の能力が足り なかった場合は、お前が皇帝になってくれ」と託します。 劉備の跡継ぎが、出来損ないなら、お前が国を治めてもいい、との 発言に、孔明は感激し、命を尽くして蜀のために生きました。 蜀という国作りのため、政治家として素晴しい手腕を発揮します。 そして、亡き劉備の想いを継ぐために、魏を討ちに北に攻めます。 軍師として活躍します。魏の智将、司馬懿と一進一退を繰り返します。 結局、戦いの最中、病死してしまいます。 演義の中では、様々な奇策を用いていますが、これは脚色で、結構 ガチンコの戦しかできなかった模様。数の差で負けることが多いよう でした。 ざっくりですが、超簡潔な孔明紹介でした。
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- Pinhole-09
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守りに徹し蜀を守り抜いた、名政治家であり名将ですね。 魏、呉、蜀の三国の中で蜀は最も弱小国で、天嶮に守られているといっても、つぶすつもりで総力をあげて掛られたら守りきれません。 しかし蜀の人民が一致団結して迎え撃てば、甚大な損害を払わねばなりません。 容易には踏み切れません。 孔明はそれを知り蜀の団結を計り、国力を少しでも向上させるため、法を整備し内政に注力しました。 この団結を強めるためと、魏、呉の侮りを受けないよう、寡兵ではあるがしばしば外征を行いました。 しかし徹底的に戦うことはせず、適当に戦い陣を引きました。 対陣が多く、勝利しても深追いはしませんでした。 身の程を知り、大勝して相手を本気にさせたら怖いと考えたのです。 守りの名将です。 名将でなく愚戦をして戦死した劉備と違うところです。 自分の生存中は劉備の遺子と蜀を守り抜いた偉い人です。 死後しばらくして蜀の国が乱れ、それに乗じた魏にあっけなく占領されました。
- kishn_an
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諸葛孔明が何をした人かというと、饅頭を発明した人でもあります。 http://www.sueki.jp/01/01-0001.htm http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A5%85%E9%A0%AD#.E8.B5.B7.E6.BA.90.E8.AA.AC.E7.AD.89
- isa-98
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今までは、「最終的には包囲した事になります。」などと言う自分本位の行動が多く目立ちました。 自分勝手な行動や、過大解釈でもって行動していたのです。 これを軍規と言う組織的な行動へ変えた記録が、 泣いて馬謖を斬る。(自分の作った法でもって自分の大切な物を失う。) と言う記録に残っています。 法は平等である。(例外など認めない。) 自分が真っ先に見本示す。(違法な警官は刑務所がふさわしく、公務員としてはふさわしくない。) などと言う法の概念です。 初期には良いでしょうが、 最終的には法は法でなくなります。 警官は威力でもって国民を支配して行きますが、最終的には権力にひれ伏します。 「お金。や政治家。」(金権支配)または、企業の支配下に置かれます。 「もみ消し。」これは昨今までは事実でした。 泣くのは常に国民であり、諸葛 亮は特権と言う椅子の上で高々と笑います。 数十億円を手にし。 まじめな顔して職務に専念します。 国民の負託に答えるのが職務であり、従事する事ではありません。 従事者は、国民の負託に答えるよう、日々の努力が不可欠であり、 おまわりさんの方がこれは優れています。 少なくとも「愚将ですね。」 と鼻にもかけない「政治家」こそ 良く歴史書を読み直し、隠れた真理を読み解くべきでしょう。
- hitokotonusi
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蜀の劉備に仕え,主に内政に辣腕を振るった人です。 が,その一方で後年には北伐を敢行し軍事も司るようになりますが, 軍事方面ではさしたる成果をあげられませんでした。 三国志を私撰した陳寿は蜀書諸葛亮伝の評において, 『識治の良才は管(仲)・蕭(何)の亜匹と謂ふ可し。然れども連年衆を動かし、未だ成功すること能はず。蓋し応変の将略は長とする所に非ざるか。』 と,つまり,(諸葛亮は)統治については管仲,蕭何に匹敵する才能を発揮したが, 軍事では成功せず,臨機応変の兵略は得意ではなかったのだろうと書いています。
- Tacosan
- ベストアンサー率23% (3656/15482)
ただの行政官僚. 「泣いて馬謖を斬」っちゃうなど, 蜀の人材不足を加速させた人... という見方もある. とはいえ, どう考えても魏に対抗できるはずのない蜀を支えていたということも事実.
- conntian4
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お礼
ありがとうございます。他の方の解答も大変参考になりました。