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言葉以前のそれ
言葉以前のそれ 私達がまだ、人類の曙であった頃、そこには、言葉以前のそれで暮らす最初の人々があったと、私は始原に思いをやります。 いつの間にか言葉は、巧みに作られ、多くの形態を生み出すに至ったが、私はいつも、真実の言葉を、真実の想いを、真実のやさしさであるそれを、おもっています。 思慮ある皆様にお尋ねします。 私達の起源、始原、原初であるそれは、一体何であるのでしょうか。 よろしくお願いします。
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この疑問については無限の回答があると思います。正解がないと言われる世界の代表でもあると思います。私はこのような問題に接したとき、歴史的始源についてではなく、人間的始源について考えるように心がけてきました。つまり、なぜ、人間は喜んだり悲しんだり、考えたり悩んだりするのだろうか。まさにそれは「言葉以前のそれ」の世界でもあると思います。そこから見えてくる人間的感情と、歴史的始源における「言葉以前のそれ」とは同質の問題であると思います。これは経験的に述べていることであって、科学的に論証されているわけではありません。疑問に真正面から答えたものにはなっていないと思います。私も他の方々の科学的説明を期待しています。
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ヒントになればと思いますが・・・ 鳥を見ていて感じる事ですが 鳥の声は、声ではなく言葉のように思えます。 微妙な声の違いによって、仲間とコミュニケーションを取っているような感じがします。 また同様に、わずかな仕草の違いによっても群れの中での反応が見られます。 私は鳥ではないので、正確には分かりませんが(笑) 声ではなく言葉であるというのは、まず間違いないと思っています。 毎朝、餌をやっている雀に声をかけたりしますが お天気の日には、雀の声も明るく気持ちのよい感じに聞こえます。 人間の言葉以前のものが、声や心だとしたら、そんなところから感じ取れるような気がします。
お礼
ご来訪有難うございます。 今回の問いでは、自分の知りたかった事を問えなかったのかもしれません。 それなのに、多くの方々のご意見賜れたことは、なにか申し訳ない気もしてしまいます。 また、ご縁ありましたら、お気が向けば、どうぞよろしくお願いいたします。 失礼いたします。
- taco8ch
- ベストアンサー率7% (11/146)
赤ん坊はいますか? 彼らなら(ママ)です。というか(マァヽヽ)です。 俺たちおっさんなら、 (月の明かり)とか(風のすさび)でしょう。 いやさ、(あゝ、月。)とか(おゝ、風。)でしょう。 ごくたまに(うおゝ、おっぱい)とか(むおゝ、おけつ)かもしれません。 何だかそういったものでしょう。
お礼
ご来訪有難うございます。 赤ん坊は居ないのですが、友人達のところでは会う機会があります。 赤ん坊はすくすく育てばよいですね。 ご回答は、感嘆と理解しました。 またご縁があればよろしくお願いいたいます。
- Mokuzo100nenn
- ベストアンサー率18% (2123/11344)
言葉足らずの大工です。 読み返してみて気づいたことですが、問いの「私達」を「私」に置き換えてみてはいかがでしょうか? そうすると質問の趣旨が変わってしまいますか? そうしないと思考の中心が定まらないような気がします、、、。
お礼
私が人類の曙と言うことはないので、私達と言うのは、人類を意味しています。 もし、私に置き換えた場合、質問の質は全く異なったと思いますが、主体的であったほうがよかったかもしれません。 また、ご縁あればよろしくお願いいたします。
補足
ご回答いただいたのに申し訳ありません。 失礼いたしました。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
【「言葉以前」の未だ概念化される以前の世界をいかにしてあるがままに】つまり物自体というか存在自体ということになりますね。 それは志向・試行しましたが知的作業では無理なのは結局当たり前でした。 その放棄しかありませんでした。 信仰と精進です。瞑想と捧げですね。自己の抛擲ですね。 それはともすれば、ヒマラヤからベンガル湾ですか、に入っていってしまう流れの中に自己をずたずたにしてなくしてしまうことでした。
お礼
度々のご回答申し訳ありません。 また、改めてご質問ができた場合は、改めてご質問させていただこうかと存じます。 自分も、自身を見失わないようにしたいと思います。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
志向し経験したことですが、大変勉強になるご回答が続いていたのですね。 >言葉以前のそれで暮らす 【ANo.4の質問者さんのお書き込み】 概して、自身の殻に閉じこもってしまったりするときには、大きな世界を置いてきてしまうものでしょうか。もしこの世に、認識し得ない他の人が居るとするならば、その人に対して私は、何者であればよいのだろうか、その様に思うこともあります。自分と他者とは何であるか。 【kryaの思い:認識するという態度は思い上がりかといえないでしょうか?認識し得ないとか他者とかが具体的には分りませんが、この今の私の世界に私は認識してきてはいません。人は何を認識できるのでしょうね。所詮は言語体系の、それを用具とした知性のなかに、その形式の中に理解や写そうという事なのでしょうかね。仰せの事項は信仰の基本的態度に関連しているかのように思います】 ANo.5【「言葉以前」の未だ概念化される以前の世界をいかにしてあるがままに、純粋無垢なままに把捉できるか、・・・】このお話が、下記の 【その当時の言葉は辞書や文法の規範でも、ルールでも、システムでもなく、世界や事物そのものと等価の内実をもって人々に実感されていたはず】ということまでは異論はありませんが、 【それはむしろ叫び声や独白に近い、かろうじて後世の感嘆詞に通じる、その意味では血や肉に裏打ちされた、ナマの呼気そのものでしかない言葉だったのではないかと想像されます。われわれは、その面影を、離乳期頃の赤ん坊が無邪気な笑顔と共に無心で発する喃語にわずかに見出すことができます】にいくことは飛躍であり、想像の域にあると存じます。批判で申し訳ありません。 【言葉は言葉である限り、ある誰か一人によって最初に発せられた瞬間、誕生時の瞬間を必ず持っています。それが他の誰か他者にその概念(指示内容)と共に伝えられた瞬間、誕生時の《世界=言葉=ヒト》という三位一体を喪い、その代償として、その言葉はコミュニケーションの媒介、手段に変質し、そうして豊かな人間関係、共同体(社会)を生み出したと考えるしかないのです】 という傾向と下流への流れのご指摘に異論ありません。こうして知性、そして文明と知識が生まれてきたのでしょうが自己という個体を他者という個体に対置することの堕落だと存じます。そして太初にことばありきのコトバは措いて置いて、そうでない共有世界があったと存じます。知的所産である言葉によらない共有世界は先行的にあったと存じます。 その共有世界を根基にして知的ことばで間に合わせようとする安易な堕落が生じてきたと存じます。 文明の発達とはその堕落の比率の増加であったと存じます。みんな救い難いソフィスケイテド・ピープルになってきたのかしら。(堀田善衛だったか?)
お礼
多くのご思量と、ご助言いただき、有難うございました。
- mashumaro2
- ベストアンサー率58% (99/170)
こんにちは。 肌と肌のぬくもり、タッチングだと私は思います。 哺乳類の中でも弱い小動物などは、狭い穴ぐらの中で共に身を寄せ合って夜を明かします。 互いに存在を確認し、認めあい、言葉無くとも想い通じ、 安心しきったうちにようやく眠っているかのようです。 また、生まれたばかりで目が開ききらない子が、母親の乳を探りあてて吸いつきますよね。 それって、なにもお腹が空いているからばかりではないと思うのです。 本能とは言えど、 やはり、抱っこされて肌のぬくもりを得ることで安心したいのではないかしら。 もしかすると、私達の起源、始原、原初には、じかに触れ合うことが真実だったのかもしれません。 そしてそれを他の感覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚)が絶妙に支えていたのでしょう。 手のひらの触感にこめた気持ちや情報量は、今の言葉とは比べようもないほど微弱だったことでしょう。 でも、齟齬をきたすことなく互いの存在をありのままに認め、素直に真の想いや優しさを伝えあい共感していた温かみは、 今も私達一人一人にちゃんと備わっているはずなのです。
お礼
質問自体に、自分の不本意があったのかもしれません。 ご来訪ご足労おかけいたしました。申し訳ありません。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
コトバとは知性機能の結果であり産物だと存じます。そして人間の内面からきわめて外に向かっての関係での所産であり、その所産のメディア媒体だと存じます。 コトバは社会性の結果であり、社会性を産出する媒体だと存じます。 人間という存在が開始したことを契機として、或いは人間の開始を起させる契機であると存じます。 従って、コトバ以前とは人間以前ということになり、ことば以前の人間存在はないと存じます。 動物や植物、木石、山河、海空はどうか。 そこにコトバがないと思うのは、人間の一定の思考機能での認識結果だと存じます。 この事については、私はSelf-Realization Fellowshipというラージャのヨガで勉強しております。 ハイパーリンクは削除してありますが、コピーと貼り付けで検索は可能であります。
お礼
リンクの方拝見させていただきました。 自分も以前、タントラ系の事を少し調べたことがあります。 インドの行者についての書籍なども読んだことがあります。 回答者さんが実際に行っているものをご紹介して下さり、大変うれしく思います。
- magga
- ベストアンサー率15% (56/359)
私の思うところを書いてみますね^^ <<私はいつも、真実の言葉を、真実の想いを、真実のやさしさであるそれを、おもっています。>> 真実(実際に事実である物事)である「言葉」「思考(想い)」「心(優しさ)」=「それ」 ですね。 <<私達の起源、始原、原初であるそれは、一体何であるのでしょうか。>> ここでなぜ上記の「それ」が「私たちの起源、始原、原初」としたのかが書かれていないため、わかりません。 なので、ちょっと分けて思ったところを書いてみます。 まず <<真実の言葉を、真実の想いを、真実のやさしさ>> とは何か 「真実の言葉」とは現実と矛盾しない言葉 「真実の想い」とは現実と矛盾しない思考 「真実のやさしさ」とはエゴの入らない慈悲喜捨の心 私はそのように思います。 私の中ではパーリ語で残された仏典がこのような具体的なデータにもとづいて、理性的に論理的に実践的に調べる必要がある事柄について参考になる事柄が多く記されていると思います。 お勧めです^^ そして<<起源、始原、原初>> とは何か 現象の一番最初ということでしょう。 しかし現象は原因であり結果、常に流動し流れ行くもの。 この現象の原因はその前の結果よりなり、その原因はその前の結果によるもの。 原因と結果の連鎖反応。 つまり始まりは成り立たないというのが僕の持論です。 仏教では無始といわれていたと思います。 何か参考になれば幸いです。 ~生きとし生けるものが幸せでありますように~
お礼
始まりはない、生じもない、そして縁起についても、特に案じることもない、そのようにあるのであれば、不安もない。不安がなければ、それはしあわせです。そしてそれは、他の人の不安も除けることになるのであれば、それはとてもよいとおもいます。不安なくくらす中で、期せずして何かを見つけられるのかもしれません。 また詳しく読ませていただきます。取り急ぎこれにて。 ご回答有難うございました。 なお、始原にのぼった理由は、NO12の方への補足を参照してください。 またよろしければ、いつでもご来訪ください。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
投稿しようとして、ちょいとご質問文章を読み直したら、不明なところが出てきて、皆さんのご回答も拝読しました。 でも私にはご表現で確認したい事があります。それは以下のとおりです。 お閑のときによろしくお願い申しあげます。それから投稿に参加させてください。 【言葉以前のそれで暮らす最初の人々】を私にわかるように翻訳すると、【最初の人々の暮らしのための言葉以前のそれ(この“それ”が指示するものは不明ですが)は何だったか】という文章になるのでしょうかね? そして【私達の起源、始原、原初であるそれは】を私にわかるように翻訳すると、【“それ”なるものが私たちの起源、始原、原初としてある。その私たちの始原である、“それ”は何であったか】ということでしょうかね。 そして、“それ”とは必ずしも言葉ではない。しかし言葉以前という表現があるから、言葉の前身ということなのでしょうかね。 そうすると私たちの始原であるものは、“言葉以前のそれ”だということで、つまり言葉になる前のその前身や言葉の起源ソースという意味なんでしょうかね。 それとも文明や思考、コミュニケーションの始原を仰せですか。 或いは言葉やその他(太初にコトバありきなんて)などの人間自体の始原ですか? 閑なときに、ご補足ください。
補足
ご来訪歓迎いたします。 言葉以前のそれ、について設問を立ち上げるとき、表現するのがなかなか私には簡単でなかったとことが、曖昧さを残した設問となっていることの理由なのですが、少し補足をさせていただきたくおもいます。 この設問を最もシンプルな、最初の形にすると、〔真実の言葉とは何でしょうか〕という問いになります。 私自身がこの問いから始まって、それはどこから生じるのか、それは果たして〔生じた〕と言えるものなのか、などなど自問自答しつつ、私達の持つ普遍性や、即応性、即実性、いまあってしかるべきものについて、設問したく思い、かかる文章となりました。それらの自問自答が幻想、つまりいらぬ回り道であると言うのも了知していて、尚も始原にさかのぼってみたのは、既に色々の組みあがってしまった前提の根拠と理由を、理解しようと思ったからです。 本来は、始原にさかのぼらずとも、あるいは未来を想起せずとも、現代の色々の形をつぶさに見ずとも、既に存在しているか、存在の根拠として存在しているか、そういったものであろうと思いますが、それでは答えの周辺(諸々の問)がまるきり不必要になってしまうので、どうしたものかな、と思います。それならそれで、よいのであろうとも。 おおよそ、回答者様の推察していただいた事柄も、確かに質問内容にあるものであるのですが、希望といたしましては、ただ一層、つまり、回答者様の求めたところの真実性についてのご意見など賜れると幸甚にございます。究極的なところは非常に広いものであります。ですので、回答者様の直心によってご発言、ないしあえて答えぬと言ったことを為していただければと思います。 またご都合よいときにでもご来訪ください。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんにちは。 次のご文章に反応したものです。 ★★ (No.3お礼欄) ~~~~~~~~~~~ (α) 私達の使う言葉には特有の響きが存在していて、それは、空気や、地面、水中などを伝わって行く音波なのではなく、かといって、空間や時間にも属さない、非常にシンプルなある意味を内包しています。 (β) おそらく、その意味が、私達の言葉には欠かすことのできない、そしてそれがあるから私達は人間で居られるのではないかと、私などは考えています。 (γ) つまり、ある種の関係作りのための意味、つまり求愛や敵意、縄張り作り、仲間作りなどの表出と言うよりは、それ自体が意味のある、もっと存在の核心にあるような、言葉であるということです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このご質問に接してから わたしにとって答えは《分からない》だったのですが これを積極的に《なぞ / 無根拠》と言い替え 趣旨説明に記された言葉と合わせて捉えるようになりました。 ★★ (趣旨説明) (δ) 真実の言葉、真実の想い、真実のやさしさであるそれ ☆ 《やさしさ》という言葉がいちばんわたしにはピンと来るようだと思いました。少し色をつけて言えば 《志向性ないし意志》です。そこで ○ 《なぞの意志 / 意志のなぞ / 無根拠なる心 / 生きる無根拠》 ☆ これが《言葉以前のそれ》ではないかと。そしてちょっと異議をとなえるなら (γ)に《ある種の関係作りのための意味・・・と言うよりは》とありますが その《それ自体が意味のある、もっと存在の核心にあるような、言葉》そのものに――もしそれが《意志》だとすれば――《ほかの人との社会的な関係性》をも宿す。こうも思いました。 もともとアウグスティヌスにこの主題についての思索があることは知っていました。それを紹介するかたちをとります。 《いかなる国語にも属さない心のことば(verbum cordis)》です。 かれの場合は もしそれがあるとするなら 絶対者へと開かれた心の窓であるかも知れない。知れないのだけれども そのこころの言葉も いかに偶有的で可変的なものかを心得なければいけないと言っているようです。 ところが わたしが疑うとき 疑う対象やその内容についてのことばでは なく 疑いそのことについてのことばがある。疑っていることがどう展開す るか それとは別に わたしは わたしが今疑っているということを知っ ているというそのことについての言葉がある。 (cf.『三位一体論』15・23) それは ほんとうは疑うべきではないという隠れた思いであるかも知れない。 それは 疑って必ずや真実を明らかにしなければならないという義憤でありうる。 有限・可変的・可謬的ながら 真実のことばだと考えられる。 けれども このことばが いかに神のことばから遠いかを わたし は見なければならない。(同上15・15) 今わたしがこのように思惟していることも いかんせん 持続し得ないからだと思われる。 思惟の成果も 座右の銘になるのが精々である。 《疑いを持ったゆえ思考すること》と 《その疑いや思考をあたかもさらにその奥にあって見守りつつのように思惟すること》と いづれもある種のかたちで 《精神が旋回しつつ運動する》ようである。 だから 旋回する精神が 求める解を見つけ出したときには その解とは別にその解のあたかもほかに真実の言葉があって しかもこれは《日本語なら日本語に属するような音や声もなく》心に語られているかのようである。《疑うべきでないと分かってよかった》《義憤に間違いなかった》と。 もしそうだとしたら わたしはなおこの《親しき内密のことば(verbum verum intimum)》の窓をさらに 開かねばならない。 つまりまだそのことばは 窓であって 到達すべき言葉ではないのだと言っているようです。 これを積極的に 《なぞの意志》と言い替えるという寸法です。 * 美術史家の木村重信が 言葉よりも 視像のほうが 原生的で幅広いのだと言っているようです。 イメージはロゴスに従属するのではない。 ロゴスはイメージから抽象され、イメージの働きを基礎にして、象徴的な 思考が可能になり、その結果として哲学や科学などがうまれた。 このイメージないしその記号としての美術の本質は〔歴史的に変わって来 たが それは〕変貌であって、発展ではない。 進歩、退歩とか開化、未開とか言われるが、これはすべてのことをロゴス に翻訳して考える習慣が我々にしみついているからである。 (『木村重信著作集』第2)
お礼
少し問い立てを抜かったようです。 ご意見賜ったのに大変申し訳ございません。 また、ご縁ありましたらば、そのときはどうぞよろしくお願いいたします。 頂いたご意見は、その点に関してのご助言としていただきます。 どうもありがとうございました。 皆様へ。 ご足労頂いたのに、イマイチな感じですみません。また、ご縁がありましたらば、そのときは抜からないようにしたいと思います。 失礼いたします。
補足
ようこそ、bragelonneさん。 取り急ぎのお礼を、ひとまず補足欄にて行い、よく読んだ後は、お礼欄にてコメントをさせて頂きたく存じます。 芸術乃至文化が、変容であって進歩でなく、文明が進歩であってそれは段階的である。 ある人々は、至芸を目指すものですが、至芸とは、変容ならぬ跳躍と、進歩ならぬ安定とが一体になっているのかなとも思いました。 言葉は微々たるものではありますが、イマージュの大海に劣らぬ輝きを放っているのであるとも思います。 しかし、私達は正しく想い、正しく語ることによって、かの真実ないし真理に導き行くものであるでしょうか。 ご来訪誠に有難うございました。
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お礼
ご来訪有難うございます。 回答者様には、私と近い視座に立っていただいているように思いました。 真正面から向き合うことについては、自分自身も気をつけなければならないことかと思いました。 ご回答有難うございました。