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かつて大阪府池田市はボタン鍋が名物だったのでしょうか。
「池田の猪買い」という落語があります。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E3%81%AE%E7%8C%AA%E8%B2%B7%E3%81%84 現在、大阪府池田市は、20世紀初頭の阪急電鉄宝塚線開通後宅地化が進み、猪も出なくなった。 それでも山間部の伏尾温泉や隣接する兵庫県川西市、同じく宝塚市の武田尾温泉では猪の肉を用いたボタン鍋が食べられる。 と説明がありますが かつて大阪府池田市はボタン鍋が名物だったのでしょうか。 それとも狩猟が有名だった?
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国土の73%が山地の日本です。 日本のイノシシしの北限は阿武隈山系から宮城県丸森辺り、 南限は九州、沖縄方面にも亜種が棲息します。 最近は北上しつつあるようです。一方で、30年ほど前まで 青森県でもイノシシ狩りをしたという話もあります。 日本中どこにもいたということです。 イノシシ狩りに山中にも入りましたが、イノシシは里山周辺 (人の住む所と山の境一帯)にも姿を現します。 昔は食料が豊かでなかったのでイノシシは恰好の蛋白源でした。 獣肉食禁止の時代も薬食いと称して食べたわけです。 従ってどこにも猪鍋(ししなべ)はありますが、人の往来が多く都会に 近いところが名物として知られるようになってきたのでしょう。 元来しし鍋で、薄い肉を皿にうまく並べて牡丹の花に見立てたのが ぼたん鍋の由来のようですが、呼称の発祥は分かりません。 池田は六甲・宝塚・川西池田・箕面・高槻とつづく丘陵の縁、 まさに里と山地のせめぎ合いの位置です。 月山の伊居太(いけだ)神社の付近では縄文式土器と一緒に石鍬も 発見されており、五月山周辺で狩猟が行われていたのでしょう。 弥生時代にはすでに大集落だったと推定されています。 山間いを北へ向かえば徐々に谷が狭まり能勢街道へと入ります。 大坂から舞鶴・宮津、但馬・山陰への街道でした。 古くから現代に至るまで人々の集散や旅人が多く、池田の牡丹鍋が 名を成してきたのだと考えます。 名物も都市開発と共に段々奥地に交代しているのです。 いまや能勢方面も宅地開発で開けてしまいましたが、かつて(既に20年超昔) は能勢街道を車で行くと、両側の店先や農家の道路脇に猪の皮が並べて 干してあったものです。皮のカーテンの間を行く如しです。 その界隈の宿で牡丹鍋を食すと食べ終わったあとの皿に仁丹粒が数粒、 散弾銃の鉛弾でした。宿の親父さんがしとめたイノシシだそうです。
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ほい。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BC%E3%81%9F%E3%82%93%E9%8D%8B 基本的に「猪鍋(ぼたん鍋)」は丹波の名物でして、池田・川西は 大坂(敢えて古い書式で)から見て「丹波の入口」だったので、 そういう話が出来たと思います。
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回答ありがとうございます。 そういうことですか。 かつて丹波でぼたん鍋を食べたことを懐かしく思い出します。 豚肉よりずっと美味しい、と思いました。
お礼
回答ありがとうございます。 そうですね、猪はどこにでもいるのでしょうね。 私も奈良公園や能勢の妙見山で見たことがあります。 薬食いという言葉は始めて聞きました。 勉強になりましたです。 伊居太神社には行ったことがあります。 以前豊中に住んでいたころ、近くだったので自転車に乗っていきました。 そこで縄文式土器や石鍬が発見されていたのですか。 古くから開けた土地だったのですね。 あの付近はどうも渡来人の秦氏が本拠地としていたと思われるふしがありますが 秦氏が住みつく前より開けたところだったのですね。 街道筋にあることとぼたん鍋との考察もおもしろいですね。 20年前の能勢街道には猪の皮が干してあった! 食べ終わった皿に鉛弾! 読んでてワクワクしました。