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自分を突き詰めれば、自分でない感じがする。

. 自分の本質は何か? と突き詰めるために、こんな思考実験をしてみました。 まず、自分の足の親指を切り落としてみます。 それで、足の親指と、身体本体と比べてどっちが自分の感じがするか? 当然ですが、身体本体が自分である感じがします。 次に、足を切り落とす、腕を切り落とす、 それで、胴体と頭の部分と、切り落とされた手足とどっちが自分の感じがするか? やはり、胴体と頭の部分が自分である感じがします。 さらに、胴体と、頭を切り離します。 (この場合、頭には血液とか、栄養を送り生きている状態に出来ると仮定します。) その場合、まだ、胴体より頭が自分である感じがします。 さらに、頭部を脳とそれ以外に切り離します。 こんな、思考実験を続けると、自分とは最終的に意識の残っている方に自分の本質が有るという気がします。 つまり、極端に考えると、意識こそ自分の本質で身体という物質は自分という意識を入れている容器な様な物だ。 という、所に行き着くのです。 しかし、ここに自分はすごい違和感を感じます。 物質である身体の部分を切り離すにつれて、身体を通じて入ってくる情報はなくなります。 暑い、痛い、美味しい、・・・これが、どんどん消えていきます。 それって、自分なんだろうか?外部から、信号が入ってこない意識に意識の存在意義はあるのか? つまり、自分は、自分の本質を突き詰めれば、突き詰めるほど自分でない感じがするのです。 これって、凄い矛盾していないか?と思うのです。 まだ、思考をしている最中で混乱もあるのですが、皆さんは、この矛盾についてどう思われますか? 意見を聞かせてください。 .

みんなの回答

回答No.3

「自分」であって、「自分」ではないでしょう。 逆に、以下のような考え方もできます。 皮膚表面とか爪とか毛とか、生きてはいない細胞だけれど、それらがなければ、とくに皮膚表面の角質がなければ、生きてはいけない。さらに言えば、衣類も生きていくのに必要であり、どのような衣類を着るかということは、自身のアイデンティティとも関連してくる。 目が見えにくくなってメガネをかける。そのメガネは目の水晶体と一体になって機能している。 臓器を人工臓器(たとえば人工心臓)に変えられた人は、その臓器が無ければ生きていけない。 歩くことが困難になった人は、杖を使ったり、車いすを使う。目が不自由で、杖を使う人は、杖の先までが、自身の感覚の範囲になっている。 これら人工物(メガネ、人工臓器、杖、車いす)を、自身(のもの)ではないとして排除しえない。 さらに、多くの生命を介して、食することができ、排泄物が処理され、生きているわけです。 すなわち、「わたし」という概念の境界が、ずんずんと外側へ広がりはじめます。 おっしゃるように身体を切り離し、脳のみへと縮小し、さらには、精神的な意識へと無限に縮小していくとき、自身が消失するような感覚を抱きますが、上述のように、外側へと拡張していくとき、宇宙全体との一体感をも感じることができます。 どこに「境界」を設定するのか? このことは、逆説的に、それぞれが「自分」という概念をどのように捉えるかにて、決まるのだと思います。 それは、無意識のうちに自身の一部となっていて「かけがえのない」と感じうるところのもの、すなわち、「(他とは)交換不可能」なもの(たとえば、職人にとっての「腕」とか、料理人にとっての「舌」とか、思い出のいっぱい詰まった箱とか)をどう捉えるのかによるのだと思います。 自分の境界は、自分の思い・考えによって、自在に動く そういうことだと思っています。

mintarou1
質問者

お礼

. 回答ありがとうございます。 自分という存在の輪郭(この言葉でいいのかな?境界の方がいいのかな?)は、設定せず、逆に、輪郭はどこにあるか探す為の「思考実験」でもありました。 今回の「思考実験」では、輪郭はぼんやりしたものだ。という感じを持ちました。 どうも、「意識」というものを考えるのに、体を部分から落としていく方法では、良くなかったとい気もしています。 今度は、方法を変えて、「意識」に迫ってみようかと思います。 その時も、回答お願いします。 とはいえ、k_jinenさんの、意見はいつも参考になります ありがとうございます。 .

noname#194289
noname#194289
回答No.2

頭というのはもともと身体がちゃんと動くために働くのが役目である神経細胞の塊でした。ところが余分の細胞が出てきて体と直接関係がないことを始めるようになりました。これが自分というものだと思います。しかしこのような余分の細胞もほかの細胞の助けがなければ生きていけません。いわばひきこもりの人が家族の助けがなければ生きていけないのと同じです。貴殿の思考実験の途中で自分というものがだんだん消滅してくるのは当然だと思います。つまり余分の細胞が依存できる細胞がだんだん減ってくるからです。養老孟司さんが書いておられることだと思います。

mintarou1
質問者

お礼

. 回答ありがとうございます。 言っていることは、その通りだと思います。 ただ、自分の説明が不足していたのかもしれませんが、 >つまり、極端に考えると、意識こそ自分の本質で身体という物質は自分という意識を入れている容器な様な物だ。という、所に行き着くのです。 と書いてあるように、意識にポイント置いて思考実験したんですよ。 意識というものは、脳から発生しているという証明は、出来ていないんですよね。 (個人的には、脳と関係はあるが、脳から発生しているのは、疑問をもっています。) それで、「意識」に対する考察としては、今回の「思考実験」は、方法が良くなかったのかな?という気もしもしています。 ありがとうございます。 .

noname#98811
noname#98811
回答No.1

禅僧が座禅の修行をしますと、 痛くて辛くて眠くて何が何だかわからなくなるほど身体が追い込まれるといいます。 痛いのが自分なのか、床板が痛いのか、庭の石が痛いのかわからなくなるそうです。 昔、パートナーであった禅僧がそんな話を聞かせてくれました。 単純明快な人でしたから、それだけのことなのですが、 それはどうやら、 庭の風景を見てはいけないけれども見ているような、いや見ていないような、 自分が風景の中にあるような、いやそんな雑念は余計なことのような、 つきつめれば「地」と「図」がわからなくなるということのようなのです。 だまし絵などで言われる「地」と「図」という言葉はおわかりですか? 背景と模様の関係といったもの。 つまり、自分という図が浮かび上がって存在しているつもりが、 地も図も同じ階層でひしめいているものになってしまい、存在がそこに埋没してしまうのですね。 自分の「在る」ところは肉体の外側なのか、 松だったり瓢箪池だったり鳥だったりするのが自分なのか、 それとも、それらを一切消滅させたところに自分が残るはずなのか、 でもそうしたら地も図もすべて消えるのではないか。。。 水の上に、風が吹くと、波がたつ。 肉体という水の上に、霊・魂という風が吹くと、意識という波がたつ。 命が尽きるとき、風が止み、波がおさまり、水は静かになる。 そんな話もしました。 チベットで るん と言われる風でしょうね。 自分という1人の力ではこのダイナミスムは起きず、とても大きなところ古いところから、続いているのでしょうね。

mintarou1
質問者

お礼

. 回答ありがとうございます。 興味深い話ですね。 僕の場合、思考実験で突き詰めて考えた結果の認識なんですけど、それは実体験の話ですからね。 人間の、不思議さ、奥深さを改めて感じました。 .

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