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自分を見失った私の行き場とは?
私(男)は今まで「性格が悪い」や、「上から目線」と言われ、性格を良いほうに直せたら…と試行錯誤を繰り返しています。自分では上から…と気づいてはいますが、とっさの判断で上から物を言ってしまったり、相手にとってみれば不快なことを口にだしてしまうことがときどきあります。後々家で「あの時、こんなことを言ってしまって…相手は嫌だっただろうな」とか、「この発言、めっちゃ上から!」と反省会をしてるうちに、自分とは?とふと思いました。 性格について指摘されたのは1年前、中一の頃です。突然、友達から無視をされ、その後別の友人から「あいつはお前の上からな態度にしびれを切らしたんだ」と教えてくれました。事実、今まで私は人から好かれる、と言うようなことはあまり無く、友達も多くはないほうでした。その後も部活仲間の一人からも同じ理由で嫌われ、性格を矯正しなければ…と強く感じました。今では、調子に乗った時以外はそう上から目線は見えていないと思いますが(主観的意見です…)、同時にユーモアさを失ってしまいました。ジョークの言い方?冗談の受け取り方?空気の読み方?ツッコミ方?何もかもに戸惑い、周りの印象は小学校時代からの「軽くふざけたおもしろいやつ」から「冷静で物静かな人」と変わってしまいました。(4.5人からそのように言われました。) 私はもとの私でありたいと思っています。しかし、もうその面影はないと思うのです。今友人はクラスでも普通にいます。しかしそれは表面上の私であり、素の私を出したわけではありません。かと言って、素の私は同時に「上から目線」を出してしまうかもしれないし、実際面白い言い方も反応も自信がありません。正直、怖いです。もう無視なんてされたくありません。よく心理学にある「聞き手」という言葉も、相槌など、うまくできません。ふ~んで終わってしまい、「つまらない人」のレッテルを貼られているかもしません。ただ一緒にいるだけの、いわゆる「空気」にはなりたくないです。ですが今の私には友好な関係を築ける自信がありません。 自分とは…? 長文すみません。どなたか助言をお願いします。
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すみません、非常に長文です。 率直な意見ですが、ご質問からは「上から目線」な空気は感じられません。 感じられたのは思慮深さと、深い反省意識と自信喪失と自分が分からなくなってしまった悲しみです。 結論から言うと、最初から沢山友達が欲しいと思わなければいいのではないでしょうか。普通にいるのならそれで良いと思います。 小学生の頃の友達は、家が近かったり親同士が仲良かったりと、縁で繋がるものだけれど、中学に入って得る友達は、もっと自分自身の個性に訴えた内面的な繋がりが強いものだと思います。 無理に合わせるよりも、自分の内面と向き合って、自分の本質も大切にしながら、波長の合う友達を大切にしていくと良いと思います。 これから年齢を重ねる事に、友達は数よりも質になっていくと思います。 「上から目線」という表現は、一昔前はあまり使われていなかったと思います。 唯単に、「威圧的な人」だとか「手厳しい人」だとか…。 そして、これらの言葉は必ずしも悪い意味で使われてはいなかったと思います。寧ろ相手に対して一目置いていたり、ある種の尊敬の念を持って使われることが多かったと思います。 その意識背景として、一昔前は厳しい大人が多かった事実も挙げられるでしょう。 また、ここ一番と言うときに必要に迫られて堂々と発言する人に向かってまで、「上から目線」と責めるような人も以前は少なかったと思います。 威張りたいからではなくて、現状に危機感があるから おかしな流れを正したくて勇気をふるい、心を鬼にしてでも発言しなければならないとの意識から出たものであって、歓迎される事も多かったと思います。 物事は、唯々、周りに合わせていれば正解というものではないと思います。 いじめのように、多数決で反って良くない空気が作られる場合があります。 多数決に立ち向かっただけで、「上から目線」と判が押されるのだとしたら、そのこと自体危険なことに思えます。 昔の学校の先生は怖かったけれど、親は子を預けた以上は学校の方針に事細かく口出しすることもなく、モンスターペアレントという概念がなかったのは、その時代は「厳しい=悪」ではなかったからだと思います。 厳しさも優しさも来るものは拒まず的な時代だったのだと思います。 それは、厳しさも程々なら良薬だと考える人が多かったからでしょう。 今の時代から見ると厳しすぎる大人も多かったので、近年、ゆとり教育など様々な反省がなされてきたのだけれど、現代は厳しさに対して見直しをし過ぎて画一化が進んでしまった感も否めないです。 幼稚園の学芸会で誰もが主役で役割分担が不明瞭であったり、小学校の体育では逆上がりが出来なくとも放課後居残って特訓するでもなく、出来なければそのままで進級するなど、当の子供達にやる気があっても敢えて「頑張るな」とでも言いたいような、おかしなシステム運営があるのも事実です。 今は、社会全体が細かに人をコントロールしようとする意識が働いているので、質問者さんのように堂々とものを言う人にとっては、住みづらいのかもしれませんね。 はっきりものを言う人は、KYや冷血漢のように言われてしまいがちです。 優しさや気遣いは確かに必要だけれど、時代の流れなのか、競争を減らそうとした分いつのまにやら傷つきやすい人が増えて、今やはっきりものを言う人はまるで神経がないみたいに言い放つ人も増えて、その現象自体がどうなんだろうと考えさせられる場面が増えつつある様に思えます。 私は、「上から目線」という言葉にもKYを感じます。 本当の「上から目線」とは、人を人扱いしないような、蔑みや差別意識が顕わな態度を指すのだと思うのです。 「上から目線」の元々の意味は、「俺様は別格で、お前は屑」的対度を指していたと思うのだけれど、「上から目線」と発言者を無神経だ冷血だと叩く側も、必殺技のように安易に繰り出す前に、発言の内容を吟味してはどうだろうと思うのです。物事には両極の立場が付き物だと思うのだけれど、歩み寄りは、お互いが為すのでなければ無意味だと思います。 他人が発した言葉とは、自分の感性が下敷きになったものではないのだから、本当に相手の発言に差別意識があったのか、自分の思い込みが入ってはいないのか、そこを踏まえた上で意見するのでなければ、唯の自分語りになってしまうと思うのです。 ただ気に入らなかったり考えが合わないからと、「上から目線」と切り捨てるのであれば、切り捨てる側にも問題があると私は思うのです。 良薬口に苦しなのか、唯の悪意なのか、見極めずに一刀両断では苦言を呈した側は馬鹿を見るようで、どちらが冷たい人なのだろうと疑問に思えます。 昨今は物が豊かになったせいか、はたまた、訴訟の国アメリカの影響なのか、 「俺は傷ついた! 俺が傷ついたのはお前の責任だ!!」と騒ぐ人が増えた印象が私にはあります。 「傷ついた、傷ついた!!」と騒がれる側も同じ人間です。 何度も責められたら傷つかないわけはありません。 自分が傷ついていても、傷ついていない素振りを見せる優しさがあっても良いのではないかと私は思うときがあります。 真実や現状よりも、「高らかに発言した者勝ち」という現象は、言葉で誤魔化されているようで、何か歪みを感じます。 質問者さんが「上から目線」と烙印を押された事実よりも、「上から目線」発言のパワーの源が問題なのだと私は思います。 それが人を見下したい心、蔑みの心、事実をねじ曲げようとの虚栄心から生まれたのであれば問題ありですが、皆が向いている方向性に危機感や不安を感じ、一意見としての発言であったのであれば、とことん自分を否定しなくても良いと思います。 この場合は力量が足りなかったので、結果として人からは「上から目線」と取られてしまったということだと思います。 力でものを言わせてやろうと暴力的な野心があったのでなければ、「上から目線」とは言わないと思います。 内容が人からは歓迎されなかった、言い方がきつくて良くなかったということだと思います。 >小学校時代からの「軽くふざけたおもしろいやつ」から「冷静で物静かな人」と変わってしまいました。 小学校時代よりも、周りの皆も質問者さんご自身も、多感で繊細になったのでしょう。人から見た自分が気になってしまうのは、大人になって来ているからだと思います。小学生の頃よりも社会そのものを意識しているから、人と広く関わることに対して学習したい思いが芽生えているのだと思います。 今、貴方は中2で大人への入り口に立ったところです。 小学生時代とは違い、進路も自分で切り開いていかねばなりません。 将来に向けて、自分のことは自分で面倒を見ていく気構えが要求されます。 その様な流れもあって、自分の言葉に責任を持つ意識が出来てくると、言葉が慎重になっていくものです。 周囲も貴方に対して厳しくなって行きます。 それに貴方が応えようとするのは自然なことだと思います。 素の貴方が消えて無くなったのではなくて、少し大人になったと言うことだと思います。 貴方が自分のことを反省するのは良いことだし、過ちを犯したときはきちんと人に謝ることも正しいことです。 自分に甘いだけの人から「上から目線」発言をされては、誰も中身のある言葉だとは思わないことでしょう。 軽いだけの人間ではいたくないという思いが、貴方にはあるのだと思います。 沢山勉強をして、社会のことも、芸術のことも、若い内に関心を持ったことはどんどん吸収して、内面を深めていくと良いと思います。 私は、例え同い年であろうと年下であろうと、自身が一目を置く人からの言葉であれば、厳しい言葉を発せられても「上から目線」とは取りません。目を覚まして貰ったと思うので怨んだりしません。 ですから、切れ味鋭い言葉が必ずしもいけないことだとは思いません。 人を傷つけることが目的で、それを面白がる人からの言葉であれば最低ですが、中身が伴っていて責任もある言葉なら、価値あるものになり得ます。 でも、きつい言葉も相手を見てから言うものだと思います。 耐性は人それぞれ違うし、胸の奥まで刺さる人もいます。 傷つきやすい人には、鋭い言葉は言ってはならないと思います。 貴方の言葉で目が覚めたと思ってくれる人は友達で、去っていく人は深手を負った人、もしくは関わることを止めたいと感じた人ということです。 傷つけることが目的で言ったのではなかったのなら、深手を負った人もいつかは理解を示したり帰ってくることもあるかもしれませんが、そのような事が辛いのなら、その人その人の強さを見極めることは必要だと思います。 自分で自分は強くないとお思いなら、人には強すぎる言葉は使わないことだし、強い言葉を使うのであれば、人が傷つくことも自分が傷つくことも覚悟することだと思います。 人を傷つける言葉は、自分にも刺さりますから。
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- univ_mon
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こんにちは。先の方がいい事を書かれているので私は別の切り口で。 ユーモア感覚を失った事を悩まれていますが、 挙げ足取りでツッコミをするタイプでしたか? ツッコミは他者を落とす(傷つける)事で笑いを誘います。コンビ仲間や 置物ならまだいいですが、友人が相手なら、心ない一言が思わぬ攻撃力を 持つ事も少なくないと思います。もし軽くふざけた面白いやつ でありたいなら、お笑い芸人でも誰でもいいので、誰も傷つけなくても (自分の傷を面白おかしく語ることで)笑いを取っているボケ側の人を よく見てください。 あと、素の私や表面上の私という言葉に捕われすぎないように注意して ください。言葉というのは認識を作ると同時にそこにありもしない枠を 生んでしまう物ですので、私の内に生んだ素とか表面とか奥とかの概念 に縛られて、本来の"私という全体"を見失わないようにしてくださいね。 今の瞬間から正反対の行動を初めたって私は私ですから、 (周りから見たあなたは変わるかもしれませんが"私"は変わらず、 過去から色んな面を持って生きてきている"この私"ですから) 「私が何であるのか」 は置いといて(それは問わずとも記憶が知っています) 私が今何をしたいのか、そのためにはまず身近な何をするのか、 挨拶か、笑顔か、ボケの研究か、学習の基礎たる学校の授業か、、、 そうやって少しずつ私の思う私に近付いていってください。 ちなみに誰もが思わずつっこんでしまうような柔らかさが備われば、 面白い人と言われるようになると思います。 参考にならないかもしれませんが。
お礼
笑いのツボ、ボケ側から頑張って探ります!ご回答ありがとうございました。
- heartmind
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中2ですか。思春期真っただ中って感じですね。驚きました。すごい分析ですね。きっと頭がいいのでしょう。 客観的自己と主観的自己で葛藤が起こっているのですね。 しかし考えてみてください。もとの私って。それが素の自分って思っているかもしれないけど。自分は自分でしかないのだろうけど。でもその自分だって結局は自分が思っているだけの相対的なものなんです。最も原始的な自分が自分だと思いたいなら赤ちゃんのままでいいわけです。大切な様でそんなに大切ではない。大切で無い様で結構大切なんです。 忘れてはいけないのは思春期には皆まよっているんだということです。汚れるのがこわいのは自分だけじゃないということです。 お友達を信じることを忘れないでくださいね。
お礼
とても勇気づけられました。信じる、忘れていたように思います。早速のご回答、ありがとうございました。
- buri050
- ベストアンサー率36% (7/19)
これだけ人間がいれば多種多様です。 その性格でも問題なく友達はできます。 無視する人がいたそうですが、よかったんじゃないですか? それは本当に友達と呼べる人じゃなかったんですよ。 こんな自分でも友達だと言ってくれる人を大切にした方がいいかなと。 家に帰って反省できる。偉いじゃないですか。 そのあと、「ごめんなさい」って謝りました? 謝罪しないで反省会だけだと意味がないです。 確かに、上から目線で言葉を吐いて不愉快にさせた。 でも家に帰り反省して翌日に謝った。 これで離れていくなら友達じゃないんですよ。 ただの知り合い、顔見知りと同じです。 人間欠点があって当然です。 何も行動しなければ空気ですよ~。
お礼
自分の中だけで納得ではいけませんね。謝ることもやっていこうと思います。早速のご回答、ありがとうございました。
お礼
とても考えさせられました。なんだか勇気が出てきました。丁寧にご回答いただき、ありがとうございました。