- 締切済み
生」が消費されているとき、「生」が自覚される。
. 思考実験しました。 自分が、どういうとき、「生きている」という感じを強く持つか? 食事をしているとき。 映画を見ているとき。 Hしているとき。 哲学しているとき。 眠りから覚めたとき。 悩んでいるとき。 ・ ・ etc しかし、その中で、一番強く「生」・「生きている」を激しく感じたのは、 腕に傷をつけて、滴り落ちている血を見つめている時でした。 「生」が消費されていると感じたとき、強烈に「生」が自覚されました。 これは、どういうことでしょう? この、「生」が消費されていく先には「死」が、見えます。 この、「死」の自覚の対極として「生」が強いコントラストで、自覚されたのでしょうか? それとも、「生」が消費されている時、心の深いところで、 生きようとする何かが活動を強めていくからなのでしょうか? (これは、自分の個人的な感じであり、一般的でないかも知れません。 そういう方は、自分が生きていると強く感じるとき、の事でも構いません) ) 皆さんの意見を聞かせてください。 .
- みんなの回答 (22)
- 専門家の回答
みんなの回答
- arayata333
- ベストアンサー率30% (35/113)
私は肉体労働者です。 アカデミックな哲学の世界には疎い人間です。 が 最近、ここの哲学カテなどを見ていて思うのですが、哲学って肝心のシンプルな観点を抜かして どんどん複雑な論理に向かって進んでいってしまっているかのような印象を受けます。 それがアカデミックな哲学からの影響であるとするならば、 世界のいろいろな状況を解決する力が哲学から出てこない可能性を危惧してしまいます。 私自身の回答は こうなります。 昔 若い頃ですが、わたしは3年ぐらいもの期間、ほとんど何も五感が働かない状態 何を見てもおもしろくも楽しくもなく、 色も味も香りもすべて 一言で言えば なにもかもが重く暗い灰色にしか見えず感じられなかった時期がありました。 そこからどうして抜け出せたのかは ここでは略します。 (偶然によるものですが) それは ふつうの感覚の世界と比較すると 思考実験も何も それ以前にあまりにも別世界です。 何をするにも 何を食べるにも、何を観賞するにも、どんな音楽や歌を聴くにも、何を考えるにも その状態の時と、 通常の神経とは雲泥の差です。 わたしが ここに言いたいことは、 『幸せとは何か?』という事の本質的な追求無しには 哲学はどんどん複雑になるだけではないか?ということです。 もうすこし、私自身の体験の例を書きましょう。 通常の神経というのは、平和時の 一般的な日本人に多い状態と いうふうに これは考えすぎずに一般状態を思っておいてください。 今 私は62歳であるにもかかわらず、 肉体労働で、時には寒空の中、雨の中、穴掘りとかコンクリこねとか さまざまな事をやっていたりします。 指を怪我した状態で つい一昨日も雨の中、こごえながら、その指を使ってしか泥をかきだせないような仕事もともなう作業をこなしていました。 でも 一般的には つらいだろうと思えると思える^^、この状態についてなのですが、 わたしは、《今の自分はなんて幸せなんだろう》と思っていました。 それは、1つには、 もっともっとつらい状況を乗り越えてきた人間の記憶からの それとの比較による落ち着いた状態という要素もそこにはありますが、 それだけならば《幸せ感》とも 違うとも自己分析できます。 私は、傷ついた指でかき出しているその泥自体に何故か感動していたのです。 そして体のそこから その時《今の自分はなんて幸せなんだ!》と思いました。 その感動の根源を 少し思い出しました。 幼い頃 海辺で砂と遊んだ感覚です。 大自然に触れた最初の新鮮な感動の感覚です。 肝心な点、どうしたら、そのような感覚を大人となってからも身に深く感じられるようになるのか? についても、(長くなりますので) ここでは ひとまずは略しつつ話を進めてみますが、 この感覚と 一般的と思われる 私自身が一番ながくその状態だった時期と比較すると、 これも雲泥の差があります。 いや、じつは 上記の《『幸せとは何か』の本質的追求》というのは、半欠けの思考であり、 ここにもう一方の “「苦しみとは何か」についての本質的追求”も 哲学がシンプル・イズ・ベストな形で生きる思想や 政治経済の見通しにつながってゆく思索必須条件だということを 書き加えておきたいのですが、 要は 人間にとって切々とした大切な事を抜きに そのまわりをどんなに論理的にさぐっていっても、切々とした大切な点にはたどり着かないし、せっかくのその論理思考力がもったいないということがいいたいのですが、 さて、話を進めさせていただきます。 はて、質問者様は 極寒地獄を体験したことはありますか? 極寒地獄というのは、-(マイナス)の温度の程度のことではなく、風などの作用で体が 血や神経が 生きてる状態では全くなくなった感じで、意識がまだあり続けてる状態です。 冷蔵庫の中で作業しても すぐ出られるなら、そういう状態とは100万と一の その苦しさのあるいは寒さの違いがあるそういう世界、 気が狂ってしまえば楽ななるその一歩手前の世界とも言えます。 それは苦しみというものの極度な場合の一例ですが、 実験なんて 出きるような世界ではないですが、 私はそんな世界を 北風の中の3年間の暮らしの中に味わったことがあります。 あんな世界は 今の私でも二度と体験できないでしょう。 今の私ならそこに至る前に、死んでしまうでしょうし、…、 そんな中で暮らさなきゃ成らないなんて、想像もしたくないです。 心まで 凍えてしまうのですよ。 で、こうした体験から、 上記2つの点から ご質問の思考実験を分析すると まずは、 それぞれ、味わいという点がそのつどどうなのか?という点が抜けて思索が進められようとしている点が気にかかります。 それでは せっかくの論理性にパワーが抜けてしまうと思います。 *食事をしてる時、 私には 同じ卵でも どう言ったらいいのか ある食堂でふつうに出されたたぶん同じ卵を 百倍以上もおいしい?と感じたことがあります。 たった一度の なんの因果もないかと思える体験です。 たぶん記憶の中の奥深くには何かの因が宿っていたりするのでしょうけど わかりません。 それは極端な体験例ですが、それと似たことならば よく自己観察できるようになっていれば 食べ物に関してもいろいろな『生きてる感覚』につながるような驚きに満ちたことは 体験できるようにもなってゆくかと思います。 *映画でも 自分とまったく同じような状態の苦と楽の極度の世界をうまく演出していた映画を観たときには、滝のよう涙が流れてきました。 *H!?、 これこそ、その時どき その熟達度、それぞれ、人生いろいを 千差万別です^^。 そのはずです。 というより そこに感動の本質が隠されてもいると思ってます。 *哲学してる時。 これは、私の場合は 迷いのかなたにアップアップしてる時と、 そうなのかそうだったのかと 謎とかが解けたときの状態では全く違います。 さらには、 それで生き方が進歩した時とか…、とかとかで。 *眠りから醒めた時。 この意味合いは? 通常の睡眠からの起床の時間の事を意味してるのですか? それとも 精神的な何かを意味していたりするのですか? また 悪夢から醒めたときとか あるいはそこが 一度何日か体験したことがあるのですが、大自然の朝の太陽が差し込んでくる美しさにすっかり心奪われてしまったような そんな状態の時を想定していたりしますか? 朝目が醒めたというだけの事では、事例として一般的すぎ・・;? *、悩んでいる時。 う~~む、これは? 私自身は それが原因で『生きている』と感じた記憶は 思い出せないですね。 で、 次の 肝心な mintarou1さんの場合の その実験の事なのですが、 私は 死との比較による感覚というよりも、それは、 たぶんですが、 むしろ 生きてるという安心感の方の、あるいは大きな観点から言えば 平和の中に生きているということの安心感への 何かの感動だったのではないか? というふうに これらの体験の視点からは思えてならないところなのです 死の自覚との対極のコントラストの自覚としての生きてる感覚というよりも、 それもそんな時にはあったかもしれなくても、それよりも 真逆に そんな時だからこそ、真逆に「生きている」というあたりまえの安心感の大きさの何がしかを垣間見た体験なのではと思うのです。 どうでしょうか? よく思い出しながらそのへん検討されてみてください。 さらに 言えば 確かに 心の深いところでですが 消費というあたりまえの活動が出きるといことへの 安心感の大きさというもの、 人間が本能から解放されて築き上げてきたそういう空間の大きさへの何か ひれ伏すような感謝の何がしかともいえる そんな空間への気づきに一瞬だったのかもしれません。 弱い一人の人間、木の葉のようなこの命? でも そんな大勢のあたりまえの人と人とのつながりの中に 「生きているよ」 そうだ! 弱くてもいいし、何が出きるのでなくてもいい。 でも出きることは 自分もしてゆこう、 というような? なにか 生きてることの大きなあたたかいような何かに包まれたかのような? この質問の裏自体に、質問者様のそうした希求の深さが何か 連想しされ、私自身も何かを学んでいることを感じつつ 現在の私なりの回答を書いてみました。
- amaguappa
- ベストアンサー率36% (140/385)
生きていると強く感じなくていいところが、脳の平衡状態なんですが、 脳に、普段は要らない電気的回路ができてしまうような衝撃というのがあって、 精神的なショックとか、薬物の摂取とか、あるいは当人にしかわからない何かの出来事が引き金になって、 生きようとする本能が劇的に過敏になるわけなんだろうと思う。たぶん。 ふつうは、ホームから転落しそうになった瞬間に急行列車が通り抜けたとか、 転覆船で一週間生き延びて救出されたというような、ショックとその影響の程度の話。 しかし、脳にしつこく焼き付けられてしまったような、 つまり古傷になってしまったような脳の器質的な異常回路が、リストカットを引き起こすのであろうことは、 リスカ常習者がうつ治療などに成功したときに、自然にリストカットしなくなることから納得できます。 生を暴力的に自覚しないとならない精神状態を生んでいる脳というのが一般的(とされる健康)ではない、ということは言えます。 あなたの持たれた感覚は、その暴力の向かう対象----自分の腕でも配偶者でも芋虫でも----に本質的に生が消費されるという問題ではなく、 一種の幻想として、自分の脳が生み出している一過性のものだというほかありません。
- 来生 自然(@k_jinen)
- ベストアンサー率30% (80/261)
リストカットですか・・・ それは「生の消費」ではなく、自身の意識・心が、自身の体を切り離しうると勘違いしていることを、「勘違い」だと思い起こさせるからでしょう。。。 切断しようとしても、決して切断不可能な関連性・・・ 「生きている」とは、「思考内部での空想」ではなく、熱き血潮の巡る自身の身体と、周囲の人々との切り離せない関連性・・・ 「生きており、かつ、生かされている」 能動と受動との狭間・・・ リストカットは、まさに、関連性を完全に切断可能だと「誤認したとき」に為し得る行為・・・
消費されてるという表現は文学的過ぎて、突き詰めると袋小路に迷ってしまいそう。 単に、注意力が高まって存在をリアルに感じただけではないでしょうか? まあ、我ら凡夫が真に注意力を高められる時というのは、欠乏の危機の時でしかありませんから、質問者様のおっしゃることも間接的にありうるとは思います。
- heinell
- ベストアンサー率35% (420/1172)
では最初に立ち戻って「生きていると強く感じる時」。 これは「喜びを感じる時全て」です。 質問者さんはetc..で流してますけど、私はそれらに強く魅力を感じ、それを求め、得る事に喜びを感じます。 喜びを得るためには、当然生きてなきゃならない。 なんで、喜びを得るのに必要(重要)な生を強く意識するって発想です。 旨いもの食って「生きてて良かった」 … ありゃ。もう答え出ちまった。 わざわざ死ぬことなんか考えるまでもなかったわ。 というのが私の回答です。 質問者さんが喜びを感じる能力が低いのか? 私が喜びを感じる能力が高いと自惚れていいのか? それは解りませんけどね。
補足です。 船底一枚下は数十メートルの深さですから、その下は暗く深い闇、つまり「死」と隣り合わせということです。 救命胴衣を着けていたからといっても、命の保証はありません。 あまりにもあたりまえの感覚なのですが、念のため。
こんにちは。 >この、「死」の自覚の対極として「生」が強いコントラストで、自覚されたのでしょうか? 私はそのように思うことが時々あります。 非日常における、危険に身をさらしている瞬間。 mintarou1様の≪血の滴りが生の消費≫というくだりは、ちょっと私には、あまりピンとこないながらも。 私が女性だから? いえいえ、血の滴りは、やはり生の「消費」ではないと思います。 他のどんな言葉に言い換えられるでしょうね。 一枚の薄皮で覆われたその下には、縦横無尽に微細な毛細血管網がはりめぐらされているわけで、このことを私たちは、日常ではあまり意識せずに暮らしています。 むろん微量の血程度なら、過去に見慣れた類のものとして、特に気にも留めないでしょう。 でも、滴り落ちるほどの量ともなると、日常では殆ど目にしないはずです。 ですから「出血多量→死」という知識に直結し、その結果「死」の裏返しとして、「生」もまた強烈に感じるのではないでしょうか。 私が同じようなことを感じるのは、常に海上においてです。 家族とおんぼろクルーザーで機会があれば船出し、GPSを頼りにひたすら水平線を目指します。 船底一枚下は数十メートルの深さですから、たかだか31ftのクラスだと、いともたやすく波に翻弄されてしまいます。 錨一本垂らしているくらいでは、静止状態だと心許ないので、常に舵を切ったりしています。 横波を喰らうととても辛いのです。 非日常の場に身を委ねると、日常では思いもよらぬことを、ついボ~っと考えたりもします。 大海原に漂う自分たち人間が、何とちっぽけな存在なのだろうと。 日常の暮らし、人間目線で当たり前のように地球を捉えてしまっているのは、人間の驕りなのかな、とか。 実は自分の踏みしめている大地は海の半分にも及ばないのだな、などと 当たり前の価値観の逆転、ちょっとしたショックなどを、いつも味わっています。 他に日常/非日常における「生/死」を感じるときって、どのような身近な例が挙げられるでしょうね。 「ああ、生きているなあ…。」と洋上で強烈に感じる瞬間。 何もギラギラと焼けつくような、あの夏の日差しのせいだけではなかったのだなあと、今日の澄み切った冬空を見上げて想いを馳せるのです。
血は、生臭きモノなり。 鼻で、感じるモノなり。 感じるとは、生きているからこそのモノである。 死が漂うモノは、死臭なり。 若しくは、腐臭なり。 その臭いは、時間<トキ>に沿い、強くなって行くモノである。 生にせよ、死にせよ、いずれにしても、鼻で感じる臭覚なり。
お礼
. 鼻が悪くて、臭いを(あまり)感じない人は 生、死の感覚がないんですかね? .
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
ヘマトフィリアじゃないでしょうか。 人によって針を振るジャンルが違ってきます。 例えば鉄ちゃん。 ケーキ:1、若い女性:1、音楽:1、ボクシングの観戦:1、列車:1000。 このように好みが違い、ヌードをみても5くらいでも、血を見ると1000というふうに大きく針が触れるのは、個性じゃないか と。 その個性を哲学で解けといわれても、、、好みは哲学の領域ではないですし。 哲学ってのは普遍のものについて語るわけであって、個人によって違ってしまうものは、哲学のテーマにはならない。 嗜好じゃなくて生ってしたとしても、内容を見ると結局好みなので、哲学ではどうにもならないです。
お礼
. 回答ありがとうございます。 質問を読んでいただければ分かるように、 (これは、自分の個人的な感じであり、一般的でないかも知れません。 そういう方は、自分が生きていると強く感じるとき、の事でも構いません) と述べています。 自分は、「生」とは何か、を考えています。その考える材料が欲しくて質問の一例を挙げています。 ですから、回答者の「生きている」を強く、感じる場合をかいていただきたいというのも、大きい趣旨の一つです。 また、個性と言いますが、自分ではそうではないと感じる部分もあります。 例えば、なにか、驚くほど嬉しいときがあった時 「ほっぺをつねって、痛かったから、現実だと分かった」 という、話をよく聞きます。 「痛み」「現実」の関係に「痛み」「生きている」は、関係があるのでは・・・・との、感じも持っています。 そういう、考えも色々あります。 まあ、回答者の「生きている」を強く感じるとき、を書いていただければ、質問の趣旨に半分は合っていますので、宜しくお願いします。 .
- heinell
- ベストアンサー率35% (420/1172)
補足に関する回答です 献血でもしてるなら消費でしょうが、滴り落ちてるなら消失でしょう。 雑巾等でふき取ってゴミ箱行きか、風呂場等の排水溝から下水行きですから。 >強烈な「痛み」があります。 刃物で軽く切った程度ですし、血管を狙って切ってるので、痛みとしてはたいした事が無いです。 骨や筋肉・腱にまで及ぶほどの怪我ではないですし。 多分、満員電車でハイヒールの女性に踏まれて「骨が砕ける??」なんて疑いを持つ痛みほどではないでしょう。 #実際その程度で砕けるほど人間の身体はヤワくないのですが 経験無いんでわかりませんが、リストカット常習の人であってもなかなか出血量200cc(献血で抜かれる血の量)以上にはならないと思います。 200ccって言うと、小さい缶コーヒーの缶が190ccですから大体近い(400cc献血なら350cc缶より多い) 缶に水を入れて、だばだばだばと空けてみる時の量と同程度の出血をしているのか? まずそこまではなかなかいかないと思います。 さらに400cc献血ですら健常者なら耐えられる量です。 実際失血の致死量だと1.5リットルペットボトルクラスが必要だそうですが。 風呂場みたいな排水施設がない床に、そんだけの血を流したら、文字通り血の海ですもんね。 #急速になくなる失血ショックもあるので一概にも言えないでしょうが。 生と死を考えるならそれくらいが必要。 それはまず無いだろうと思います。 それを考えると、やはり「家事とままごとの差」くらいの遠さを感じます。 質問者さんの経験や感性・価値観などから、リストカットが魅力的に見えるという主張があるとして。 それはあくまで主観の話。 「どう思いますか?」と客観を求められたら、上記のように大したことは無いという人が多数でしょう。 私は例にゲームを挙げるくらいゲーム好きです。 人生の何パーセント?と言われたら結構な割合で評するんじゃないでしょうか。 一般に「ゲーム廃人」といわれるところでしょう。 でもそれが自分の主観であると理解しています。 私が今のゲーム好きの自分を考えるならば 「自分はゲームをによって生の実感を得ている。 それは他人がどう評価しようが、自分だけには揺るぎ無いの事実だ。 但し、ゲームをする事によって他人に対するデメリットがある。 他の人はゲームに価値を認めない方が大多数だろう。 自分だけで済ますにしても、仕事に支障があってはゲームを買えないし飯を食えもしない。 他人とはゲーム以外でも接点を持たねばならないので、ゲームの事だけを考えるわけにもいかない。 そういう問題点をどう解決して、自分の生の実感を感じつつ、社会で生きていこうか?」 こんな感じになります。 これをゲーム→リストカットに置き換える。各問題点なども同様にすれば発想点の違いが判るかと思います。 自分のやっている事を、他人に評価してもらって初めて納得できる程度では、まだまだ認識が甘い。 他人と評価が違う事が大前提。 その上で自分での評価を揺るぎ無きものにし、かつ他人との関連を阻害しない。 そこまでいって初めて「自分はこういう主観を持っている」と主張できるんだと思います。
お礼
. 回答ありがとうございます。 「血」の消費とは書いていません。「生」の消費と書いています。 消失を辞書で調べると「消えてなくなること」と書いてありました。 これを「生」に当てはめると、「生が、消えてなくなること」となり、「死」に近いイメージとなり質問の趣旨と異なります。 「生」をどうして、勝手に「血」に変更して解釈するのでしょうか? >刃物で軽く切った程度ですし、血管を狙って切ってるので、痛みとしてはたいした事が無いです。 骨や筋肉・腱にまで及ぶほどの怪我ではないですし。 どこに、軽くきったと書いてありますか? どこに欠陥を狙ったと書いていますか? どこに、骨や筋肉・腱にまで及ぶほどの怪我ではないと書いていますか? 回答者さんは、質問の内容を勝手に変えて、解釈する傾向があると思われますが・・・・ >生と死を考えるならそれくらいが必要。 >それはまず無いだろうと思います。 質問の趣旨が分かっていただけていないようです。 質問の趣旨は、「生」を強烈に感じるときはどんな場合か?ということです。 腕に傷をつけると言うのは、それの一例として示している(例)なんです。 腕を傷つける事が主でありません。足でも、太ももでも構いません。 >他人と評価が違う事が大前提。 質問を読んでいただければ分かるように、 (これは、自分の個人的な感じであり、一般的でないかも知れません。 そういう方は、自分が生きていると強く感じるとき、の事でも構いません) と述べています。 自分は、「生」とは何か、を考えています。その考える材料が欲しくて質問の一例を挙げています。 ですから、回答者の「生きている」を強く、感じる場合をかいていただきたいというのも、大きい趣旨の一つです。 また、主観と言いますが、はそうではない様にと感じる部分もあります。 例えば、なにか、驚くほど嬉しいときがあった時 「ほっぺをつねって、痛かったから、現実だと分かった」 という、話をよく聞きます。 「痛み」「現実」の関係に「痛み」「生きている」は、関係があるのでは・・・・との、感じも持っています。 そういう、考えも色々あります。 まあ、回答者の「生きている」を強く感じるとき、を書いていただければ、質問の趣旨に半分は合っていますので、宜しくお願いします。 .
補足
. 訂正 誤)どこに欠陥を狙ったと書いていますか? 生)どこに血管を狙ったと書いていますか? .
お礼
. 回答ありがとうございます。 おっしゃている内容が、多くの事を含んでいるので、全てにコメント出来ないので、数点に触れさせていただきます。 >『幸せとは何か?』という事の本質的な追求無しには 哲学はどんどん複雑になるだけではないか?ということです。 哲学は、基本的には知的探求です。 ですから、その範囲、を制限しません。制限すると、知的探求事態が制限を受けてしまいます。「幸せは」知的探求の一つなんですね。 複雑になるのは、学問の宿命だと思いますよ。 物理学も、力学、量子力学、天文物理学、・・・と別れて複雑化していますしね。 体験談は、とても参考になります。 なかなか、聞けない話なので、思索の参考にさせてください。 ありがとうございます。 .