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いきなりですが・・・
いきなりですが・・・ 1950年代ごろの日本人の食事の様子はどんな感じだったのでしょうか・・・?出来ればたくさんお願いします!! (高度経済成長期の前くらいまで) 例 家族そろって食べていた 等 公民のレポートで書かなければいけません・・・ 皆さんご協力下さい!!
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1950年、戦後が落ち着き始めた頃ですね。 少し長くなりますが、実態を知って頂く為に当時の状況をまずお話します。 腰弁と揶揄されたサラリーマンが戦後増えてきた時代でもあります。 家族そろって食事というのは大正末期から昭和初期からで、それまではばらばらか或いは家長である父親の食事が済んでから妻、子供の食事が始まりました。 商売人の家では手の空いているものから食事をします。 何人も使用人が居る店も家族だけで商売をしている家も同じです。 現在でもそうですよ、でも子供が荒れることもありません。 現在と異なり、下町などの家々では食事に近所の子供がいつの間にか紛れ込んで、旺盛な食欲を発揮していても誰もが咎めない、地区で自然に子育てをする時代でした。無論悪いことをすれば他人の子供でも叱ります。 今のようにがさつな時代ではなく誰もが大らかでした。 食事はご飯が主。 おかずは精々2品。 商売人の家では朝は茶漬けで暖かいご飯は昼と言う図式が主でした。(色々ありますけれど) 晴れの日とケの日の区別がまだありました。 都市部と地方では全く異なります。(差が激しい) この頃朝鮮動乱で稼いだ人たちは一躍成金。 地方都市だと300坪の瀟洒な家が50万円もしない。 株屋など日銭が石炭箱(木製の大きな箱)にあふれて、札束を両方のポケットに突っ込んで酒池肉林の日々。(^^) 閑話休題。 魚類は塩鮭(山間部では正月位にしか食べられない)、めざし(近郊に漁村があれば生魚が運ばれてくる)、塩鯖及びそのアラ、身欠き鰊、棒鱈など保存の利くもの。 まだまだ身分社会の名残が多かった時代ですから人々の格差は現在以上でした。 関西に住んでいますので関東のことはわかりませんが、似たり寄ったりであったろうと思います。 但し、都市部では戦前の豊かな時代には食べ物の種類は今と遜色が無いほど何でもありました。 戦前は白いパンに牛乳でも、フランス料理でも、鰻でも、トンカツでも、江戸前蕎麦、寿司など金さえ出せばなんでもありました。 無論ケーキ(ショートケーキ)も各種饅頭もバナナもあらゆる果物。(台湾の干しバナナも多かった) 卵は貴重品、病気のときぐらい。お見舞いの筆頭は卵。 1950年(昭和25年)といえば、庶民は一番食べ物に苦労したのではないでしょうか? 物価統制令が外れた頃で、旅館に泊まるには米を持参しなければ泊めて貰えない事もあった時代です。 昭和26年の修学旅行での食事は、おかずは三品、鯨カツと根魚の煮付け、菜の煮付け、漬物、位。 旅館で持たされた弁当は白飯に梅干、するめの飴煮、鯨の時雨煮のみ。 食事で覚えている采を云うと、 船場汁(大根の薄切りと塩鯖のアラの澄まし汁、栄養たっぷり) 水菜(これは本来大阪の野菜です)といりがら(関東で言う皮鯨)の炊き合わせ。 身欠き鰊と茄子の炊き合わせ。 芋茎の煮物。 芋(サトイモ)の煮付け(煮っ転がし) 蒸かしたサツマイモ。 常備采としては、 塩昆布、佃煮、福神漬、漬物類(自家製の糠漬か、仕入れの黄色い沢庵) 季節的には かますあげ(かます子を蒸したもの、酢味噌で)、琵琶湖からのこあゆの飴炊き、諸子、鯉こくや飴炊きなど。 あ、商売をしている家は多かれ少なかれ夏は農家の離れを借りて1ヶ月ほど海水浴に行きます。 明け方には取れたての烏賊や魚を売りに来るのでこのときとばかり飽食。 でも戦災にあった都市では出回る食品は非常に少なかったはずです。 野菜、根菜が主で動物性蛋白質はまだまだ。 地方じゃ塩辛い漬物で白飯を腹いっぱいと言う図式です。 昭和28,9年ごろから急に肉や鮮魚、その他が出回り始めましたが都市部に限ってです。 昭和30年、国道1号線は都市部を除いて未舗装の地道。 名古屋へトヨペットスーパー(クラウンの前身)で行った時は大阪郊外から7時間掛りました。 その頃は旅館ではもう今と変わらない位のおかずが出ましたけれどね。 平均して何処の家庭でも質素(買えないし日本中がまだまだ貧乏だったから) 1960年に入ってからですね、本格的に良くなったのは。 取り留めなくなりましたが、お知りになりたいことは改めてご質問ください。 因みに私は後期高齢者です。
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- Pinhole-09
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戦後の食糧難から解放され、形だけ米の配給制は残っていたが、自由に買えた。 家庭や食堂では米飯が主食でパン食はまだ少なかった。 牛乳びんを毎朝配達して貰い、飲む家はまだ少なかった。 朝は味噌汁、漬物の他のおかずは佃煮、魚、野菜など、卵、肉はたまにあった。 毎朝、豆腐屋や納豆売りが来るので、よく食べた。(安い点は今と同じ) 朝食は通学、通勤時間が違い、いつも一緒というわけにはいかなかった。 昼は弁当。 学校給食は家は関係なかったので、よく知らない。 夕食はたいてい家族揃って食べた。 ちゃぶ台で座って食べた。 箸とスプーンでナイフ、フオークは使わなかった。 味噌汁、漬物は朝と同じだが、主菜はやや豪華で、牛、鶏、貝(鍋料理を含む)などの時もあった。 豚肉は少なかったかあまり覚えていない。 野菜は大根、茄子、胡瓜、人参、じゃがいも、さつま芋、かぼちゃ、菜類、トマト、キャベツなどで、今は普通の洋菜(レタス、ピーマンなど)はまだ普及していなかったのかまったく記憶がない。 魚はぶり、いわし、さんま、しゃけ、いかなど、たまに鯛、海老、今は普通の輸入魚(サーモンなど)はなかった。 今と同じで煮もの、焼きもの、てんぷらなどの揚げ物にした。 お歳暮の贈答品として荒巻(塩鮭)一匹を貰うこと多く、正月は焼き餅と一緒に食べた。 調理済みの食品も、佃煮以外さつま揚げやフライも買い、コロッケは好評であった。 果物はみかん、りんご、桃、梨、ぶどう、すいか、くらいかな、いちご、さくらんぼはたま。 メロンはなかった。 間食もあるが略、以上都市での経験。