- ベストアンサー
関ヶ原でなぜ西軍の総大将は豊臣秀頼でないのか?
なぜ関ヶ原での西軍の総大将は豊臣秀頼でなくて石田光成なのでしょうか? 嫌われ者の光成でなく、秀頼が総大将だったらまた違ったのでしょうか?解説どうか、よろしくお願い致します。
- みんなの回答 (7)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
上杉征伐は豊臣家の許可の下の行動です。 武断派に襲撃され奉行職を辞職した三成と、密約して挙兵した上杉。 真田昌幸も、何で挙兵する前に通知しなかったのか? と返事に記載したそうです。 まあ、5大老の殆どが三成に付いたのですが、 小早川の裏切り、毛利も裏切ったと断言すると関が原で奮戦したのは 宇喜多秀家だけになります。 秀頼が総大将だったら逆賊は家康ですので総崩れでしょう。 実際には、互いに豊臣家の為を自称していますので たかだか小競り合い。互いに戦力と兵糧を減らすだけ。 どちらが勝っても上手く利用出来る。 と安易に思ったに違いありません。
その他の回答 (6)
- oska
- ベストアンサー率48% (4105/8467)
- isaa535
- ベストアンサー率56% (31/55)
東軍と西軍共に豊臣家の家臣であり関ヶ原の戦いは家臣同士の戦いです。 東軍の多くは豊臣家から許可を受けた豊臣家に対する謀反の上杉家 を征伐するための討伐軍でした。 その討伐軍の大将であった家康を豊臣家から排除しようと旗上げしたのが西軍です。 西軍には上杉討伐軍から加入した武将もいました。 豊臣家としては家康排除の軍を起こす気も許可、命令もしていませんので秀頼は西軍の総大将にはなりません。
- indians
- ベストアンサー率48% (12/25)
関ヶ原の戦の時点では両軍とも「秀頼様のため」と称して戦いました。質問者様のように、関ヶ原の戦を豊臣家と徳川家の戦いと考えてしまうのは、後に徳川家康が豊臣家に牙を剥き、これを滅ぼした事実を知っているからで、関ヶ原の戦の時点では徳川家康も内心はどうあれ世間的には「豊臣家の家老」にすぎません。
- nazalko
- ベストアンサー率57% (11/19)
まず、西軍の総大将は石田三成ではなく、毛利輝元です。 秀頼でない理由は他の方が説明差れている通り、 関ヶ原の戦いの名目が「豊臣政権における主導権争い」だからです。 そして、石田三成が総大将でない理由として、家康との地位の差があります。 家康は五大老の1人で、その五大老というものが家康の権力を抑えるために家康と他4人の有力武将をあえて重要な役職につかせることによって、 家康と同等の権力者を作り、家康だけに権力をもたせないために作られたものです。 この中に石田三成は含まれていません。 そこで、家康と対立するにあたり、家康と同等の地位にいる、五大老の1人、毛利輝元を総大将としました。 (まあ、結局は五大老の地位なんて関係なくなりましたが)
- trajaa
- ベストアンサー率22% (2662/11921)
ん? 西軍の総大将は毛利輝元だったように記憶しているが・・・・ ま、名目のことで実質的には石田さんが仕切っていたのだが・・・
- tiltilmitil
- ベストアンサー率22% (1871/8250)
秀頼1953年生まれ、関ヶ原の戦い1600年。7歳児に総大将やらせるわけにいかないでしょう。 それに、この段階では双方ともに「秀頼のため」を名目にした、グループ内でのトップ争いですから。