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人間が変わる
- 人間(現実)が変わる。
- 空想でも何がしかの哲学的意義があると判断されたなら ご見解をお聞かせ下さい。
- 突然変異によってかどのようにしてか分かりませんが 人間(現実)が変わる のではないか? どうでしょう?
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No.2です。また脱線です。お許しを。 (1)勿論、このポストモダンについては 私の観かたです。ゲーデルがいかなる論理も その論理のなかにその論理では証明できない命題があることを証明したのです。とくに公理が証明できない ことは決定的な証明であったと思います。もっとも 後になって厳密に研究しますと 一階の述語論理までということが分かりましたが 通常の述語の範囲は 含まれるのです。この証明は不完全性定理として ホモサピエンスの知の金字塔と思います。当時は 論理的には 如何なる論理も 正しさを 主張できなく 哲学界では 大騒ぎになったと思います。では 論理とは何か ですが 証明できない公理を用いて演繹的に論理的構造体系を構築していくもの となります。しかし 公理が証明できない その構造体系は意味がないかというと 逆に多いに意味があるということが分かってきたのです。大成功なのは数学であります。それ以前からユークリッド幾何学とは別に非ユークリッド幾何学は知られていましたが もっと大きく捉えると 公理が変ればいくらでも 別の数学が生まれる ことを保証したのです。あるいは 論理知の限界をしめした とも言えると思います。公理は定義から始まります。個人個人が夫々 公理を立てると それに応じて論理系が誕生するというわけです。過去の名声を冠した哲学、あるいは数学、あるいは 論理学 のみが正しいという 主張は否定され 10人10色の論理学が成り立つということが保証されたのです。これが狭義のポストモダンと思います。 (2)もっと進めて 論理演算より 重要なことは 公理を打ち立てる ことである として その公理からの演算系が人の役にたつことを証明せよと と言ったのは ヴィトゲンシュタインと思います。各自 仮説をたてその役立つことを証明するのが人生ではないか と。これが広義のポストモダンと思います。 (3)さて フーコーですが ご指摘のように現状の権力が行使される様を 分析していきます。モダンに入ってからは 権力行使側が巧妙な手段をとり 行使される側には不可視な状態で細部にわたり 権力行使がされます。それを フーコーは明らかにしていきます。例えば 重力は不可視ですが 例外なく 全ての質量に作用します。それをニュートンは明らかにした ように フーコーは いたるところに張り巡らされた権力を分析するのです。だが しかし フーコーは このような分析が目的ではないのです。フーコーは 個人個人は独立自由であって お互いに尊敬される ホモサピエン社会構築を目的としているのです。分析手段として ホモサピエンスは社会の細部にわたり 権力を行使する動物である と仮説をたて 仮説を検証します。常に この分析を行うことにより権力構造がいかなるものか 各個人が知るところ となり 今の現実の立場は 独立自由で尊敬されている ところからは かけ離れていることを知るということなのです。ここから 目的を達成する手段を得ようというシナリオを得るのです。たとえば 個人の生活を保証する福祉国家もまた 形が違う(警察強権国家とは違う)権力行使とみるのです。なんであれ権力によって行使されることは 個人個人が自由独立かつ尊敬される ことにはならない とみるわけです。広義のポストモダンを走った人と思います。 ご指摘のように ホモサピエンスは権力をもつもの として フーコーは考えていた と思います。だからこそ 目的達成のためには その分析明示が重要ではないか と考えた のです。 (4)各個人の主張(行動もふくめ)を出しつくしつつ 各個人の自由独立があって かつ尊敬される という意識が生まれれば 前史は終了する という ご指摘は そうだ と思います。だが しかし 過去、現状から そのような多数派が生まれることは 難しい と思います。ご指摘のように フーコーのホモサピエンの業のような権力というモノもあるのです。あるいは 責任の伴う自由は 嫌だという 人もいるのです。 以上 失礼しました。
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- 阿加井 凛悟(@neutral)
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ぶらじゅろんぬさん、こんにちわ。 無駄に謝られて困惑することの多い宙ぶらりんです。 声が出たいのでつぶやきますがズレてるかもです。 200年ぐらい前、ヘーゲルって人が、 自由になるための3つの条件、というのを書いていて、 ◇「自由な意志によって結合された家庭」 ◇「自分の意志による職業選択」 ◇「国家の一員となること」 (何族、どこそこの誰それ、という小さな区分がなくなる(?)、 社会的に承認される(?)) なのだそうですが、この自由の目標(?)は、 たぶん前世紀の後半ぐらいでだいたい終わっていて。 親の選んだ相手と結婚とか、他の目的があって結婚とか、 貴族の子は貴族とか商人の子は商人とか農民の子は・・・とか、 あまり聞かないですし(例外の方すみません)、 何々村の支配者の奴隷でもないですし、 自由!と言われてもピンと来ない、ということに最近気付き。 どこ行ったんだろ、自由・・・と思ってみたりして。 それにこれまた前世紀のいつごろか知りませんが、 遅くともわたしが生まれたときには、すでに 資本主義とかいうのもだいたい完成してて、 価値価値交換とか分業なんかもうまく行ったみたいだし、 わたしが若いころ、ちょうど 「生産増大↑ノリノリイケイケ↑万歳\(^o^)/」状態で、 消費もずいぶん自由にできるようになっていて、 資本主義と言われても、あまりありがたみがなく。 けど自由のために必要不可欠なんだろうなあとは思い。 たぶん最初の目的は、自由\(^o^)/で、 みんな豊かになってみんな余裕ができて万歳、 ということだったと思うんですが、 で、どうぞご自由に競争してください、 ということだったと思うんですが、 今、みんな豊かになってみんな余裕ができて万歳、 というわけでもないよなあ・・・という気もして。 むしろますます仕事の奴隷になっているような気も。 競争に夢中で。勝ちとか負けとか言って。 それ、目的なんですかってときどき思ったりして。 お金持ってる方がいろいろ道具を使えて競争に有利だし、 負けないように必死なのかなあとか思ったり、 けど負けたら絶望なのかなあとか思ったり。 今は何でもかんでも商品にできちゃうらしい。 だから人が求めるものも多様化して・・・ というような気もするけど、 実は似たようなものを求めるようになったんぢゃ? とも思ったりして。 で、その、多くの人が求める、似たようなもの、ってのが、 競争に少しでも勝つこと、だったりして。 「競争」とか「敵・味方の概念」とか「勝ち・負けの概念」 なんかが一人で勝手に歩いてるような。 けどそれ、たしかに分かりやすい承認欲望で、 その承認欲望をとりあえず満たせる道具かも、と思ったり。 他に道具はないのか?とも思ったり。 時代が変わったから教育も変わったかっていうと、 今どきの小学校でも未だに「勝ち・負け」とか 「敵・味方」とか「味方同士団結!」とか教え込んでて。 わたしは、そればっか教えすぎないでね、とか、 教えるべきかもしれないけど何か抜けてない?とか思って。 まとまらないまんま娘の担任とあーだこーだとしゃべり。 「無意識(?)」とも言うのだそうですが (あるいは刷り込み(?)、歪んだ思い込み(?))、 人間、子どものころ、親をはじめ周りの大人から影響を受けて、 教わったことを覚えて「自分のルール」を作っていきます。 何が快適とか何が良いとか何が正しいとか何をするべきとか。 学校で教わることも、その「自分のルール」の材料かな。 で、これはここ数十年のことだと思うんですが、 プライバシーうんぬんとかで「家庭」がうんと閉鎖的になって、 自分が作った「自分のルール」を開陳し合うことも減って、 「それ、おかしいんぢゃね?」とか言われることも減って、 学校では「けんかをしないで仲良く!」と言われて 「けんか」は無かったことにされ、 なかなか、その、「自分のルール」が 本当に自分の自由につながるのか考える機会もなく。 そのまんま大人になっちゃったりして。 けど、大人になってからでも、「ん?」と思った人は、 子どものころに何となく作っちゃった 「自分のルール」の部品たちをひとつずつ点検して、 要らなさそうなものを捨てて、 足りなさそうなものを補給して、 とかしたらいいんぢゃないかなあとか思いました。 能天気すぎかもですが。 うわ、なんか愚痴だらけになっちまいました。 読んでくれてどうもです。
お礼
にゅうとらるさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 直前のおうけいさんへのお応えを終えてわれながら(つまり自信があったのに)ちょいと休みたい気になっています。 ひとつただちに思い出した文章があったので 掲げます。 ★ ~~~~~~ 200年ぐらい前、ヘーゲルって人が、 自由になるための3つの条件、というのを書いていて、 ◇「自由な意志によって結合された家庭」 ◇「自分の意志による職業選択」 ◇「国家の一員となること」 ~~~~~~~~ ☆ この《国家》をめぐってです。 国家という二階建ての構造は 社会という人びとの生活共同のために・その共同性の自覚や幅の広い普遍的な確立のために いちどは必要だったのだとも考えられます。(必要悪だという議論も よく聞きました)。道がつながれ鉄道が敷かれることは 人びとの夢だったのかも知れません。自由のイメージにもつながります。 ◆ (マルクス:ヘーゲル国法論批判) ~~~~ (α) へーゲルは国家から出発して人間を主体化された国家たらしめるが 民主制は人間から出発して国家を客体化された人間たらしめる。 (β) 宗教が人間を創るのではなく 人間が宗教を創るのであったように 体制が国民を創るのではなく 国民が体制を創るのである。 民主制と他のすべての国家形態との間柄は キリスト教と他のすべての宗教との間柄のようなものである。 キリスト教は勝義の宗教 宗教の本質であり 神化された人間が一つの特殊な宗教としてあるあり方である。 同様に 民主制はあらゆる国家体制の本質であり 社会化された人間が一つの特殊な国家体制としてあるあり方であり それと他の国家体制との間柄は 類とそれのもろもろの種との間柄のようなものである。 ただしかし 民主制においては類がそれ自身 実存するものとして現われる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ (β)以下は 組織宗教と個人の信仰とを混ぜこぜにしていると考えます。 (α)は 国家の時代が 前向きに隆盛になる段階とやがて後ろ向きに揚棄されていく段階とを見ようとしていると考えます。 ★ ~~~~ 自由!と言われてもピンと来ない、ということに最近気付き。 どこ行ったんだろ、自由・・・と思ってみたりして。 ~~~~~~ ☆ 豊かに成りたいというのは 確かに自由に成りたかったのだと思われます。ところが 一定の水準においてゆたかになると 自由はどうなったのか? たしかにそう思われます。 ぎゃくに そのときの努力をしているという状態が慣性の法則のままに残っているような。 ★ ~~~~~ 「競争」とか「敵・味方の概念」とか「勝ち・負けの概念」 なんかが一人で勝手に歩いてるような。 けどそれ、たしかに分かりやすい承認欲望で、 その承認欲望をとりあえず満たせる道具かも、と思ったり。 他に道具はないのか?とも思ったり。 ~~~~~~~~ ☆ なるほど。《承認欲望》として持っていたということであれば その《坂道をのぼって来た努力の過程》は 手放すわけには行かないのかも知れません。血と汗との証しであり それとしてみれば《わたし》そのものであるのかも分かりません。 でも《道具》であるのでしょうし。自由な社会における自由な生活を願ったはずでしょうし。 ただしそのことともからんで 《自分のルール》があったはずだということのようですね。 ★ ~~~~~~ けど、大人になってからでも、「ん?」と思った人は、 子どものころに何となく作っちゃった 「自分のルール」の部品たちをひとつずつ点検して、 要らなさそうなものを捨てて、 足りなさそうなものを補給して、 とかしたらいいんぢゃないかなあとか思いました。 ~~~~~~~~ ☆ ここから現代日本における自分としての《前史》を点検することが出来ると。じんるいとしての前史について考えるのは それからでも遅くはない。うんぬんでしょうか。
- ok9608
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感想です。 一つは 全てのホモサピエンスが相互自由独立でかつ交通(交流)ができる(反対意見もふくめ)なら 新しい歴史が始まるとしてもいいと思います。ご指摘の通りと思います。 他は相互自由独立であるが、交通は必ずしも必要ないと思います。ただ交通がない部分どうし殺し合いはあってはならないと思います。これも新しい歴史かも と思います。 ホモサピエンスの歴史は 種の保存については 数万年前までは ネアンデルタールとか他種もあって 他動物と同様の多様な種の展開をして 人類種の保存をはかっていたとも見られましたが 他種を 結果的に全て絶滅させてきたのです。そして一種になり、なってからは内部抗争よろしく、小さな表面的差(皮膚の色など)とか、人為的な国とか、思想とか、とにかく差を見つけ 排除か さもなければ征服を繰り返しているように思われます。各個人間も相互理解も多少進行しましたが 不信感、も増大しているように思われます。何かの差がある場合は排除か あるいは征服(支配)するのです。しかし そこまでを ホモサピエンスの前史として区切るのです。 これからは 各個人が独立自由に振舞え かつ 交通がある という新しい状態を創ります。 究極の多様化の種の展開と捉えていいのかもしれません。どんな他人(交通のない場合も)とも共存(殺さない)するという寛容の姿勢がキーポイントになると思います。他動物は種の多様化をDNAの差(ハードの差)で成し遂げます。環境が変ったとき、今まで主流であったモノが適応できなく 少数異端的なモノが適応して全体としての種の保存がされるのです。 がホモサピエンスは 主にはDNAが固定され 思想というソフトウェアーの差で多様化を成すのです。もちろん NDA突然変異派も受け入れるのです。宗教もソフトウェアーであり 宗教団体は 解体して 個人の信じる形になっているのです。ポストモダンの究極の形と考えてもいいし 後史に対応させて後期ポストモダンとしてもよい と思います。そのような状態は 究極の個人を相互に認め、かつ 環境変化にも対応できる ベター社会と見做される と思います。 しかし結局、環境が ガラリと変った場面では ソフトウェハー派ではなく 他の動物と同様 ホモサピエンスDNAの変位が 多少ある少数異端的なモノが 生き延びるかもしれませんが。という考えを捨て切れません。 しかし 現実 大きな問題は どのようにして 前史を終わらせる かでしょう。国家、各種の格差、障害者問題、食糧、などなど 問題山積でしょう。私に出来ることは ポストモダンの理解者を増やす努力であるとか 個人の延命(ホモサピエンスの延命に少しは繋がる)に少しは役立つ仕事をしたい と思っているぐらいです。この哲学カテ内の諸氏の発言をみますと 寛容な姿勢で対応する方もおられますが そうではない方もおられると思います。とにかく前史を進んでいるという印象です。 という現状からは 前史を終わらせるのは 大変とおもいます。 以上、大変失礼しました。
お礼
取り急ぎお礼をしたためます。 いやぁ まいりました。そこまで考えておられるのですか。たぶん 理科系なら これくらいはふつうに歴史を振り返り行く先を展望しうるということなのでしょうね。(誰もが成し得るわけではないですが)。 アフリカに出現したヒトが 世界のあちこちに移り住んだということを確かに理科系のお二人におそわりました。血液型の細かい分類で相関関係が全部分かるとか。 ★ ~~~~~~~~ ホモサピエンスの歴史は・・・そして一種になり、なってからは内部抗争よろしく、小さな表面的差(皮膚の色など)とか、人為的な国とか、思想とか、とにかく差を見つけ 排除か さもなければ征服を繰り返しているように思われます。 各個人間も相互理解も多少進行しましたが 不信感、も増大しているように思われます。何かの差がある場合は排除か あるいは征服(支配)するのです。 しかし そこまでを ホモサピエンスの前史として区切るのです。 ~~~~~~~~~~ 怖れとしては ★ ~~~~~ しかし結局、環境が ガラリと変った場面では ソフトウェハー派ではなく 他の動物と同様 ホモサピエンスDNAの変位が 多少ある少数異端的なモノが 生き延びるかもしれませんが。という考えを捨て切れません。 ・・・ この哲学カテ内の諸氏の発言をみますと 寛容な姿勢で対応する方もおられますが そうではない方もおられると思います。とにかく前史を進んでいるという印象です。 という現状からは 前史を終わらせるのは 大変とおもいます。 ~~~~~~~~ ☆ この哲学カテの事例は分かりやすいです。 いま取り急ぎひとつ言えると思うことは ○ なにごともそのコト(モノ)自身の中に潜む契機をすべて 必要なまでにはオモテに出してその――想像裡においてであってもよいかたちで――必然性としてのみづからの展開を終えるまではその前史を終わらない。 ○ この必然的な歴史展開のほうを――未来や将来の展望をもにらみつつながら―― 大事にすることが 歴史を前に推し進めるものと考えられる。 ☆ 言いかえると するべきことは今の現実から現われてくる問題をむしろまったく前史のやり方において――しかもその行為主体である人間じしんはすでにあたらしいヒトになっていてもよいわけですが――取り扱い処理して行くことではないか。 と同時に――このことがややこしいのだと思いますが―― 歴史の必然的な過程を 言わば段階の飛び越しをも交えて 進めることもありなのだと考えます。 ムラ(市町村)が勝手にイニシアチヴを取り 国家よ邪魔するなかれと言って 経済・政治・文化その他の交流・交通を推し進めて行くことが どこかで起こるかも知れないというようにです。 あとで再考します。
補足
お礼欄をおぎないます。 §1. ホモサピエンスの台頭 について ヰキぺを見ました。議論があるということを知りました。留意として掲げます。 ▼(人類の進化) ~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E9%A1%9E%E3%81%AE%E9%80%B2%E5%8C%96 ホモ・エレクトゥスからホモ・サピエンスへ移行・・・を示す直接の証拠は、ホモ・エレクトゥスがアフリカから他の地域へ移住した間にアフリカで種分化が起きたことで(アフリカのどこで起きたかについてはわかっていない)エレクトゥスからホモ・サピエンスが分かれたことを示唆している。その後アフリカとアジア、ヨーロッパでエレクトゥスがホモ・サピエンスに入れ替わった。 このホモ・サピエンスの移動と誕生のシナリオは単一起源説(アフリカ単一起源説)と呼ばれていて、現在古人類学において多地域進化説と単一説で激しい議論がされている。 ~~~~~~~~~~~~~~ §2. マジハリ および ウヤマヒとユヅリアヒ これらを サピエンスに代わる(それを一段高いところに揚げて保つ)特徴としては どうでしょうか? 自由が 基礎の基礎です。 ○ マジハリ ★ これからは 各個人が独立自由に振舞え かつ 交通がある という新しい状態を創ります。 ○ ウヤマヒ・ユヅリアヒ ★ どんな他人(交通のない場合も)とも共存(殺さない)するという寛容の姿勢がキーポイントになると思います。 §3.多様性の保証 ○ 思想による。《自由》に基礎を置く。ゆえに 群れない。 ★ ホモサピエンスは 主には DNA が固定され 思想というソフトウェアーの差で多様化を成すのです。もちろん DNA 突然変異派も受け入れるのです。宗教もソフトウェアーであり 宗教団体は 解体して 個人の信じる形になっているのです。 §4. ポストモダンとの関係 《ポストモダン》について 今一度尋ねさせてください。 ★ ポストモダンの究極の形と考えてもいいし 後史に対応させて後期ポストモダンとしてもよい と思います。そのような状態は 究極の個人を相互に認め、かつ 環境変化にも対応できる ベター社会と見做される と思います。 ☆ おそらく《自由 相互独立 交通》という特徴を言っておられると思います。このことに何の異見もありません。 そのときただし たとえばフーコの思想〔の一面〕には《権力人(ホモポテンス?)》といった性格が見て取れるのではないかとおそれています。社会としての関係構造のみでヒトの存在は成り立っている(《無主体の過程》)が その構造関係においてあたかも地から湧き出るように互いの間に《まなざしを相手に注ぐ者と注がれる者という関係》が現われると言っているようです。これは必ずしも《究極の個人》を認めているものではないように考えられるのですが どうでしょう? 【Q:フーコーは 人間は権力人だと見たのですか】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4877805.html §5. 《どのようにして 前史を終わらせる か》 これは 基本的に《何もしない》が答えだと考えます。お礼欄にも書きましたので それと合わせて対案は 次です。 基本的に いまの前史の過程をそのまま進む。前史の過程に棹さして歩む。これが 前史を――もしそういう自然史過程および人為的・文化的過程としての人類史であるとすれば――終わりにみちびくのだと。 これは 同じく基本的に《ひとり》としての人について当てはまると見ます。その人それぞれに持ち合わせている前史の要素 これをひととおりその人の思う存分展開させるということをとおして もしそうだとすれば前史が終わるのだと。 言いかえるとこの個人史というのは 個人対個人の関係ないしシガラミのような関係史としての展開となると思われます。うまく行けば その十全な展開が ただ互いのあいだの想像上のたたかいを対話というかたちにおいて成し終えることで果たされるかとも見ます。あるいは ヒラメキによって一瞬にして わだかまりは解け 互いの和解にみちびかれるかとも見ます。 ★ 私に出来ることは ポストモダンの理解者を増やす努力であるとか 個人の延命(ホモサピエンスの延命に少しは繋がる)に少しは役立つ仕事をしたい と思っているぐらいです。 ☆ ただし たとえば社会形態を新しい形態へ移行させるといった文化的側面においては――と言ってもそれも けっきょく個人どうしの上下関係とその錯綜構造としては 生まれとその身分という要因において 社会的自然の要素がからんでいると思われますが―― どこからでも新しい契機は持ち出されて来るものと考えられます。 ★ 国家、各種の格差、障害者問題、食糧、などなど 問題山積でしょう。 ☆ 考えが思い浮かんでその考えをよしと見た者がその新しい社会像を推し出して来ると思われます。前史としては そこで社会力学の過程をたどって行くはずです。 そうして 基本的に・全体として見て 《前史を終わらせる》には《前史に沿って歩みを進める》のが筋道だと考えます。 あるいは抽象的に言って 《前史人が自己とそして社会と和解したときに 前史が終わる》と考えます。前史のシガラミや短所をののしっている間は のぞみが薄いのではないでしょうか? 断定口調のところについては元よりのこと 全体にわたって みなさんともども 吟味・検証またご批判をくださいませ。
- ks5518
- ベストアンサー率27% (469/1678)
>突然変異によってかどのようにしてか分かりませんが 人間(現実)が――前史から後史へ――変わる のではないか? >どうでしょう? 次元は違いますが、、、、 平安時代後半におとずれる“末法”ですが、 この頃から、明らかに争いを好む衆生が多く 存在しているようです。 仏法では、末法は『五濁悪世』といって、命の 乱れた衆生が多く世に現れ、社会を乱し、 反乱や飢饉、疫病絶えず、天災引き起こすと 言われています。 質問者様の質疑内容と似たような事が広く 世間を見れば、厳然と起きていたのかもしれ ません。 じゃあ、今後はどうかというと、たいへん申し訳 ないですが、私には判断がつきません。 しかしなから、我が生命を宇宙生命と共鳴させ 本当の利益の為に自他共に共生の出来る生命が 多く存在できるように祈る次第で御座います。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~ しかしなから、我が生命を宇宙生命と共鳴させ 本当の利益の為に自他共に共生の出来る生命が 多く存在できるように祈る次第で御座います。 ~~~~~~ ☆ 《共生》というところが 肝心なのでしょうね。抽象的にですが 賛同いただいたのではないかと受け取りました。 ★ 次元は違いますが、、、、 ☆ 趣旨説明では 《自由》あるいはそれに伴なわれる《責任》といった主題をめぐって 古い人間とあたらしい人間とを比べて見ました。五濁悪世とは 次を言うのだそうですね。だとすれば 見濁あるいは衆生濁としてかかわっているかも分かりません。 ▼ ~~~~~ 1. 劫濁(こうじよく)(飢饉・天災・戦争などが起こること) 2. 見濁(けんじよく)(誤った考えがはびこること) 3. 煩悩濁(ぼんのうじよく)(人を迷わす煩悩がはびこること) 4. 衆生濁(しゆじようじよく)(人々の心身の資質が低下すること) 5. 命濁(めいじよく)(人々の寿命が短くなること) ~~~~~~~ ☆ おそらく前史の人間とあたらしい人間との対比で 現実的な見方が打ち出せるとよいかと思いました。空想は空想だとしても 或る程度において 将来に向けての指針のようなものにさえ成り得るかも分かりません。 いますでに指針に成り得るかも分かりません。 あるいはまた あたらしいヒトというのは 全部が全部が一気に現われるのではなく たとえば一つの目安として例によって三分法で 新しいヒトについての同感と共感(浮動層)と反感との三つの人びとに分かれるというかたちから進み入るかとも考えられます。 どうでしょう? ありがとうございました。
お礼
むつかしいようですね。ご回答をありがとうございます。 (1) ヒトの定義から入ります。 その昔 土地を囲ってここはおれの所有になるものだと宣言したと想定してみた場合 人間ということに関して前提とするべき公理に ふたつあると思います。 (α) 主戦論を採るヒト:奪い合い・競争としての社会交通 (ω) 非戦論を採るヒト:ユヅリアヒ。奴隷の状態にさえ甘んじる。 したがって競争し奪い合う交通人は 社会というヤシロ の神棚に祀っておく。 (2) ここから《権力》が生じますが これにもふたつの型があると見ます。 (あ) 第一次の権力関係: ユヅリアヒの人間どうしにおいて――ということは ごく ふつうに自然本性としてのヒトどうしの間においても―― まなざしを相手に上からそそぐ者とそしてこれを受ける者 とに分かれる場合。 この場合には そのまなざしの上下関係が 互いにみとめ あっている自生的な性格のものと そして《アース役》を務 めるかたちとなるように一方がそれをよいことだとは思って いない人為的・人工的な性格のものとがある。 (い) 第二次の権力関係: 第一次の《自生的な性格のもの》からにせよ《人工的な性 格のもの》からにせよ そのまなざしの上下関係を社会制度 として固定させようとして出来たもの。 身分関係。世襲制度。 特には 社会を二階建ての構造として固定する国家におけ る身分制度としての社会力学的な交通構造。 (3) 階級ということ (α)主戦論を採るヒトが築く(い)第二次の権力関係は 明らかに階級の関係として二階建てを成り立たせている。ヒトが品として分けられる。 (ω)非戦論を採るヒトが築く同じく(い)第二次の権力関係は そのような階級関係を包み込んだ二階建てに成ると捉えられる。言いかえると 非戦論によって服従の関係をえらんだそのことが すでにヒトの品による区分を飲んだかたちとなっている。ぎゃくに言えば そこで身分制が強固にかたちづくられそれに即した圧力が加えられたとしても もともとそのような社会力学は織り込み済みである。ゆえに――そうとうきびしいことだけれど―― そのお二階のえらいさんよ 気の済むまでご自由におやりなさい そのあと人間にお成りなさいと心のどこかで言っている。 (α)の階級関係においては その新しい階級と古いのとのあいだで回転(レヲ゛リューション)が演じられる。 (4) 世界史的存在としての《ひとりひとりとしてのわたし》 経済行為の形式ないしその社会的な制度として 資本主義は――あらゆるモノ・コトを商品として巻き込み その商品をつうじてというよそよそしい形でではありながら すべての人びとをやはり巻き込み一面ではその互いの交通を遠慮なく普遍的に行なわせるゆえに―― ヒトを世界史的な存在とする。 この資本主義――勤勉とガリ勉から成る――の世界史的な展開の中で 階級の回転が行き着くところまで行き着き(つまり もはや堂々巡りであると分かったところまで行き着き) 社会の神だなに祀られたお二階さんの王様ごっこがやはり行き着くところまで行き着くなら(つまり もはや人民よユヅルことはこれ以上してくれるな われもユヅル側になってみたいと言い始めたなら) (α)および(ω)にそれぞれもとづく《ホモサピエンス》は その潜在能力を全部出し切ったと言える地点に来るのではないか? しかも 階級支配体制やお二階さんごっこ体制といったそれぞれの思想に真っ向から対立する民主制というかたちをすでに採っている。 このニンゲンは ほろびる。と思われます。 前史を終えると見るのが ふさわしいのかどうか? (5) 以上のような考えは 問いである。ゆえに答えを求めている。 ★ 論理的構造体系を構築していくもの ☆ ではなく それを目指してもいず ★ 各自 〔公理および〕仮説をたてその役立つことを証明するのが人生ではないか ☆ というふうに《論理的な有意義性》をねらっているものでもありません。 ただただ わたしはこう考えますが あなたはどうですか? と問うているのみです。 ★ フーコーは 個人個人は独立自由であって お互いに尊敬される ホモサピエンス社会構築を目的としているのです。 ☆ ほんとうにはこのような公理や前提を置かずに ただただこのように生きたい・社会をこうしたいと思って考えただけのものです。考えを歴史的にまた多少とも科学的に説明する必要があると思ったので このように長たらしく述べているのみです。 なぜって モダンやポストモダンの議論がしたいからではないゆえにです。でも ★ だからこそ 目的達成のためには その分析明示が重要ではないか と考えた のです。 ☆ といった手続きは 必要であるようです。 こんなお応えです。