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私利私欲の為に見てくればかりで物事をする人…
私利私欲の為に見てくればかりで物事をする人… 中国「菅子」の「一年の計は穀を樹るに如くは莫く・・・」 という一文をある経緯から検索していたところ (↓URLです 頭にhttp:// を付けてください) ameblo.jp/mahounohimekuri/entry-10429891811.html#cbox ( kumi のブログ好奇心は一生の財産!行動は魔法!の2010年1月9日のもの) のブログにあるコメントに行きあたりました。 このページの6つのコメントのうち2~4のやたら長いコメント (でも少々読みづらい・・・)に、何となく惹かれ意味深なものを感じました。 自分の関わる人間や世間に対して、「良いこと」をしている人間は沢山います。 しかし、それが本当の真心をもったものなのか疑問に感じることが多いと思います。 政治的なこと、お客様に対してのサービスなどの取組み、流行の「エコ」な活動や取組み、 お客様の為、地域の皆様のため、子供たちのため、お年寄りのため、などなどをうたった 数々の催し、その他・・・・・。 もちろん、それらを本心から考えて様々なことをやっている人も確かにいるでしょう。 しかし、上記ブログのコメントにもあるとおり「見てくれ、うわべ」だけで、世間体や 自分の事を考えているだけの、無駄・無意味な行いがあまりに多いように思います。 花や木を育てるのは、「私腹を肥やす為」「みてくれをいいように見せるため」 「客を集めるため」・・・、だけであって、本当の意味で「人を育てよう」という気など 一切無いような、自分サイドの都合しか考えないひどい状況が人を人とも思わない状況が 確かに数多くあるように思います。 どちらかといえば、その方が多いようにも思ってしまいます。 国も会社も、存続させていくための様々な事情はあるのでしょうが 「その人」が「それ」をやっている意味が本末転倒であるようでは、社会にとって 関わる人にとって無意味です。無意味で済めばよいが、色々な意味で害さえ及んでいる ことが多々あるように思います。 何も、国や会社レベルの話でなくとも、個人付き合いのなかでもこれらを 感じることは多いです。 そのあたりを言っていると思われる上記ブログの2~4のコメントについて この質問をご覧頂いているみなさんはどうお感じになられるでしょうか? とりとめもない質問ですみません。 あまりに心にとまったもので。
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補足ありがとうございます。 私はブログでコメントされた方の主張と、質問者様の理解は合致していないものと感じました。 というのもの質問者様は「善行に見える悪行に対して否定」されています。 これに対しては私も絶対悪だと思います。 しかし、ブログのコメント主は「良い結果を生み出す可能性のある善行さえも、動機や本心が不純であるというだけで全否定」されています。 つまり、動機や本心がどうであれ良い結果を生み出す事ができるという可能性を見落としています。 本来ならこの場合は、本当に偽りから善は生まれないのか、と推論を重ねてから結論を出すべきです。 にも関わらず、最初から「生まれるわけない」「それはいけない」と根拠もなく決めつけてしまっています。 私は心身からの善意であっても悪い影響を及ぼせば悪、私利私欲や偽りであっても良い影響を及ばせば善と見ます。 例えば、コメ主は私利私欲が悪いとされています。 ここでは私利私欲を営利と解釈します。 悪い側面だけ見ると、営利=悪い、と解釈されても不思議はありません。 しかし、違う側面を見てみると、営利目的でも人の生活を豊かにしている個人・団体は沢山あります。 仕事がなくて仕方なくやっている清掃業のおばさんも―― 貯金の為に引っ越し屋のアルバイトをしているお兄さんも―― ガラの悪そうな土木作業員でさえも―― 社会には貢献しています。 意見に対しても同じ事です。 立場や経験が異なっていても相手を救うだけの意見は出せますし、 営利目的で作られた大衆向けの創作物(映画・小説)でさえ人々を勇気づける事はできます。 良い結果を生み出す人達まで含めて否定してしまうという事は、善行の入口を狭くして出口を広げ、つまりは可能性を狭めてしまうという事でもあります。 そして、この方が最も説得力がない要因が―― > 私も立場が変わればそういう人間になってしまうのでしょうか? 個人ブログに対して長文コメントを幾度に渡って書いてる時点で、既に独善的で配慮がないという現実に気付いてない事です。 表現の仕方に関しても、tomakomai_111さんの補足にあるような具体例を出して批判されるのであれば理解もできるのですが、コメントの内容では理解できません。
そうですねぇ。 人間が、本当に私利私欲のためにだけ徹することができるとしましょう。 もし、そうであれば、むしろそれは合理的では、ありませんかね? もちろん、物事の真実味というのは、その人の実体験だとか、ある知見を表明して現実に実行する覚悟によって、裏打ちされる。 私は、そのように考えています。 ですが、そうした生きがいややりがいが引き起こすものは、ハッピーエンドばかりではなく、ある種の歴史的悲劇では、ありませんかね。 まあ、時たま喜劇もありますが(笑) 昔、サイクリングをして50キロ程離れた場所に出かけました折。 すっかり夜も更けた頃、段差を通った衝撃でタイヤがパンクして、あっさりペッタンコになりました。 そのため暗闇で作業不能になり、見渡す限りの田園風景。 で、自転車を降りて転がすも、いちいちチューブが巻きつき、片輪担いで移動する羽目になりました。 血気盛んな若者だったので、チューブを潰すまいとする私利と、このまま帰りつければ、まわりにちょっとウケるかしらという私欲が芽生えまして、がんばって徹夜で帰りました(笑) とても楽しかったですが、もう二度とゴメンです(笑)
人の為と書いて「偽る」と読みますよね。 つまり、人の為に善い行いをする事が「偽善」だとします。 ですが、それでも助かる人がいるのは否定できない事実です。 その「偽善者」がいなければボランティアも福祉も成り立ちません。 パフォーマンスのような募金でも助かる人がいるのは事実です。 エコエコブームに乗ったミーハーな人でも地球に貢献しています。 意味がどうあれ、結果が良ければ良い事だと私は思います。
補足
早々の回答ありがとうございます。 大事なポイントが抜けていたような気がしますので補足を・・・ 行っている「良いこと」を「良いことに見えること」と言い換えます。 例えば「エコな活動」とうたい、食品トレーの回収~業者への受け渡し などをやっている(ように見える)とします。 しかし実際は、表向きに「私どもはこんなことをやっています」と言いたいだけ 評価を上げたいだけの活動であって、裏では集めたトレーを捨てているとか そこまでひどいことをしていなくても、「これだけ集めました」との証拠を またまた世間に知らしめるために、(集めないほうがまし(よほどエコ)なぐらい) 無駄にガソリンや費用を使って業者に渡して、その結果の渡したトレーの数字だけを 世間に示しているなどというように、やることなすことが宣伝のためだけで 実際はそれに関わる人間も迷惑をしていたり、かえって環境に悪かったり 色々な意味で害としかいえないようなことをしている。 つまりは、「良いこと」は実際にはしていないような人が多いということです。 ゆえに、見せ掛けの結果が良ければよいだけで、深いところでは結果さえも最低・最悪だと いうことです。 私利私欲の為でも、「良いこと」を本当にしているなら、確かにそれはそれでOKでしょうが そうではなく実際は1つも「良いこと」などやっていないところが、きたないというか 最低だと思うのです。 もちろん、エコな活動に限らず、見せ掛けの福祉でオモテズラばかりのところもあるでしょうし、 何かに会社を上げて参加をするといったようなことでも、心の内は皆が皆、体裁やソトズラばかり の馬鹿馬鹿しい状況といったこともあります。 結局人のことなど「心が無くても見た目が良ければよい(うまい具合に評価さえもらえればよい)」 という考えがひどすぎると思うのです。 きっと、ブログのコメントもそんな意味だと思います。
補足
回答ありがとうございます。 下の人の補足も読んでいただければ光栄です。 他者が迷惑をしたり、生き物や環境にかえって害が及んでいるようでは 合理的とはいえないと思います。 つまり、達成しているのは「自らの私利私欲のみ」で、その他の内 極一部は可もなく不可もなく、そしてそれ以外の多くが、良い影響を受けていなかったり 害を被っていたり・・・ そういった部分について、ブログのコメントでは指摘されているのだと思います。