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宗教的な人の心理
下記の質問は関係している全ての人に当てはまることではありませんが、 宗教団体に入信している方々や各種反対派が、何故常識的なことについて頑なに否定したり、信仰について意見を求めても明確な説明が出来ないのに、矛盾している事を常識のように発言したり、反対する事項について全てを否定して、有益な情報や実際に反対している事項を知らずに使用しているにも関わらず、頑なに反対するのはなぜでしょうか。 その様な方々に会うと、無知な状態で初めに受け入れたもの(自分が理解出来たもの)を真実として、後からの情報を間違いと判断しているように思われますが、心理的にどのような作用が発しているかを教えて頂きたいと思います。
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宗教に洗脳されやすい人はもともと何らかの不安感や満たされない気持ちを持っていることが多いようです。 洗脳者はそこに付け込み(というと言葉が悪いですが)、洗脳される人はそういう不全感が満たされるような錯覚を覚えてその宗教にのめりこんでいくのではないでしょうか。 オウムや最近話題の白装束の方たちなどもそうですが、彼らのように集団生活をしていることがより強固な信仰心を形成させているように思えます。 洗脳の手法としては、オウムがそうだったように、男性には美人の女性が近づき、「あなたの幸せを願って」などと優しく思いやりある態度で接してきたり、 あるいは、死の恐怖を抱かせ不安状態にさせて、救われるためには信仰しかないと説く。 そして、今までの現実の生活から隔離して、宗教集団のみの生活にさせる。 今までの自分、生活様式、考え方すべてを徹底的に否定され、無力感に陥れる。 無力な自分でもその宗教の教祖、教えに救われると思わせる。 そして教祖に全面的に依存し、その教えだけが絶対になってしまう・・・ということのようです。 一般常識が通用しないのは、世間の常識というのは一度徹底的に否定されており、そこには何の希望も安らぎもないものであると。 某宗教ではポアされることになるんでしたっけ? そういう恐怖心を持たせてるのですね。 信仰することによってのみ、死の恐怖から救われる。そこに依存しきっており、自分で判断する力を失っている状態なのだと思います。 その宗教団体の教えのみが唯一の拠り所であり生きる指針になっているのでしょう。 その教えの中でしか自分の生きていく価値が見出せない人にとって、教えを否定されることは自分自身を否定されることになり、それは認めることのできないことなのでしょう。
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- zyaba
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人間はすでに本能が崩壊してしまっているから、新たに自我を規定して生きている。自分の価値を信じなければ生きられないから、人々に愛されているだとか、社会に認められている、或いは神に是認されているだとか、「他」との関係で自我を規定し、世界の中に自我を位置づける。ここで、より高い所に自我を位置づけようとする。低い所では、自我を裏付けられないし、耐え難い不安だから。 組織集団に属す場合、「私の組織」という自己同一視が起こる。すると、組織の「外側」というものを意識せざるを得ない。これは、私の組織があり、外側の組織があるという事。自我の位置づけと同じで、自分の組織が外側の組織よりも高い価値であって欲しいと望む。また、ルールというのはそれに従うのは良い事だという規範性があるから、それに従わないのは良くないという反作用もある。 であるからそのルールに従っていない外側は、反価値的なもの。もっと言えば、価値の低いものになってしまう。 宗教団体の役割が個人のアイデンティティになるまでの過程はもうお分かりかと思うので省きます。
お礼
人間の本能全てが崩壊しているとは思いませんが、社会生活などの常識的な範囲として強制を強いられている部分については本能的な行動が出来ずにいることは確かだと思います。 また、組織についても外部のものに拒絶を起すのは、他の団体や外部からの意見に対して自己的・組織的な判断を否定されてしまい、自分が間違っている状態にあるのではないかやこの集団から離脱した場合の社会性が低くなるのではないかなど、未来予想が不可能な不安要素こそ”深層心理的な恐怖心”と受け止めております。 貴重なご意見有難う御座いました。
bagoo55様。私のアドバイスに対してのご丁寧なご指摘文面を頂戴し大変感謝致します。 ご指摘内容も、その通りと賛同したく思います。 感謝の意を込めて、せっかくの機会ですので、私なりの考え方を書いてみます。 まず、このご質問自体に100点満点の答えは絶対に存在しないと私は考えています。 よって的確なアドバイスではないこともご理解下さい。 理由として、それぞれの宗教の理念は、精神の安定や安らぎを目的としているものがほとんどであり、さらに、人の死に対する恐怖を和らげてくれるのが、宗教信仰といえると思うからです。 死を迎えることを悟った人間は、自分がこの後どこに行くのかということを認識している場合と、そうでない場合とでは雲泥の差があると考えられるからです。 この苦痛と安らぎの認識の差が宗教信仰という形のないものに人間を向かわせているのだと思います。 さて、ご指摘の心理的作用ですが、なぜと問われるならば「洗脳」という言葉に代表されるように、自分の意識の片隅に生きるための標識が刻まれてしまう為だと私は考えています。 人の遺伝子は生きるために設定されています。死を選択する遺伝子は生まれつき一つもありません。 だからこそ、死に対する認識が人の心を動かすのだと思っています。よってそれが信仰という安らぎを産むのだと思っています。 真実は自分が信じる神のみ知ることなのかもしれないと、私などは無責任にも考えてしまいます。 私はもともと完全な答えをするつもりもありませんでしたので、申し訳ありませんが私のアドバイスも自信なしというわけです。 ではまたいつかどこかのスレッドでbagoo55様とお目にかかれたら、嬉しく思います。 失礼な文面お許しいただけますよう。 では、GOOD LUCK!!!
お礼
>さて、ご指摘の心理的作用ですが、なぜと問われるならば「洗脳」という言葉に代表されるように、自分の意識の片隅に生きるための標識が刻まれてしまう為だと私は考えています。 自分も”洗脳”と言う言葉は正に適した表現だと思います。 その洗脳される場合の過程で起こり得る状態(常識と非常識の間)や洗脳された場合の今まで常識であった状態のものに対しての批判的状態などがどのように洗脳された人に影響を与えているのかや、洗脳される前の状況が洗脳された後に与える影響、洗脳された場合の常識と洗脳される前の常識を比較した場合に発生する矛盾点を解決する時の状態などが解りません。 >人の遺伝子は生きるために設定されています。死を選択する遺伝子は生まれつき一つもありません。 確かに人や動物の遺伝子は生きるために設定されております。 しかし、時には自分を死にいたる状況に追い込むものも人や動物は持っていることを経験により認識しております。 例えば、瀕死に近い状態の動物などは、自分で舌を噛み切って死んでしまうこともあります。 人間でも同じように精神的に追い込まれた場合に今まで自殺反対派でも自殺してしまうようなことも稀に発生します。 精神的に追い込まれて自殺する場合、自殺する前の精神状態が非常に似ていると思います。 自分を追い込んでしまい、卑怯なことが出来ずにその問題となっていることに対して逃げることを拒否してしまうような真面目な人が自殺してしまったりする場合が多々あります。 このような性格とも取れる精神的な問題は遺伝により受け継がれているため、自殺者の血族から自殺者が多くなる傾向にあるのもこのためと思われます。 最近、インターネットの掲示板で自殺志願者同士が集まって自殺するケースがありますが、この場合には志願者同士の共通した心理が働いていると思います。 >私はもともと完全な答えをするつもりもありませんでしたので、申し訳ありませんが私のアドバイスも自信なしというわけです。 このようなご意見を頂けることについては大変感謝しております。ご意見に対して自分として新たな考え方や総合的な判断をする上で非常に役に立っております。 ぜひ、また何か新たな考え方がありましたらご意見いただければ幸いです。
補足
アドバイス有難う御座います。 素人考えの生意気な文章で申し訳ありません。 (下の文章が長くなったので2分割にしてあります。) >まず、このご質問自体に100点満点の答えは絶対に存在しないと私は考えています。 これらの質問に対して自分としては何%かは解りませんが、一応の答えを持っています。 しかし、具体的なものが不明なためこの場を借りて解釈を聞きたいと思っています。 意見の相互による見解の違いにより、100%の答えは確かに難しいと思います。 その中で、自分としては数年間この問題を考えているのですが、この様な状態に陥ることを拒否するタイプなので、実際には具体性に欠ける意見しか自分の中では無いような気がしているため、突っ込んだご意見を聞きたいと思っております。
- bon-chan
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前半についてはよくわからないので、後半の 後からの情報を間違いだと判断する方について書きますね。 まず、宗教でも何でも、ある事柄について自分なりの考えというのはどなたでもお持ちですよね。 たとえば、ジャイアンはいじめっこだ、などです。 そういう考えの人(Aさん)は、他の人の意見で Bさんはジャイアンはいじめっこだ、と言ったとします。 でも、Cさんは、ジャイアンは本当は優しい子なんだ、と言ったとします。 この時、自分の考えと同じ意見に対しては同意し、頭の中にとどめますが、反対意見に対しては そんなことないよ!と切り捨ててしまうわけです。 なので、自分が受け入れたものは真実だと思ったり 言ったりしますが、それに合わないものは 間違いだと言ったりしているのだと思います。 無知な状態と言っても、自分が納得できる基準というものがあると思います。その基準に照らし合わせて最初に判断したんだと思います。 あと、人間は最初に言ったことを後でくつがえすのには抵抗があるので、もう信じていなくても、周囲の目を気にして信じているふりをしている可能性もあります。 ちょっとわかりにくいでしょうか?
お礼
アドバイス有難う御座います。 質問があるのですが、お教え頂ければ幸いです。 確かに個人で色々な異なる意見を持っていると思います。 ”ジャイアンはいじめっこだ”の場合などの場合、個々の考えではなく本来は相対的な見解による意見が必要と思われます。 >この時、自分の考えと同じ意見に対しては同意し、頭の中にとどめますが、反対意見に対しては >そんなことないよ!と切り捨ててしまうわけです。 自分の考えと同じ意見に対して同意し、反対意見に対して切り捨てる場合、反対意見に対して理解することが不可能と云うことでしょうか? 又は生理的な拒絶により切り捨ててしまうのでしょうか? この時の心理状態はどのような状態なのでしょうか? 最初に云った事を後でくつがえすのに抵抗があり、信じているふりをする場合、間違いを知っている状態であるため、その人が信じているふりをすることで精神的な心理が不安定な状態となっており、余計に同じ境遇の集団に依存するような気がしますが如何でしょうか。 この時の心理状態はどのような状態なのでしょうか? 宜しくお願い致します。
世の中には多種多様の信仰宗教が存在するため、 統一された1つだけの答えは存在しないと思います。 それぞれの宗教団体はこの世の真理は自分たちだと主張しています。 信仰を持つ人たちにとって、生きるための全ての基準はその教えを守ることを意味します。 ただ多くの普通の人はその真理が理解できなかったり、受け入れられないだけです。 世の中での常識は10人中9人がそういえば、それが常識になっていきますが、 彼らにとって、それは無縁なのだと思われます。
お礼
アドバイス有難う御座います。 >世の中には多種多様の信仰宗教が存在するため、 >統一された1つだけの答えは存在しないと思います。 自分としては何か根本的な心理的・精神的な共通事項ががあると思うのです。 >ただ多くの普通の人はその真理が理解できなかったり、受け入れられないだけです。 >世の中での常識は10人中9人がそういえば、それが常識になっていきますが、 >彼らにとって、それは無縁なのだと思われます。 ”世の中での常識は10人中9人がそういえば常識になる”場合、老若男女の年齢がバラバラの10人中9人が同意することについては、常識的な事項として考慮することが出来ると思われますが、信仰や反対派の団体の中にいる場合に、そのトップを信仰する方々の意見が非常に近いものがあるため、その集団の中だけの常識を一般的な社会の中の常識と認識してしまっているような気がするのです。 彼らにとって社会的な常識が無縁なのは、自分の常識が通用する集団が存在することで、自分の中の何かが常識的な判断として考えているような気がします。 狭い範囲の中の10人中9人の同意見で常識と考えるのは、危険ではないかと思うのですが、如何でしょうか。
補足
集団心理として考慮して頂いた場合に、その中で起こりえる心理状態を教えて頂きたいのですが・・・
お礼
素晴らしいアドバイス有難う御座います。 確かに集団的行動や常識を覆すための根拠、何かに縋りたくなる心理的な状態は”恐怖心”がほとんどの部分を占めていると思います。 この恐怖心を取り除くために、宗教や団体に加入する可能性は全ての問題を繋ぐ要素であることを同感いたします。 恐怖心以外に何か考慮出来る要素がありますか?