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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:慈悲は 人間にとって行為しうる経験現実か?)

慈悲は人間にとって行為しうる経験現実か?

このQ&Aのポイント
  • 慈悲(じひ)とは、人々に平等の友情をもつことを指す。
  • 悲(ひ)とは、人間の苦しみに対する共感から生じる思いである。
  • 仏教では慈悲心を衆生縁、法縁、無縁の三縁に分けて説く。無縁の慈悲は仏にしかない心であるとされる。

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noname#135843
noname#135843
回答No.8

 こんばんは、勝ってながら「もののあはれ」から、こちらの方に移ってきました。Hidocchiです。  まず、余談ではございますが、この「慈悲」という言葉なのですが、当初は、釈尊の発せられた言葉と理解しておりました。ですが、スッタニパータを見ましても、“無慈悲”という言葉が見られるぐらいで、この「慈悲」ということばは見当たりませんでした(訳者は中村元氏です)。そこで、由来を調べていきますと、世親(vasubandhu)ぐらいからだと判明致しました。つまり、世親の「浄土論」に、曇鸞大師(どんらんだいし)が注釈をつけ、「浄土論註(じょうどろんちゅう)」を著し[参考1]、その中で、かような小悲(しょうひ)、中悲(ちゅうひ)、大悲(だいひ)と位置付けをしているようでございます[参考2]。 参考1 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E9%87%8F%E5%AF%BF%E7%B5%8C%E5%84%AA%E5%A9%86%E6%8F%90%E8%88%8E%E9%A1%98%E7%94%9F%E5%81%88%E8%A8%BB 参考2 http://www.hongwan.net/index.php/%E4%BB%8F%E5%BF%83%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E3%81%AF%E3%80%81%E5%A4%A7%E6%85%88%E6%82%B2%E3%81%93%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%82%8A  そこで、ご質問なのですが、3つに分けて愚見を述べてみたいと思います。 Question 【S 語】or【A 語】?  小悲:一般的には【S 語】と解します。ですが、例えば、アメリカの共和党(小さな政府;必然的に貧富の差が生じます)と民主党(大きな政府;民主社会主義的な面を持ち、貧富の差が小さくなります)、さらに英国の保守党と労働党も同じ関係にあろうと考えられます。つまり、国民に選ばれた為政者(A側かと察せらます)も、国民の意思(例えば、貧富の差の縮小・白人以外の他民族の意思の尊重)に沿った形で政策を進めるからでございます。  従いまして、基本的には【S 語】、しかし、【A 語】ともなりうると解しております。 中悲:契機・予定論的な要素も含んでいるかと考えられます。つまり、かような(“空”観思想に触れるという)偶然性のようなものがあると思うからでございます。一方、仏性を持った人が、他の人を教えることもあろうかと考えらます。従いまして、これも、原則は【S 語】と解しております。 大悲:相依・相待という関係(縁起)により、ひとがありうる ということかと愚生は解しております(上記 参考2からでございます)。これも偶然性も絡んではきますが、「それ(縁起・空)を理解できる人が存在する」 ということを鑑みますと、中悲と同じ結論になろうかと考えております。  ご参考になれば、幸いでございます。

bragelonne
質問者

補足

 ひどっちさん 今晩は。ご回答をありがとうございます。  ★ この「慈悲」という言葉なのですが、・・・由来を調べていきますと、世親(vasubandhu)ぐらいからだと判明致しました。  ☆ そうでしたか。《仏性》と同じような位置づけになるでしょうか。ブッダの直説ではないという点で。  整理します。  1. 『無量寿経』:浄土三部経の一つ。ブッダの直説ではない。  2. 『浄土論』:上の経典の世親による注釈書。  3. 『浄土論註』:世親注釈書の曇鸞による注釈書。  4. 『仏説無量寿経』:(1)の康僧鎧による漢訳書。法然や親鸞らはこれを読んだ。  5. 三縁(衆生縁・法縁・無縁)の慈悲:『涅槃経』に説かれる。  6. 小悲・中悲・大悲:このように三縁をそれぞれ位置づけたのは 『浄土論註』。  7. [参考2] 《仏心というは、大慈悲これなり》 ~~~~~~  衆生縁の慈悲(小悲)というのは、病などで苦しんでいる人に出会ったときに、助けたいと思う心、人情としての慈悲と言ってよいでしょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ スサノヲ人間語ですね たしかに。人情と言ってもよいようです。  8. [参考2] ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  法縁の慈悲(中悲)というのは、仏教に出遇ったところにはたらく慈悲です。諸行無常とわかりながら、どこまでも、執着を離れ得ない、そういう自分の身が明らかにされ、はずかしく思う心を起こさせるのが法縁の慈悲です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ スサノヲ人間語が 磨かれ始めるといった感じでしょうか。  9. [参考2] ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  対象のない慈悲が無縁の慈悲(大悲)です。  対象がないということはどういうことでしょうか。私たちは全てのことがらの出発点に自分があります。そして、私の存在こそが中心であると思っています。けれども私と思っているだけで、何の根拠もありません。仏教はそのことを「縁起(えんぎ)」と教え、「空(くう)」と教えています。  私はここに生きていると言いますが、実はあるものに依ってあるものがあるという相依相待(そうえそうたい)において、あり得ているだけであり、他には何もありません。生きているのではなくて、むしろ生かされているのです。  このように自己の存在を明らかにしてくれるはたらきが無縁の慈悲です。仏教における本当の慈悲とはこの無縁の慈悲のことです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ううーん。深いんですね。――ただ こうだとしますと もはやひとは何もしないといったことにもなるやに思われます。人とのまじわり(交通)におけるアマテラス人格語であるのかどうかが 問われませんか?  ▲ (ヰキぺ:成仏) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E4%BB%8F  さらに後期大乗仏教になると、・・・    《一切衆生は本来成仏している》  と考える思想(如来蔵・本覚)や、    《信によって本尊に加持することで煩悩に結縛された状態から、ただ    ちに涅槃に到達できる》  とする密教の即身成仏などの思想も生まれた。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これら《本覚思想》あるいは《即身成仏》――要するに 《〈われはブッダなり〉と誰もがそれぞれ宣言する》方向――と軌を一にすると言ってよいでしょうか? いかがでしょうか? そしてそのときの対人関係における実践はいかに? という問いをなお持つのですが?

その他の回答 (36)

noname#112269
noname#112269
回答No.6

世尊って呼びかけてるのは、無論、ロンヌさんのことだぜ。 ロンヌさん、修行しろ。 必ず仏になる。世尊なんやから、修行せなだめだぜ。 ほんまもんは、身につけて何ぼやさかい、修行せな。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ ほんまもんは、身につけて何ぼやさかい、修行せな。  ☆ 《修行せな》の部分に反応します。  やはり 《はからひ無きこと》をむねとしたいと考えます。ふたつ前で    《ひとは ブッダである。すでにブッダである》  というくらいの命題にしなくっちゃと言いましたが さらには     《わたしは ブッダである。すでにブッダである》  と宣言するところからすべてが始まるという言い方もよろしいかと思いました。  ▲ 〔親鸞:自然法爾(じねんほうに)章〕 ~~~~~~~~~~  自然といふは  自はおのづからといふ。行者のはからひにあらず。  然といふは しからしむといふことばなり。しからしむといふは行者のはからひにあらず 如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。       * 爾(に・じ):しかり。そうである。  ▼ (道元:現成公案) ~~~~~~~  自己を運びて万法を修証するを迷とす。  万法進みて自己を修証するは悟りなり。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  どぢゃ?  世尊ったぁ いったいなんやねん? どないやねん?

noname#112269
noname#112269
回答No.5

わかったよ、ロンヌさん、もう仏にも、世尊にも遠慮しないよ。 そのかわり、逃げんじゃないよ(^^) それは、な、おおきなこころだよ、かんぜんむけつのおおいなるおおみちが、そのこころだよ。 っこれがこたえ。 これがしこうのかいとう。 何もかもが分からない中で一切の世の中を見つくして怖気ない。 一切を見通して尚且つはてしないその心を心に護持し誤らない。 無上の安穏ニルヴァーナは心の真実なのであるから、誰にでも示現しうる最高境地である。 もう誰にも遠慮する必要はない。 せそんにも、既に覚り終えた世尊にも、誰がその人をとどめたり労したりあるいは蔑んだりしたとしても、よもや何の害もなさない。 そうであってこそのニルヴァーナ。 誰でも会得できるが、本気でそれを得ようと思う人は少ない。 だから何の心配も要らない、世尊。 何の心配も要らないのよ。 不器用だけど仕方ない、そんなもんだよ。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 無上の安穏ニルヴァーナは心の真実なのであるから、誰にでも示現しうる最高境地である。  ☆ ふうむ。  で この《ニルワ゛-ナ》は 経験現実なのかい? と阿呆のごとく何度でも問い返したくなるのは 意地がわるく汚いのかなぁ。  たとえば こういうふうに問うとよいかも知れない。  ○ ひとは 赤の他人に甘えることが出来るか? つまり裏返せば ひとは赤の他人から甘えられることを 自由にかつ何の条件をもつけずに 受け容れられるか?  ☆ もし《甘え》は ただの我がままなのだから 無条件にそれを受け容れられるものではないという答えが返ってくるとすれば 次の命題との兼ね合いは どうなるのか。  ★ 何もかもが分からない中で一切の世の中を見つくして怖気ない。 / 一切を見通して尚且つはてしないその心を心に護持し誤らない。  ☆ どうでしょう? 赤の他人が甘えて来たら 《そのように我がままで生きることは よくありません》と言ってさとすのか? それとも まづは全面的に相手を受け止め 存在じたいとしては受け容れるのか? そしてそのあと どうするのが 慈悲の実践であるのか?  なお 甘えとは 我がままのことですが――そしてその点 もののあはれも 同じく共有する部分があると言わなければならないのですが―― しかし 親子のごとく自然の心での一体感の中にあることでもあります。(もののあはれの場合も 自然の心での気持ちや思いに 人びと誰もに通じる普遍性があると考えられます。単純に言って 親子の情と両性の愛情とですが)。  自然児そして野生児とさえ言えるような心のあり方 この心の持ち主に対して ブッダは その慈悲心でどのように向き合うのか? どのように相手を受け容れるのか? 実践可能であるなら 言葉で説明していただけないでしょうか?

noname#112269
noname#112269
回答No.4

誰でも仏になれるよ。 bragelonneさんももちろんなれますよ。 ならないということがないように、人は仏になるものです。 そのときに、慈悲喜捨の真実は理解されることでしょう。 何の心配も要らないですよ(^^)

bragelonne
質問者

お礼

 さて あらためまして あかるい内容のご回答をいただきました。ありがとうございます。お早うございます。  《希望》の問題として捉えるということではないかと思います。  ところで この場合も これまでと同じように 二通りの受け取り方が生じると思います。希望には かたちあるものと ないものとがあるからです。  かたちのない希望とは けっきょく 非思考つまり信仰の問題に帰着します。  かたちのある希望でしたら 願いなり目的なりがはっきりした中身を持っている場合です。  すなわち   ▲ (三) 無縁〔の慈悲〕とは   慈悲心の自然(じねん)の働きをいうものであり、それは仏にしかない心であるという。  ☆ この《仏の哀愍の心であると言える》という稀なる心のはたらきは 人間にとって経験的なのか それとも非経験であるのか?  どうですか? つまり  ★ そのときに、慈悲喜捨の真実は理解されることでしょう。 / 何の心配も要らないですよ(^^)  ☆ という場合 《人は仏になるもの》ではあるものの やはり実践は無理であって 認識・理解が可能となるにとどまるということなのか? それとも 実践も伴なわれるということなのか?  ですから まづ てるてるさんにもの申したいことは このように希望の性格をきちんと決めて その上でのぞみを持ち続けましょうというのであればそのぶんとして分かりますが そうでない場合には むしろそんな期待を抱かせてはいけないと考えます。それは そんな期待を持たせつづけていては それこそ慈悲のこころに背くのではないでしょうか?  子供だましに過ぎなくなるのではないですか?  あいまいな内に今のままともかく生きて行け――こう言っているに過ぎないように思います。  いっそのこと 《ひとはブッダである。すでにブッダである》 このくらいは言ってもらわなくっちゃなりません。これなら 期待に期待をつなぐというのでなく ポーンとなぞをぶつけているぶん 真実の鐘を撞いていると言えるかも知れません。どうかなぁ? ちゃうかなぁ?

noname#112847
noname#112847
回答No.3

慈悲という言葉には大変に重いものを感じます。 そこが始まりであり、出口でもあるように思います。 人間としての行為なのかどうか・・・といった点ですが それは同時に、人間とは何かという問いにも聞こえてきます。 私には、慈悲というものが ただ許容するだけの、受け止めるだけのもののように感じます。 自らが発した、そのような心さえ、自分のものではないような感触をもっています。 そして他の心と争う事なく、満たされてゆくものを感じます。 慈悲の重さこそが自分を支えている、と言っても過言ではありません。 慈悲はいただくものです。 私が発するものではない。 客観的には人間の行為であるにしても、主観的には人間のものではないと思います。 空海の言葉に 加とは如来の大悲をいう 持とは衆生の信心をいう この言葉に尽きていると思われます。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。補足欄にてお応えします。

bragelonne
質問者

補足

 ご回答をありがとうございます。  そうですね。一気に核心に迫りたいと思いますが:  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  慈悲はいただくものです。  私が発するものではない。  客観的には人間の行為であるにしても、主観的には人間のものではないと思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このように明らかなかたちで答えを述べていただいたのですが もしわたしの解釈に無理がないとすれば――直前のご回答へのお応えのごとく――やはり二通りの受け取りができると思うのです。  《主観的には人間のものではない》その《慈悲は いただくものです》と言われるなら (1) ほかの人間にこの慈悲を実践する人がいて その人の行為を受け取って《慈悲をいただく》ということなのでしょうか? それとも(2) いや 慈悲を実践する人は誰もいないのだ。わたしの言葉で言う《非思考ないし非経験》のかなたから――道元ではありませんが いえ 道元の言うとおりでもいいわけですが―― 人間であるわたしにやってくると 主観の範囲内で 受け止めるものなのだということなのでしょうか?  つまり (2)は きっちりと《信仰》の問題としてあるという立ち場ですし (1)は あくまで経験世界における事象であると言っています。すなわちこちらは 仏に成った人間が実践しうるものであり それを人びとは受け止めるかたちで慈悲が 経験的な現実であると言っています。次のご説明を聞けば (1)のほうの解釈に傾きますが それでよろしいでしょうか?  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  空海の言葉に  加とは如来の大悲をいう  持とは衆生の信心をいう  この言葉に尽きていると思われます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ただ問題は残ります。如来ないし仏は じんるいの歴史において 実際に存在したのでしょうか? 何人いたのでしょうか? それをどのようにわたしたちは あぁなるほどそれは 如来であり そのおこないは 慈悲であるわいと受け止めればよいのでしょう?  こういうことでしょうか? すなわち一般の人間は 慈悲を実践することは出来ないが その実践を受け取ったとき あぁ これは慈悲の行為であるぢゃないか ありがたいと言って認識することができる。というものなのでしょうか? つまり 実践はできないが 認識はできる。それが 慈悲である。こういうことでよろしいでしょうか?  でも ですね。ううーん どうなんでしょう? いま現代人の中で実践している人つまり如来は いるのでしょうか? どうでしょうか? もし生きている人にはいないとしたら 歴史の中でどういふうに記録ないし口伝されているのでしょうか?  つまり奥歯に物が挟かったような言い方を止めますが 慈悲はいったいどういう現実なのでしょうか? 認識だけでもいいですから おしえて欲しいと願います。願いつづけて来ました。よろしくどうぞ!

noname#112269
noname#112269
回答No.2

いつかはわかりますよ。 それが今日なのか、明日なのかあさってなのか、またはずっと未来の事なのか、それは分からないですが、気にするようなことじゃないですよ。 いつかは解かりますよ。 人を蔑すむのは、よくないですよ。 無能でも良いんです。心が真っ直ぐだったら。 無力でも問題ないですよ。力は要らないから。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。補足欄にてお応えします。

bragelonne
質問者

補足

 ご回答をありがとうございます。  いやぁ それならいいのです。了解します。分かりました。  というのも それなら・つまり  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  いつかはわかりますよ。  それが今日なのか、明日なのかあさってなのか、またはずっと未来の事なのか、それは分からないですが、気にするようなことじゃないですよ。  いつかは解かりますよ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ こうならば 解釈が定まります。解釈は二つにひとつです。  ひとつは すなおに読めば この《慈悲》にしても《仏性》にしてもあるいはブッダのおしえのすべてについてにしても けっきょく経験科学であるという意味内容になります。  つまり いま現在は 《未知》だというものです。つまりブッダは 物理の理論などと同じように 仮説しておいたという意味です。  でもたぶん この解釈では 味気ないでしょう。  とすると 字面からは離れるけれど もうひとつの解釈もできると考えられます。  それは 《未知》なのではなく・だから経験科学や経験思考なのではなく そもそも元から 非経験のことがらであり 非思考の問題だったというものです。  早い話が 非思考つまり《信じる》ことだという意味です。  だったら早く言えばいいのです。  無神論だが 信じるという人間の非思考としての現実なのだ。――こう説明していれば 文句はありません。その集団組織としての宗教化は いただけませんが(これは わたしの持論です) 個人にとっての信仰としてなら 良心・信教の自由にもとづくまったくの表現の自由としての行為です。  要するに 《なぞ》を抱いているということ。これをきちんと前提としまた自覚しつつ しかもこのなぞを今度は経験思考において 仮りのではありながらも 説明をほどこしてすすむということ。  これなら まったく問題ないでしょうし 納得です。  でも 果たして そういうふうに説明したひとがいるでしょうか?  そういう説明のかけらもしていない・出来ていないというのであれば  ☆☆ 無能で無力である。  ☆ とはっきり言ってやることで初めて目覚める――つまり ブッダになる――ことでしょう。  ただし 《慈悲》について さらに詳しい説明が要求されることでしょう。  人間に出来るかどうか分からないということは どういうことか?  慈悲は ただの理念であって 指を口にくわえてただ眺めているだけのそれなのか?  いやいや 慈悲を実践したという歴史的事実がありますよとなるのか?  はてさて?

noname#112269
noname#112269
回答No.1

わからん。仏の世界の事は。 仏になったらわかるよ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとう。  だからブディズムはだめなんぢゃないですか?  二千何百年経っても 分からんじまいではないですか?  いったい何をブッダは言ったのか?  いったい何を人びとは伝え聞いて来たのか?  いったい何を多くの人間が時間をついやして学び修行して来ているのか?  ★ 仏になったらわかるよ。  ☆ 大人になったら分かるよ方式だね。無力無能を自認したという意味にとってよいのだろうか?  こうなりゃあ ブディストに対しては 端からさげすんでやって初めて人間扱いになるといった情況だと 認識をあらためなくてはならぬ。ちゃうか?

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