- 締切済み
生」が消費されているとき、「生」が自覚される。
. 思考実験しました。 自分が、どういうとき、「生きている」という感じを強く持つか? 食事をしているとき。 映画を見ているとき。 Hしているとき。 哲学しているとき。 眠りから覚めたとき。 悩んでいるとき。 ・ ・ etc しかし、その中で、一番強く「生」・「生きている」を激しく感じたのは、 腕に傷をつけて、滴り落ちている血を見つめている時でした。 「生」が消費されていると感じたとき、強烈に「生」が自覚されました。 これは、どういうことでしょう? この、「生」が消費されていく先には「死」が、見えます。 この、「死」の自覚の対極として「生」が強いコントラストで、自覚されたのでしょうか? それとも、「生」が消費されている時、心の深いところで、 生きようとする何かが活動を強めていくからなのでしょうか? (これは、自分の個人的な感じであり、一般的でないかも知れません。 そういう方は、自分が生きていると強く感じるとき、の事でも構いません) ) 皆さんの意見を聞かせてください。 .
- みんなの回答 (22)
- 専門家の回答
みんなの回答
心には、頭の自分の心と、身体の自然の心の、ふたつがあります。身体の痛みは、自然の心に属します。身体を意識する時は、あなたが、自然を意識して、あなたが、自然の中で生かされてる事を実感する時です。だからいい体験です。
- heinell
- ベストアンサー率35% (420/1172)
消費じゃなくて、消失でしょう。 無くなっていく物に対する無いものねだり。 新作ゲームソフトの発売日を指折り数えても、買ってしまったら「無いもの」じゃなくなり、興味が一気に消失して、封も切らずに山積み。 それと大差ありません。 ゲームの本質を考えれば、それを使って遊び・楽しむ事が本来の役割。 しかし、無いものねだりという所有欲(の一部)は、そんな本質など全く無関係に発生します。 そして所有してしまうと、対象の本質を完全に放棄しても全く気にならない。 …というより、実際は無いものねだりだけで頭いっぱいにしていて、対象の本質なんか最初から考えもしていないという方が正確でしょう。 >腕に傷をつけて、滴り落ちている血を見つめている時でした。 >「生」が消費されていると感じたとき、強烈に「生」が自覚されました。 これもほぼ同じで、失っていくものがもったいないという所有欲のマイナス(本当に無くしたら二度と手に入れられないものですし)に過ぎません。 結局「手に入ったら封も切らずに山積みされるゲームソフト」と同じ程度にしか考えてないから、所有or消失に対する価値観しか感じられないのではないかと。
お礼
. 回答ありがとうございます。 >消費じゃなくて、消失でしょう。 あえて、消費と言う言葉にこだわりました。 例えば、お金にたとえて考えると。 お金を消費する。 お金を消失する。 そうして考えると、消失するでは、死んでしまうイメージに近くなってしまいます。 死んでしまっては、「生」の自覚もありえなくなってしまうからです。 次第に、「生」が減っていくイメージを強く打ち出すため、「消費」としました。 それから、私の説明不足もあるのですが、「腕に傷をつけて、血が滴り落ちる」時は、強烈な「痛み」があります。 その、「痛み」の存在が生を強烈に自覚させるのです。 「腕に傷をつけて、血が滴り落ちる」をイメージすれば「痛み」も同時にイメージしてもらえると、思ったのですが、そうではなかったようです。 回答者さんは、「痛み」の存在に言及していませんが、「痛み」と「生」の関係も問いのなかに含んでいます。 それを考慮したうえで、違った考えになれば再書き込みお願いします。 .