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なぜ人から好かれると嬉しくなり、人から嫌われると悲しくなるのでしょうか
なぜ人から好かれると嬉しくなり、人から嫌われると悲しくなるのでしょうか? 単純な事なのですが、その心理的メカニズムがどうにも分かりません。 どなたかご存知の方がいらっしゃいましたら教えて下さい。 あるいはこうではないかというご意見もあればお願い致します。
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こんにちは。 #3です。回答をお読み頂き、ありがとうございます。 まず、「1」に関する解釈はその通りで結構だと思います。では、「2」のご質問ですが、前回答と重複しますが、順を追って整理をします。 生後体験に従って我々の脳内に原因と結果の関係が学習されることを「条件付け」と言います。我々の脳内には、例えば「満腹=利益」、「苦痛=不利益」といった生物学的価値に対応する基本的な判定基準が遺伝情報として生まれながらに書き込まれています。ですが、生後環境において何が利益で何が不利益であるかは実際の体験を基にひとつひとつ学習してゆかなければなりません。この学習に必ず必要なのが「条件付け」です。 大脳辺縁系は環境からの入力を基に利益・不利益の判定を行い、情動反応を発生させます。この機能は生まれたときから使えるようになっていますが、ここにはまだ何が利益で何が不利益なのかは学習されていません。 身体に苦痛が発生しますと、痛覚はそれを「侵害刺激」と判定し、運動神経系に回避の指令を下し、与えられた状況に対処するため、末梢神経は自律中枢を介して一気に活性化されます。この緊急事態における急激な生理的変化は「ストレス」と判定され、その結果が辺縁系に学習されます。同時に、そのとき自分の身の周りに何が起こったかによってストレスの原因が特定され、これが条件付けされます。 このように、生得的な身体反応として発生した結果に与えられた状況が対応することを「条件付け」と言い、これによって反応の原因が学習されます。つまり、ここで条件付けが行われるのは、我々動物が与えられた生後環境において自分の利益・不利益を選別するためです。そして、辺縁系はこの判定を情動反応として行うため、学習結果は喜怒哀楽などの感情として再現されることになります。 我々は安全と危険を直接的に学習したのではありません。恐らくほとんどの人間が、生得的な生物学的基準を基に様々な生後体験を条件付けしてゆく過程でそこに「安心と不安」を学習し、結果的にはこれによって安全と危険に対処することができるようになるのだと思います。 恐怖という感情は実際に危険と遭遇しなければ発生しません。これに対しまして、不安といいますのは原因ではなく、「状況に対して発生する反応」であり、具体的な行動を選択する機能はありませんが、予測のできない不特定の事態に対処することができます。 では、我々はこの不安か恐怖のどちらかを体験しない限り安全を利益と判定することはできません。ならば、このまずこの不安が発生し、それが「安心に対する欲求」をして働くならば、これにより我々は、初めて自分の身の安全を守るための行動を選択することが可能となります。このような理由から我々の脳内ではそれが「欲求」として扱われるため、達成されるならば喜び、阻止されるならば悲しみという判定が下されることになります。 このような判定が対人関係に用いられるのには、やはり「幼年期の子育て」にたいへん大きな要因があると考えられます。 我々はみな子供のころ、母親からお乳をもらいオムツを交換してもらいました。このような利益・不利益が学習付けされてゆく過程で、母親の存在と不在は必然的に安心と不安に対応することになります。では、これは子育てを原則とする哺乳動物として生後学習の極めて初期の段階に必ず行われることであり、そして、これを学習する機会といいますのは全人類にほぼ均等に与えられます。このため、その結果、果たしてこれが我々の対人関係や社会行動の基準として用いられるのだと思います。 このようなことが群で暮らす動物や我々の社会の秩序や道徳を生み出しているというのはたいへん不思議なことに思われます。ですが、これに惑わされる必要はありません。「親和性」や「帰属性」といいますのは、社会がそれを我々に要求したために作られたのではありません。それは、我々が生後学習の結果に基づいてそれぞれの行動を選択することによって現れる「社会の性質」と考えれば良いと思います。
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- tumaritou1
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人間には、分かり難いですが、他の人と心の奥底で繋がっている者が存在しているからです。その者とは『良い歌を聴いたときには』満場で総立ちになって感動を分かち合っている者です。或いは習わなくとも良い事や悪い事を識別している者の事です。 それは人間の心に感情を沸かせる者として、或いは人間の命を働かせるものとして、或いは人間の命を護る者として、確かに存在しています。 その者と一体になる時に、幸福感が湧上がります。その者とかけ離れた時に孤独感に襲われます。その者と仲たがいした時に心は漠然とした不安に襲われます、或いは罪悪感として、或いは生き難さとして、心は感じます。 その者を自分の心から追い出そうとした時、人間は心であれば心を病む。その者を体に感じた時に自律神経失調症として感じています。その者を自分の行動として違和感として感じている事が神経症という事になります。 自分自身の働きを静めようとする薬が、医師の出す薬となっています。その薬は寛快を求めるためのものです。ですが完治を求めるなら『自分自身の働きを』認める事が大事となります。それは『症状』を受け入れると言う事です。 症状を受け入れられない事が『症状』を意識に上らせています。症状を受け入れた時が症状を意識に上がらせなくなります。その事が治ったと言う事になります。 好きと嫌いと言う事を余り重要ではないと思うようになります。好きとか嫌いではなくて、世の中にはそれ以上のものが働いている事が判ります。『我』ではない何か?です。 判り難くてすみません。
お礼
他者との比較や、集団での立ち位置が関係している、と解釈しました。 集団心理やイデオロギーの成り立ちなども興味あるのですが、今回の質問ではもっと簡単な領域に関心を持っています。 ちょっと話は脇道にそれますが、先日けらえいこさんの「わたしんち」というマンガを見た時に、「映画館に行って映画を見たが、自分の泣くタイミングが周囲と違ってしまいどうしよう、本当に参ってしまって映画に集中できなかった」的な事が描かれていましたが、普段映画館に行かない自分としては、「そこまで周囲に合わせんでも・・・、自分が泣きたい時に泣けばいいじゃん。このマンガが売れているっていう事はこういった感覚が普通なのか? 」と思ってしまいました(実際に映画館に行くとそうなるのかもしれませんが)。
- kigurumi
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やはりチンパンジーやボノボや犬と同じように集団で生活する生き物だからじゃないかと。 集団で暮らすことで、グループの一員としての安心感が得られるじゃないですか。 しかしグループの中で嫌われていると、集団の中にいながら、孤独じゃないですか。 孤独は不安を生むじゃないですか。 一体感や連帯感は喜び。 迫害は悲しみ。 それは集団で生活を営む動物にとって、とても重要なものだと思います。 生存に関わることですから。 家庭というのは最小限のグループで、子供はそのグループに好かれて安心した暮らしをしようと、親の手伝いをしたりして、生存を果たそうとするわけです。 自分がやったことを親が気に入らなくって怒ってきたら、親に嫌われたと悲しみ、親に嫌われないようにと、手伝いをしたりおべっかを使ったりして、子供なりに安心した環境になるよう奮闘するわけです。 本能で家庭の和は、生存に関わると知っているから。 その最小限のグループから学校という集団においても、自分を抑えていないと集団に嫌われて生き辛くなると思えば、言いたいこともやりたいことも我慢をすることで溶け込んで攻撃を受けないとなれば、ヘラヘラして、睨まれて攻撃されないようにするわけです。 それでも強い子からターゲットにされ仲間はずれにされると、集団にいながら孤立するわけですから、つかむところが無く溺れるような状態になるわけです。 あくどい子は、気に入らない子をグループから迫害して追い出して、精神的に他者を殺そうとする。 人間は孤独を死と同様に感じると知っているから。 castawayって映画は実話を元にしたものらしいですが、飛行機事故で孤島に流れ着いた人が発狂したり自殺しなかったのは、バレーボールを友人とみたてて、バレーボールに話しかけていたから。 先日動画で見たのですが、ルバング島だったかで、日本兵が見つかり帰国したという事件が何十年か前にあり、何十年も孤独に耐えよく生きてこれたとかニュースで流れたらしいが、実際は集団生活をしていたのだそうです。 仲間が減っていき、最後の1人になるまでは平気だったそうです。 とうとう最後の1人になった時、精神的にかなりきたそうです。
お礼
回答ありがとうございます。 人間は一人で生きていけない、というのを本能的に悟っているから、と解釈しました。
- ruehas
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こんにちは。 我々は誰でもひとから好かれたいという欲求を持っています。ですから、この欲求が阻止されますと不安が発生し、悲しくなります。そして、この好かれたいという欲求は、我々がみなそれぞれの生後体験から脳内に学習したものです。 我々動物にとって好かれることは「安全」、嫌われるのは「危険」を意味します。ですが、別に普段これで身の安全を守っているわけではありませんし、嫌われたからといって直ちに危険ということもありません。では、我々の脳内で敢えてこれが「欲求」として扱われるのは、それは即ちこの欲求に従って行動するならば結果的には安全と危険を選別することができてしまうということなんです。 我々の脳には「利益と不利益を判定する機能」というのが動物として生まれながらに備わっています。これを「大脳辺縁系の情動反応」と言い、我々はこの機能を使って嬉しい悲しいを判定しています。 これとは別に、たいがいの動物には「快感:安全」「苦痛:危険」といった遺伝的な機能を使って判定することのできる生物学的な身体反応も予め備わっています。ですが、この機能では身体に実際の苦痛が発生しない限りそれを危険と判定することができません。 では、脳内に辺縁系の情動機能を持つ動物では生後体験の結果をそこに学習することが可能であり、これに基づいて情動を発生させることができるようになります。この情動反応により、例えば脳内に恐怖という感情が再現されるならば、動物は二度と再びそれに近付こうとはしません。つまり、辺縁系にこれが学習されることにより、次からは自分の身体に苦痛が与えられる前にそれを回避することができるようになるというわけです。 このように、遺伝的に定められた判定機能では今現在の危険にしか対処することができません。これに対しまして、まだ具体的には発生していない事態に自発的な行動を選択することができるのは、即ち我々の脳内ではそれが「安全に対する欲求」として働いているということです。 我々動物にとって欲求とは「行動選択の動機」です。ですから、これが欲求であるために我々は自ら行動を起こすことができるわけですが、阻止されるならば果たしてそこに発生するのは恐怖ではなく落胆でなければなりません。これが、我々の脳が安全・危険ではなく、それを嬉しい悲しいと判定する理由です。 我々は生まれたばかりの赤ん坊のとき、誰もがみな母親からお乳をもらい、ありとあらゆる不安を排除してもらいました。また、これは他の一部の動物も含め、少なくとも我々哺乳類においては全般に当てはまることです。 心理学ではしばしば「親和欲求」、あるいは「帰属性」といった概念が用いられますが、ひとに好かれることがどのようにして「利益・安全」と学習されるのかに決まりはありません。ですが、恐らくその構造の基礎はほぼこの時期に形成されるものであり、果たして全人類(あるいは群で暮らす哺乳動物)、世界中でほとんどのひとが必然的にこれを「共通の欲求」として学習、獲得に至るものと考えてまず間違いないと思います。 食欲や性欲、あるいは安全・危険といった判定は我々動物が遺伝的機能として予め持っているものですが、このような生物学的な利益・不利益に基づき、生後に獲得されるものは全て「二次的欲求」に分類されます。このうち、「親和欲求」といいますのは「安全・危険」に対応する二次的欲求であり、先に述べました通り、このようなものはみな大脳辺縁系の学習機能によるものです。我々はこの欲求に従って行動することにより、結果的には自分の身の安全を守っているわけですが、同時にそれは我々の社会がその秩序を保つための教科書でもあります。 親和欲求といいますのは遺伝的に定められた機能ではありませんから、何故、ひとから好かれることを望むのかに生物学的な理由はありません。ですが、好かれたいと思うのははっきり言って人情ですし、果たしてそれは我々人類の進化繁栄にとっても事実上の役割を担うたいへん重要な機能に位置付けられるものなのではないかと思います。
補足
回答ありがとうございます。 補足質問させて下さい。 1. 親和欲求の発生とは、「安全・危険」という生物学上の判定が、こと人間に対しては個体が持つ感情に転化する、という事と同義という事でよろしいでしょうか? 最初の質問「なぜ人から好かれると嬉しくなり、人から嫌われると悲しくなるか? 」に立ち返ると、 ・人間は「生物学的な利益・不利益」を生後学習する。 →学習した結果が個体の感情と結びつく。 →「好かれる→利益と判定→嬉しい」 「嫌われる→不利益と判定→悲しい」 という事なのでしょうか? 2. 上記で合っていた場合、なぜ「好かれる→利益と判定」「嫌われる→不利益と判定」をするのか、生後学習での原因と結果に至る途中のプロセスはどのような経路を辿るのか、根本的な所を探りたいのですが、何かご存知であれば教えて下さい。 勝手我侭な要望で恐縮ですが、宜しくお願い致します。
- harrywithers
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こんにちは、 最近の心理学の流れに「進化心理学」という分野があります。 私たち人類は、600万年前に進化の流れに現れて、 集団で協力し生活することで、猛獣や他民族や仲間内の争いを生き抜いてきました、 そういった闘争の中では、仲間や信頼関係は、直接命に関わる重要な事でした、 国家や法律に守られ、大集団で暮らし 日常に命に関わる争いごとのない現代では、信じられないかも知れませんが、 人類が生き延びる為に、他人に好かれ信頼関係を築くか、嫌われて敵対するかでは、 生きるか死ぬか、命に直結する大変重大な出来事だったでしょう。 一度作られた人間の感情は、時代が変わってもそう簡単変わらないものです。 その為、『人に好かれると嬉しくなり、嫌われると悲しく感じる』のは、 生き延びる為に人間にとって必要な命に直結する大切なことだからです。 本当は、今(現在の社会)でも他人に好かれ嫌われることは、 命につながっているのですが、私たちの日常生活が他人に鈍感になり 他人との関係を軽視しがちになってしまっているだけだと思います。
補足
直球の回答ありがとうございます。 「進化心理学」ですね。現在ちょっと探り中です。
人間は普通一人では生きられず、どうしても仲間が欲しくなる本能を持った生き物です。仲間を得ることでその人はある精神的な安定感を得ることが出来ます。そのヒトとヒトとの結びつき(の要因、成因)には功利的なものと心情的なものとありますが、他人から好かれるということは、その心情的な結びつきが努力なしで出来たということになり、貴方はひとつの精神的な満足を得たということでしょう。この満足感は他にも自己愛を満足させるというような意味もありますし、幾つもの原因があると思います。 逆に嫌われるということは、一旦出来た(出来そうになった)それらの結びつきが壊れた、あるいは仲間でなく敵が出来たということで、貴方は深い喪失感と失意、恐怖を感じるのです。 ご参考になれば。
補足
回答ありがとうございます。 人間関係での心情的な結びつきの発生・消滅については分かったのですが、何故これらが嬉しい・悲しいという感情に繋がるのかがわからない状態です。 もうちょっと深い所で、その理由を知りたく思っています。 結びつきが発生した場合、人間が持つ欲求の内、集団依存の分野が満たされるという功利的な面でプラスになるから、嬉しいという感情に転化されるのでしょうか? 結びつきが消滅した場合、人間が持つ欲求の内、集団依存の分野でそのファクターが枯渇するという功利的な面でマイナスになるから、悲しいという感情に転化されるのでしょうか? こちらは質問に記載しておらず大変申し訳なかったのですが、人間の人間らしい心情的な観点からその理由を探っているのではなく、理論的な理由を求めています。 始めに心情ありきの解釈ですと、現時点ではちょっと納得できないのですね。
お礼
わがままな質問にも関わらず、丁寧な回答を頂き大変恐縮です。 ありがとうございます。 私の中ではまだ下記の部分が消化できていないのですが、取り急ぎ御礼まで。 ・好かれる→利益判定→嬉しい という例ですが、私なりに私の解釈を含めてまとめなおしますと、 人に肯定的に承認されるという行為 →人間は社会を構成する動物である。 生命存続の為に人間個体における他者による承認欲求がある。 →これを満たす。 →欲求が満たされたので嬉しくなる。 と言った所でしょうか。 しかし、幼年期の授乳(幼児からすれば「受」乳でしょうか)が承認欲求にやっぱり繋がるんだろうな(存在を承認されなければ授乳してくれない、など)、と漠然と思いつつも、本当にそうなのかな? という疑念がほんの少し残っています。 まだもやもやしているのでそれを言葉にする事はできませんが、元々の質問の方はほぼあらかたすっきりしました。 重ねて御礼申し上げます。有難う御座いました。