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あらゆる不信がうずまく世の中
現在の世の中は、政治への不信、検察への不信、民度への不信が渦巻いているように思えます。 ただ、個人の人生と仕事を振り返ってみれば、簡単に解決したり、完全に信じたり、完全に相手に信じられたりすることは少ないのではないでしょうか。 私なんか「三日坊主だよな」とか「甘いもの食べ過ぎるな」とか反省の日々の連続です。悪気が無くてもうまくいかないことはざらです。 それなのに、なぜ他人に対しては不信感を感じ幻滅するのでしょう?
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今は言葉による会話が少なくなっています。 ラジオで耳を奪われた。 TVで目も耳も奪われた。 社会が忙しくなり父親と子供の会話が奪われた。 FAXで会わなくても用件がすむようになった。 ゲーム機が出来て友人との遊び、会話が奪われた。 形態ができ 形態を通しての会話が中心になった。 パソコンで外出しなくてよくなった。 そして人の気持ちがわからなくなった。 通り魔的殺人が増えた。 会話がなくなって人の心が理解できなくなった。 昔のひとは「あの人はわかっていないけれども、その人に言うのはその人を傷つけることになるし関係が悪くなる。 だから言わないでおいて 自分は理解しているから気をつけようね。」で終わっていたと思うのですが・・・。 だから、会話をふやしましょう。友達をたくさん増やそう。小説も読んで人間関係を学ぼう。
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- ENERGEAR
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もっと発展させて考えると、 「ゾンビのようなどうにもならない人間はなにを言っても無駄、しょうがない」という、絶対悪があるという考えを持っている人間は、自分自身が不信そのものであり、それを自ら顕していると言えるでしょう。 存在そのものが絶対善でも絶対悪でもあろうはずがなく、性善説も性悪説も間違いでしょう。
お礼
回答ありがとうございます。 >絶対悪があるという考えを持っている人間は、自分自身が不信そのものであり、それを自ら顕していると言えるでしょう。 私が言いたかったことは 現実を冷徹に見据えながら、理性への希望も忘れないで生きるということです。 人間は少しづつなら変わっていけます。 その各人の変化がつながったとき、大きな変化が起きるのではないでしょうか。
- ENERGEAR
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No.8と9は 裁き ではなく、逆のやり方でやってみました。 汚れ役はもう うんざりなんでね。
- ENERGEAR
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結論としては「彼がゾンビであるかもしれない」と思うことは不信ではありません。 正しい認識を持ちつつある ということです。 彼は間違いなく ゾンビなのですから。
- ENERGEAR
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人間そのものに対する不信と その考えやおこないについてあやまちを犯しうるという場合の不信とを分けて考えてください。 ↑これって本当に「おっしゃるとおりですが」って思う? 「人間そのもの」って言っても、結局はその行為振る舞いに対して「不信」を感じるのでしょう。 たとえ人間そのものに不信を持っていたとしても、それを解くことができる場合もあるでしょう。逆に、その考えや行いなどの過ちを犯すことに対しての不信感が「どうにもならない」場合もあるでしょう。 そういう、いかにも雰囲気や流麗な言葉で相手を納得させるつもりでいる人間に、飲まれるのは仕方ないかもしれないですね。 基本的に、bさんが他者に対して○○○である と言った場合、そのbさんが それそのものである場合がほとんどでしょう。 brag と lone を英語辞書で引いてみてください。 名は体を顕します。 このような人間に何を言っても無駄です。そういう人間もいると思って諦めてください。 「説得する空気」に呑まれないでください。 良く出来た人間だったら争いごとを起こさず、良く出来た人間が 気の聞いたきれいな言葉、言い回しをするとおもっているなら、それは 全く逆であるかもしれない と言っておきます。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 ★ 不信 ☆ は人間そのものに対するものと その考えやおこないについてあやまちを犯しうるという場合のそれとを分けて考えてください。 後者は たがいにその間違いを指摘しあって解決していくのがよいでしょう。 前者は どうころんでも解決が無理な場合です。 ひとは自由意志を持ちます。表現の自由を享受します。ところがこの自由な表現という場合には つねにそこに答責性をともないます。答責性は 表現の自由の生命線です。つまり 表現内容について説明責任を果たすということです。 この答責性をもし果たさないならば――そしてむしろ初めから果たすつもりはないというのであれば―― もうその人は自由意志を放棄したも同然です。自由意志を放棄したということは 人間を放棄したという意味です。 つまりは 人間放棄をした人間に対して 信頼を寄せることなどはあり得ません。とうぜん 不信となります。これは 死んだら直るというような問題ではありません。ゾンビで生きながらえているだけというものです。 結論として。一般に不信感を持つ場合が出て来ますが それは あくまで部分的なあやまちであると捉えてください。ただし人間の存在全体として人間であろうとしない人間に対しては 不信感だけではなく 不信をしっかりと持つようにしてください。人間ではないのですから 何を言っても始まりません。そういう人間もいるとあきらめてください。
補足
回答ありがとうございます。 おっしゃることそのとおりですが 区分けの違いで表現が異なってくるのかと思います。 >ただし人間の存在全体として人間であろうとしない人間に対しては 回答者さまが人間単位で、不信な人間かどうかと区別するのとは別に 私は煩悩に対しては不信(静かな諦め)、理性に対しては信頼と区別しています。 例えば、煩悩が支配状態のAさんには期待しませんが、理性が支配状態のAさんは信頼するというようなものです。 この考えは自我を前提にした今までの習慣からすれば奇妙ですが、なかなか使える思います。 いずれにしろ回答者様とは区分が違うだけかなと思います。
- 雪中庵(@psytex)
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不信、裏切りといったところで、結局人は社会的生命であり、 あなたの生存は、世界中の人々の営為の結果(衣食住どれを とっても自給自足はできていない)=社会の本質は助け合い なのです。 表面的には、お金や地位、虚栄心といった“馬車馬の目の前の ニンジン”に操られ、競い合い、奪い合っているように見えても、 結果的には助け合っているのです。 たとえば、家庭内での労働には、お金を払いますか? 実は、経済や産業のグローバル化した現在では、世界中が それと同じように助け合っているのです。 ただ、産業化=分業化において、マーケットが拡大する過程で、 原始共産社会的な助け合いの“互いの顔”が見えなくなったので、 その需給をつなぐ情報(感謝の気持ち)を“お金”という物体に 転嫁したのです。 で、自己チューなままでも、その「馬車馬の目の前のニンジン」を 欲しがって争えば、“見えざる手”によって、他律的に社会的 行動をとるようになった、ていう話で。 当然、そうした自己チューな意識が先立った行動は、必要悪の 歪みであって、「嫌悪」すべきものになります。
補足
回答ありがとうございます。 おっしゃるように社会的生命体ではあると思います。 しかし、“互いの顔”が見えなくなり、かつ、高度に複雑な関係になった社会だからこそ感情的な不信を元に批判すべきではないと思います。 例えば「厳罰化すれば犯罪は減るはず!どんどんすべきだよ」という発想にもとづいて交通事故の過失まで厳罰化すれば犯人はひき逃げや遺体を隠すような行動をするでしよう。 感情は大切ですが、それが力を発揮するのは身近な人間に対してだけで、大きなシステムや遠くのシステムに対しては理性しか役には立ちません。
- ENERGEAR
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しかし、 嘘をつく 不正を働く 欺く ということと、甘いものを食べたいという誘惑に負けるのは違うよね。 それに自分を害するのと他者を害するのとでは、やはり違う。 自分の体を傷つけても刑法などで責任や罪を問われない。それは、その行為が既に自分で自分の責任を取っているからでもあるでしょう。 閻魔大王は理性で他者を裁いているとも言えますね。
- LHS07
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人は誰でも自分ではやるべきと思うことがいつでもできるわけではないことを受け入れている。 他人が当然やるべきことをやらないことで不信感をもち 受け入れられない気持ちになる。 それは、人間は他人を他人、自分を自分と別の存在と考えているから 不信感を持ってしまったことにたいして自分だったらどうするのか。なにが出来るのかと考えたらなにができるのか。なにもできない。 話す努力、理解しようとする努力をあきらめるから。
お礼
回答ありがとうございます。 >話す努力、理解しようとする努力をあきらめるから。 身近な存在であれば理解することも可能と信じています。
- ENERGEAR
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三日坊主も、甘いものを食べ過ぎるのも、他者を裏切る行為ではないですから... 能動的に他者に嘘をついたり、欺いたりするのと 怠惰とは別なのでは? 真面目な人が他者や社会に不信を感じるのは、それほどおかしくないと思います。
補足
回答ありがとうございます。 一人の人間の中には 「健康の為に甘いものを控えたい」 「甘いもの食べたい」 という理性と煩悩が対立しています。 これは裏切る者と裏切られる者が同一だから問題とみなされないだけで、実態は、煩悩により「健康」を僅かですが害されています。 他人を害するのとカタチは同じです。 あと、煩悩は進化の過程で形作られたものですから、万人が同じ量の煩悩を持っています。 個人差が生まれるのは、環境や教育によって理性の量が変わってくるからでしょう。 私も他人も同じ量の煩悩を持っていると思えば静かな諦めに達し、同時に、各個人が成長させることが可能な唯一のものである理性に希望を見出すものではないでしょうか。 その境地は、キリストや仏陀が至った他人を感情的に責めず己の修養に励む心境と同じものだと思います。
>簡単に解決したり、 >完全に信じたり、 >完全に相手に信じられたりすることは少ないのではないでしょうか。 その稀少な「信じる相手」から裏切られる(と思える)経験をすると、 なおさら >他人に対しては不信感を感じ幻滅する 事になります。。。。涙 でも実は、「信じていると思っていた自分」に裏切られているだけ、だったりもしますが。汗 二十歳を過ぎると、自分と同じか自分以上に「信じられる」人間が一人は必要で、 そう言う相手が一人居れば(得られれば)充分で、 「一人だけ居てくれれば良い」のだそうです。 21歳当時の夫の言葉です。 年の割にジジむさい事を言う人です、今も以前も。
補足
回答ありがとうございます。 >二十歳を過ぎると、自分と同じか自分以上に「信じられる」人間が一人は必要で、 達観されていますが、逆に身近な人間を大切にされる方なのではないでしょうか。 素敵な旦那様だと思いますよ☆
補足
回答ありがとうございます。 No.1,No.4 様の意見とも関わってきますが、まったくの直感ですが、ご意見は鋭いような気がします。 私の意識では道徳的に良い方向へ変えれるのは自分と身近な人間のみという気がしております。では、その意識はどこから生まれたかというと、身近な人間との直接的な交流の中においてです。 そして、その経験によりメリハリと距離感のある人間関係観を得た思います。 その人間関係観とは、如何に身近に思える芸能人や政治家だろうが直接話し合えないならば何の影響も与えられないということです。 これは当然のように思うでしょうが、芸能人や政治家の不祥事に対し不必要なまでの感情をぶつける現状は夢をみているとしか思えません。 この大いなる夢から醒めることによって、自分達が置かれた寒々とした状況に気づき、家族的なものと地域に原点回帰し、遠くなった政治家との距離を感じることで投票や情報ツールなどの価値を再発見し冷静に使用していくことができるような気がします。 本当の意味で今よりも会話のある社会になるのではないでしょうか。