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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:どちらかというと哲学的な話かと、思いますが、よく人々は相手を評価して「)

人間の生き方についての哲学的な見解

このQ&Aのポイント
  • 人々は相手を評価する際に、志向性を持って生きているかどうかに注目することがあります。
  • ただ生きるだけではなく、自身の進化や成長を追求することが重要であると考える人もいます。
  • また、虚栄心がひたむきさよりも目立つこともありますが、個々の視点によって捉え方は異なるでしょう。

質問者が選んだベストアンサー

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  • nikosan77
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回答No.1

哲学にあまり詳しくはないので良く分かりませんが 世の中には大勢の人がいて、いろんな考えの人がいます。 だから、どんな考えを持っていても相手の事を評価する権利は 誰にもないと思うのです。人の事を評価している人間というのは自分自身にいっぱいいっぱいで自分の立ち位置を見定めないと安心出来ないと言う気持ちが働いているのでしょう。 話が逸れますが自分は昔、生かされている事が素晴らしい事で、足る事を知るという言葉がありますが、何事もその様に考えているようにと心がけていました。でも、病気になって 健康でなくなった時、自分はこのままでいいのかと思うようになりました。それは、毎日何事もなく生きられる事にはとても感謝している、 健康が幸せで何気ない日々が尊いものだと分かっているのですが、 そうであるならば、自分がこの世で何が出来るかを考えるようになり、 自分が今出来る最高の事をしたいと思うようになりました。 足る事を知るのであれば、自分の限界まで 出来ることをやりたいと思うようになったのです。 それが向上心とか、志向性を持ってひたむきに生きるにつながるかは 分かりませんが、どうせ生かされているのならこの命が続くまで ひたむきに頑張ろうと思うようになりました。 でもこの世で一番難しいのって実は健康で毎日何事もなく 過ごせる事だと思うんですよね、それって実は一番難しく尊いものだと思うんですよ、おそらく病気や飢餓に無縁の人には分からないかもしれませんが・・ 前向きに頑張っている人は良いと思いますが、他人に 強要は出来ません、誰も相手の生き方に対してとやかく言う必要はないと思います。それに他人に言われる前に本人が一番自覚している場合が多いです、ただその時期だったりタイミングが違ったりきっかけが違うだけで。難しいですね。ただどうせ生きるなら今よりもっと強くなりたいとか進歩したいとかそういった気持ちからひたむきに頑張るという言葉が出てくるのかもしれませんね。

kaoma
質問者

お礼

返信遅くなって、済みません。 貴重な経験談、何度も読み返しました。 人生はやはり、方法論では対処しきれるものではないのですね。 さまざまな経験から得た真摯な思考のみが、自分自身の答えに導いてくれるのでしょうね。 私が、問うたことも、実は答えがないような気がしてきました。 貴重なご意見ありがとうごさいました。

その他の回答 (2)

  • jinseiwalk
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回答No.3

「私は後戻りはしない、前向きに生きて、今より上をめざすのよ。」と言ってる人を虚栄心の塊と見ることについてですが、それも一つの見方ですし、ただその場の雰囲気で言っている場合もあります。どちらも大したものではないです。 ではどういう時にそのような言葉を言うとそれは失恋した時が多いですね。失恋した時は虚栄でもはらないと挫折しますから。 ところで、普段から言い続けているのでしたらそれはそれでまた問題ですね。変な新興宗教にかぶれていなければ良いのですが。

kaoma
質問者

お礼

ご意見ありがとうございます。 ご返事、遅くなって済みません。 失恋のときに多い、と言うところを興味深く感じました。 失恋というのは、掛け値なしの自分の存在価値を、消失体験するからでしょか? 私も失恋は、多分何回か経験してるとは思いますが、そうですね虚栄もそれとなく 自分に言い聞かせて利用しているのかもしれませんね。 貴重なご意見ありがとうございました。

  • mizukiyuli
  • ベストアンサー率34% (1106/3224)
回答No.2

専門家ではないですが。 「ただ生きてるだけ」と言われるのは大抵人生を楽しんでいない人です。 その言葉に反論できないことこそが問題です。 この言葉に反論できない人の多くが「自分の人生はつまらない、自分は生きながら死んでいる」と感じています。 要は、「私は頑張って日々を生き抜いている」と思うことができれば良いわけです。 目的もなくただ惰性で生きていることを良しとするならばそれもまた人生でしょう。 「惰性で生きるのが私のライフワーク」とでも主張すればいいのです。 それを言えないのは惰性で生きている自分に不満がありながらも、そこから抜け出す努力をせずただ日常に不満を募らせているだけだからです。 例えば出世することだけが向上心ではありません。 何か趣味に打ち込んでいる人にたいして「生きてるだけじゃん」と言う人はいません。 それは、彼らがとても楽しそうに人生を生きているからです。 死ぬ時に「ああ、私の人生何もなかった。本当につまらない一生だった」と思ってしまうことが人生、すなわち自分を産み育ててくれた両親への冒涜になるのではないでしょうか? 「惰性で生きた私の人生万歳」と思いながら死ぬならば、それはそれでその人の立派な生き様です。

kaoma
質問者

お礼

ご返事遅れてすみませんでした。 率直なご意見ありがとうございます。 確かにおっしゃる通り、向上心は私たちが人生を送っていく上での、最も原動力となる宿命的エネルギーの様なものだと思えます。 これは引用ですが、人間は未完成な自分を完成させようと果てしなく向上心を燃やす。しかし永遠に完結することはない。 人生の意味は結果ではなく、その過程にあるというのは、それを意味して言うのでしょうか? いずれにしても、貴重なご意見ありがとうございました。