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「がんを生きる」
「がんを生きる」 わざわざ 「を」 を使うことで、どのような効果を狙っているのでしょうか。 私は 「がんと生きる」 とする方が自然だと思いますし、意味も同じように聞こえます。 感覚的ではなく、「を」 のもつ文法的な観点からの説明を希望します。
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- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
ANo.2補足です。 まぁ宿命を、与えられた星を生きる、というのと同じ遣い方、意味ですね。歩くとか。 詩などや文学としては、そして思いを込めたものとしては許容できるかもしれませんが、狙った斬新性はもうなくなり、陳腐に為りそうですね(刺激的とか、元気をもらったとか、ふれあい広場みたいなのでしょうかね)。 自分は今癌はありませんが、我が馬鹿やぼんくらを生きる、っていうのと同じたぐい(類)でしょうか。
この表現がかなり使われているのを初めて知りました。文法的には勿論間違いですが,「がんを生き抜く」からの造語又は誤用ではないかと思います。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
わざわざかどうかは、質問者の受け取り方とその表現であると思料します。 純然たる文法としては、“がん”が目的語で、、、云々という品詞と活用形、構成となると存じます。 “がん”そして“生きる”ということの意味を持ち込んだ検討であれば、“がん”という病気の人生(自分)を生きる、ということでしょうか。 まさか、“がん”という病気自体やそのがん細胞である自分を生きるということではないことは誰しも当然に理解されています。 でもそういうことをかけて、“がん”の自分をいきぬいてやろうではないか。という意味だと存じます。自分の肉体、自分である“がん”を生きてやろうではないか、といっているのだと存じます。 真正面から、“がん”である自分を生きる。という積極性だと存じます。 “がん”は人間を離れてありません。“がん”は分離したものではないので、“がん”と生きるもいいのですが、こちらもうどちらかというと厳密には矛盾を含んでいますね。 だから、“がん”を生きるの方が意味が正しいという対照もできなくはありません。と存じます。 “がん”が人間でもないし、人生でもないでしょうが、その一部である“がん”を人生として生きるといういう意味として文法的にも自然だと存じます。 こういう説明は感覚的ですか?感覚的であれば、そのご指摘も期待しております。 ご参考までに。
- sanori
- ベストアンサー率48% (5664/11798)
こんばんは。 >>>感覚的ではなく、「を」 のもつ文法的な観点からの説明を希望します。 もともと感覚的なものが、後付けで文法になっています。 「‘を’は必ず他動詞とセット」としたいところですが、 以下のとおり例外(自動詞とセット)があるので、そうはできませんでした。 「道を歩く」「街を歩く人達」 「競技場を走る選手達」「列車は台地を走る」 「太平洋を行く旅」 「○○平野を流れる川」 これらからわかるとおり、 「がんを生きる」における「がん」というのは、 「がんというもののある私の道(人生)」 というイメージを凝縮して短く2文字にしたものなのです。 したがいまして、「がんを生きる」は、(書き言葉的ないしは文学的な)造語と思ってかまいません。 一応、辞書を示しておきます。 [3]および[4]を参照。 http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E3%82%92&dtype=0&stype=1&dname=0ss&pagenum=1&index=121158300000
お礼
「を」 の目的語は 「がん」 ではなく、「人生」 だったのですね。 「がん (になってはしまったけれども、それでも (私は) 積極的に人生) を生きる」 という強い前向きな決意が込められた文学的な表現であることが分かりました。 ありがとうございました。
お礼
「を」 の目的語は 「がん」 ではなく、「人生」 だったのですね。 「がん (になってはしまったけれども、それでも (私は) 積極的に人生) を生きる」 という強い前向きな決意が込められた文学的な表現であることが分かりました。 ありがとうございました。