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自分を突き詰めれば、自分でない感じがする。
. 自分の本質は何か? と突き詰めるために、こんな思考実験をしてみました。 まず、自分の足の親指を切り落としてみます。 それで、足の親指と、身体本体と比べてどっちが自分の感じがするか? 当然ですが、身体本体が自分である感じがします。 次に、足を切り落とす、腕を切り落とす、 それで、胴体と頭の部分と、切り落とされた手足とどっちが自分の感じがするか? やはり、胴体と頭の部分が自分である感じがします。 さらに、胴体と、頭を切り離します。 (この場合、頭には血液とか、栄養を送り生きている状態に出来ると仮定します。) その場合、まだ、胴体より頭が自分である感じがします。 さらに、頭部を脳とそれ以外に切り離します。 こんな、思考実験を続けると、自分とは最終的に意識の残っている方に自分の本質が有るという気がします。 つまり、極端に考えると、意識こそ自分の本質で身体という物質は自分という意識を入れている容器な様な物だ。 という、所に行き着くのです。 しかし、ここに自分はすごい違和感を感じます。 物質である身体の部分を切り離すにつれて、身体を通じて入ってくる情報はなくなります。 暑い、痛い、美味しい、・・・これが、どんどん消えていきます。 それって、自分なんだろうか?外部から、信号が入ってこない意識に意識の存在意義はあるのか? つまり、自分は、自分の本質を突き詰めれば、突き詰めるほど自分でない感じがするのです。 これって、凄い矛盾していないか?と思うのです。 まだ、思考をしている最中で混乱もあるのですが、皆さんは、この矛盾についてどう思われますか? 意見を聞かせてください。 .
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- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
回答番号:No.6 いろいろな観点からmintarou1さんの実験試行を見られてのご回答ですね。 私は禅宗図書的勉強をし、今は全存在をインド発祥の思想・哲学の勉強と精進にしています。 それからだと、mintarou1さんの実験試行は、どなたかが欠かれている、心身脱落であり、その方法としての心頭滅却です。 そしてイエスの、五体満足で地獄に舞い戻りするのは常人だ。手足を自己と思うな、という教えに近いですね。 しかしこれは私たちのプラナヤマ(意識と生命、forceの自己統括)の修練でして、頭の中の観念ではありません。 従いまして、創造やイメージではなく、きちんとご縁の方にめぐり合って、本当におやりになることが肝要でしょう。 日本の禅宗の方法と修行は本家よりも優れ、これくらい私たちの心性と生き方にあったものはないと存じます。 私は本と二、三の恩師・友人の知己しかありませんが。 矛盾云々など、次元の異なることです。 実際にその中に入れば、みなさんのご意見を俟つ事ではないと存じます。 あぁ、頭と胴体は扱いは別に為りますが、自然に肉体を超えます。 離脱では在りません。他人にもなりません。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
1つ大きな点を忘れておられるようですが、あなたが思考の中で扱っておられる 「肉体」というのも、あなたの意識(=宇宙)の中のものに過ぎないのです。 最新の量子論的世界像において、有限な存在性は観測される事によって 生じています。 全ての存在は、量子的な不確定性に基づいており、無限につめ込むと 存在確率の山が平らになって、無と等しくなります。 この「絶対無=不確定性無限」において、その無限のゼリーの中に、 仮想的な認識体の断面を切ると、その認識体にとって、相補的不確定性を 伴う存在による宇宙が見えます。 無の不確定性無限の潜在たる「認識可能性(=自我仮説性)」に対する、 相補的対発生としての「時空仮説性」。 全てのものは、あなたが存在するための(物理的根源にまで遡った) 補完なのです。 (あなた(心)とは感受システムのことであり、宇宙の果てまで届く相互作用の連鎖)
お礼
. どこかで読んだことのある、文章だと思って探したら 「死について」の質問スレッドに書いてある内容と似ているんですね。 コピペですか? 質問者が ありがとうございます。ですがごめんなさい専門家の言葉は難しすぎて理解できません・・・簡単に理解できるように答えて頂けたらよかったのですが・・・ と書いておられます内容を、今一度、検討して、分かりやすい文章で再開込みされる事を希望します。 物理学者のファインマンさんが、 「素人に分かるように説明できなければ、本当に理解していることにはならない。」と言っています。 .
NO9 です。 ご丁寧なお礼を頂きありがとうございました。 前回答では貴思想実験の意義などについての項をはしょったような回答になってしまったことをお詫び申し上げます。 >自分という存在の輪郭はぼやけたものだ >身体の部品が自分の本質への関与度(以下本質への重みと言います。)にすごい差があります 自分と言う存在 と 自分の本質。 自分の本質への関与度。 このあたりの整理がしっかりなされれば、更に深い認識が開けてくるのではないかと私は思うのですが、どんなものでしょうか。 私の思いとしては、 自分と言う存在:自分が世界の中に占める他人との境界線内のすべて。 これは自分の着ている(自分の気に入っている)スーツとか、いつもつけているめがねとかそういった自分の所有に帰しているものも含まれるかもしれません。もちろん定義によって様々切り分けられますから、ぼやけているのが当然です。これは、しかし自分の本質とは違いますよね。 自分の本質:これで質問者様の仰りたいのは、いわゆる アイデンテティ でしょうか。自分が他人とはっきり区別できる、自分が自分たるゆえんのもの、自分の独自性というものではないでしょうか。私も、これは「意識」に近いものになるような気がします。端的に言って「自分はAという一人の人間なのだ」という意識ですね。これは多分、貴方の脳内にある記憶そのものだと思います。人文学的にはしょっていえば免許証にある貴方についての記述、認証番号がすべてです。 自分の本質への関与度:ですから、外面的に、意識的に言えば、他人から見て自分を区別できる最大の認証手段である「顔」が大きな関与度を持っているのはうなずけることですね。 ご参考まで。
お礼
. 回答ありがとうございます。 >自分と言う存在 と 自分の本質。 自分の本質への関与度。 >このあたりの整理がしっかりなされれば、更に深い認識が開けてくるのではないかと私は思うのですが、どんなものでしょうか。 それは、自分も感じてて、整理し、もう少し思考する必要はあると思っています。 ただ、自分の身体の部品を落とすという思考実験では、「意識」に迫る方法としては、適当かな?という疑問もあって、今は「意識」に迫る思考方法に興味が行っています。 それは、時間を見つけてもう一度考えるつもりです。 (次は、補足へ) .
補足
. >端的に言って「自分はAという一人の人間なのだ」という意識ですね。これは多分、貴方の脳内にある記憶そのものだと思います。 これは、少し考えてみました。 しかし、「記憶を、自分の本質」と考えるには、何か、「ズレ」というか、「違和感」の様なものを強く感じました。 それで、この違和感の根っこを探る作業をしてみました。 まず、記憶についてネットで調べると、記憶は様々に分類する考え方があることが分かりました。 それを、一つ一つ取り上げるわけにはいかないので、代表的と思われる考え方を選び、 「エピソード記憶」と「意味記憶」に分けられると言う、考え方で、検証してみました。 [エピソード記憶] 自分の体験に関わる記憶。 例えば、家族旅行に行った記憶。感情が付随するもの。 [意味記憶] 体験に関わりのない記憶。 例えば、試験のために覚えた歴史の記憶。今の消費税が 5% である。等の記憶 ということです。 そうすると、「意味記憶」を、自分の本質とするのは、違うだろうと、感じます。 次に「エピソード記憶」ですが、これは、個人特有のものなので、自分の本質への関与が大きいと感じましたが、何か違和感があります。 さらに、思考を進めました。 体験の記憶は「意味記憶」と異なり、自動的に記憶の保存庫に保存されるので、この「自動的」という部分に、自分の本質への関与度が 低い気がします。 僕たちは、行動を起す場合、過去の記憶を参照した上で、行動を決める場合があります。 ここで、行動を起すために、過去の記憶を呼び出そうとした「何か」、記憶を元に、次の行動を決めた「何か」、この「何か」に、自分の本質の重みを強く感じるのです。 ・ ・ ・ 実は、「記憶」について思考して、かなりの困難を感じています。 それを、具体的に深化・整理するには、多少の時間(と体力?)が、かかるので、誤魔化しっぽいのですが、途中に関わらず、結論めいたことを書いてしまいました。・・・もう少し、思考します。 さて、頭部から、脳以外の部分を外すことで、かなりの喪失感を感じたことですが、質問者さんは、 >意識的に言えば、他人から見て自分を区別できる最大の認証手段である「顔」が大きな関与度を持っているのはうなずけることですね。 と書いています。僕の説明が足りなかったのかもしれませんが、僕は、自分の消失感の原因を、外部から信号の減少として説明しています。 つまり、顔を失うことで、信号の入力が大きく減少する感じがあるということなんです。 具体的には、目から映像信号がなくなります。耳からの音声信号がなくなります。鼻から・・口から・・・ と言うことで、顔は、様々な、大きな信号の入り口なんです。 多くの信号が、消失することで、自分の本質の消失感が、増大したと言うことです。 もう一度、提示したURLの「脳地図」を参照して、僕の考えた所を理解ください。 (質問者さんの、区別の最大の手段を否定するものではありません。) それにしても、「理解」という事を考えるのにも、相当エネルギーを使います。 あまり、いじめないで下さい。 .
hrk5 です。 >回答内容で分からない点があるのですが、 Q 考え=意識 本体=身体という物質 という、理解でいいのでしょうか? A本体とは行為の主体の事で、考えとはその行為の元となっている基礎といったようなものでしょうか。 Qまた、分離し始めている とは、具体的にどのような事を指しているのでしょうか? Aお考えになられている事柄が、率先して主体的に、自ら進んで、とてもできることではないのではないでしょうか、と言う意味です。そして、それを率先的であろうがなかろうが、それをやることは絶対勧められないという意味です。 補足回答頂ければ助かります。 . 以上補足いたしました。 尚、専門家から一般人と致しましたのは、ご質問の内容が、ごく一般的な観点から回答可能のものであったからです。
お礼
. 回答ありがとうございます。 前回の、主張の意図が分かりました。 参考にさせていただきます。 .
>意識こそ自分の本質で身体という物質は自分という意識を入れている容器な様な物だ。 物質である身体の部分を切り離すにつれて、身体を通じて入ってくる情報はなくなります。 暑い、痛い、美味しい、・・・これが、どんどん消えていきます。 それって、自分なんだろうか?外部から、信号が入ってこない意識に意識の存在意義はあるのか? つまり、ここに「自分」のすべて、あるいは本質が現れているのではないでしょうか。 私には矛盾とは思えません。 自分とは、喜び、悲しみ、5感のすべてで生きているという感覚を発生し、また同時に感受している実体のある容器、いっぴきのいきもの、総合体なのだということでしょう。 質問者様の文章を読ませていただいた私の偽らざる印象、実感です。 ご参考まで。
お礼
. 回答ありがとうございます。 偽らざる印象・実感ということは、解釈論ではなく、(感情の)事実なわけですから、その事への言及は致しません。 ただ、質問では書いていないのですが、他に感じたり、分かったりしたことがあります。 その補足説明が有意義な情報となると思うので、その辺を書いてみたいと思います。 例えば、#3の回答へのお礼でも書いたように、自分という存在の輪郭はぼやけたものだ。との認識を持ちました。 さらに、面白いとおもったのは、身体の部品が自分の本質への関与度(以下本質への重みと言います。)にすごい差があります。 手の親指と、足の親指では、手の親指を切り落としたほうが喪失感が強いです。 自分の言い方だと、手の親指の方が足のそれより、本質への重みが大きいという表現になります。 さらに、自分を驚かせたのは、頭部から顔を外したときでした、一瞬クラッとするほど、喪失感が強かったです。 身体の部品の中でも、本質への重みがより大きいと感じました。 それで、自分の本質への重みの大きさで身体を再構築するといびつな形になります。 それで、思い出したのが、ペンフィールドの作った脳地図です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%93%E6%80%A7%E6%84%9F%E8%A6%9A これと、ずいぶんに似ているな。と思ったわけです。 思考実験で認識した、身体の輪郭が、科学の世界で作られた脳地図の身体の形と似ているのは、驚きがありました。 これも、思考実験で得られた成果だと思っています。 参考までに .
- fishbowl66
- ベストアンサー率29% (36/121)
痛そうな思考実験ですね。 羊羹を切るのとは、ちょっと違うようですが。 そういえば、たこ焼きは、切ったりせずに、アッツイのを一口で食べるのが、 アッチッチ・・舌が痛い・・・ 失礼しました。 さて、思考実験の結果、矛盾が生じてきた。 「正しい手順を踏んで正しい状態から生起することは、何であれそれ自体正しい」 上記の仮説を一応信じておくと、前提とか手順に誤りがあった事になります。 この種の困難は、生命科学とかで「生命とは何か」と単細胞生物とか、構成要素の細胞とか、さらには、核酸のような高分子化合物とかに焦点を深化させていくと、いつの間にか「生命」が欠落していく、という現象と同様のものでしょうね。 これに関しては、二つのとり組み方があって、一つは方法論、つまり手順が正しいかどうかと言う問題です。もう一つが、前提がそもそも間違っていないのか、と考えてみることですね。 方法論を分かりやすく喩えれば、自分というものが、羊羹のような構造なのか、たこ焼きのような構造なのかによって、食べ方を変えると言う事でしょうか。 前提に関しては、心身二元論の身体の中に自分がいるという前提を再度精査することでしょうか。 例えば、唯脳論に対抗した、大森庄蔵は「無脳仮説」で感情まで外部世界に返還していますし、超越論的仮像を利用して、そもそも自分は存在しない、と解釈することもできます。 この件に関して、一番判りやすい思考点は、 こうして質問に回答したり、何かに集中したりしている時には、自分はどこにもいない・・・ つまり、つねに自分が身体のなかにいるわけではないということが、直接的に理解できることがあると思うのですが。 ご参考になれば幸いです。
お礼
. 回答ありがとうございます。 実験して、身体のあちこちがズキズキ痛い感じがしています。 この手の実験は、あまりやるもんじゃないと実感しています。 (良い子は、真似しないで下さい。って感じですかね。) さて、本題ですが、 >「正しい手順を踏んで正しい状態から生起することは、何であれそれ自体正しい」 >上記の仮説を一応信じておくと、前提とか手順に誤りがあった事になります。 という事ですが、僕はその後色々考え、考察結果の受け取りに方にも問題もあったのではないか思っています。 つまり、「前提、手順、結果の解釈 に誤りがあったのでないか?」と3つの誤りの可能性を考えたのです。 大森庄蔵氏の「無脳仮説」は、知りませんでした。 意識の正体は、まだ科学的に分かっていないので、色々な仮説があって当然なのですが、仮説の成立条件としては、「現実の現象を説明できる事」だと思うのですが、氏の「無脳仮説」も(深くは検証していませんが)現実を十分に説明できる感じがします。 ということは、氏の「無脳仮説」が、意識の正体を説明している正しい説になる可能性もあると思います。 自分の中で、モヤモヤしていた部分が、「無脳仮説」を持ち込むことで、すっきりする感じがします。新しい、情報ありがとうございます。 ただ、氏の「無脳仮説」を持ってきてしても、身体の部分を落とす事で自分が消滅していく感じは同じなので、その説でも、「矛盾?」はカバー出来ないと思います。 質問者が、いみじくも提示している様に、 >この種の困難は、生命科学とかで「生命とは何か」と単細胞生物とか、構成要素の細胞とか、さらには、核酸のような高分子化合物とかに焦点を深化させていくと、いつの間にか「生命」が欠落していく、という現象と同様のものでしょうね。 というように、自分という存在は、焦点をを深化させていくと「自分という存在」が欠落して物だと思うのです。 つまり、「矛盾ではなく、矛盾と思い込んだ自分に誤りがあった。」という感じが、日々強くなっています。 どちらにせよ、疑問を突き詰めていきたいという熱に変化はないので、色々考えていきたいと思います。 質問者の提示していただいた、大森庄蔵氏の「無脳仮説」は、意識を考える上で前提の一つとして、参考にしたいと思います。 ありがとうございます。 .
補足
. すみません。後で気になったのですが、 >例えば、唯脳論に対抗した、大森庄蔵は「無脳仮説」で感情まで外部世界に返還していますし、超越論的仮像を利用して、そもそも自分は存在しない、と解釈することもできます。 >この件に関して、一番判りやすい思考点は、 こうして質問に回答したり、何かに集中したりしている時には、自分はどこにもいない・・・ こういう説明では、じゃ「リラックス」している時、はどうなんだ? と疑問がわいてくるのですが、氏の論では、この場合はどう説明しているのでしょうか? 補足回答頂ければ、助かります。 .
それは、考えと本体が分離し始めていることによる矛盾、違和感であるとおもわれ、私はとても勧められない。
お礼
. 回答ありがとうございます。 回答内容で分からない点があるのですが、 考え=意識 本体=身体という物質 という、理解でいいのでしょうか?また、 分離し始めている とは、具体的にどのような事を指しているのでしょうか? 補足回答頂ければ助かります。 .
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
mintarou1さんはこれを思考実験で経験されたのですか? 私たちは深奥にいる自己にいくように、日々の行をしております。 その最初は、異なる自己になる事の戸惑いと、たじろぎがありました。 しかし異なる自己になることでないが、異なる世界に入る事ではありました。 しかしそれを敢えて踏み越えて、行じます。 進歩したか、向上したか。 自己が異なる自己になったかどうか。 投稿することを慎みます。そして、なお、矛盾という思いには到りませんでした。 空漠はいろいろ教えてくれますが、違和感というものはありません。 それは一定の段階のときを過ぎると、徐々になるからかも知れません。 私たちは戒められていますが、mintarou1さんがなされた、私も単なる思考の段階でしかないのかもしれませんね。 キリスト教のバイブルにも、手足がそろっていて、火葬場でやかれることよりも、手足がなくて永遠の境地に一体になれ、というような文句があったと聞いています。 ご質問のことはとても、低い私には長年月の行と観念のあり方努力が必要なことでした、そして今も必要な事です。 たった一つの事柄なのに、地上に生きる人間にはたくさんのことがある問題ですね。 全部を言えませんので、問われるままにお応えします。応えられることには。
お礼
. コメントありがとうございます。 何かの行をされているのでね。具体的には書いていただいていませんが、宗教的な行を通じて得られた認識と、哲学で考えて行き着いた認識と一致することがあるという事を、少なからず聞きます。 そういう話を聞くと、哲学の思考の有意性が確認できるようで嬉しく思います。 でも考えてみれば、僕の場合、心の動きを詳細に観察し、そこから推論を重ねていくという作業を続けていくので、行で得られる認識と一致する事があるというのも、納得できる気がします。 (哲学では、自分が亡くなれば宇宙が消滅すると考える論もあるのですが、現実との整合性の検証を十分行っていないと思えるので、僕はこのような論を好みません。) 今も、色々思考しているのですが、自分とは何か?と考えると考えた先で、深い闇におちいる様な認識があり、戸惑います。 やはり、人間はそれ自体が宇宙なのかもしれませんね。 今後も、色々意見を聞かせてください。 宜しくお願いします。 .
どうもです (*^^)/ また、出て来ましの私だよ。ストーカーちゃいますからね(^^) 本題行っきま~す♪ あなた様は、アニメ「攻殻機動隊」見た事、有ります? 無い場合、オススメしま~す★ 興味深いよ (*^^)/ 「自分とは」の本質探究に、ますます火が、ボォボ~に成ると思う、な♪ 社会情勢も面白いけど。 根本には、他のご質問の方(心と体の繋がり)にも、ご紹介したけど、なのね。 それは、 アーサー・ケストラーの「機械の中の幽霊」っていう本なんだね。 私は、まだ読んでいないけど。 機会が有れば、どぅぞです (*^^*) 私個人の意見は、「脳」に本質有る思う、な。 アインシュタインの脳が、保存されているのって、あれは、何故!?と思うもん。頭の良し悪し見る為じゃないよね、多分?
お礼
. あなたが、ストーカーなのは知っています。 この前も、電信柱に隠れたり、コンビニの看板に隠れて、僕を見ていたのを知っています。証拠として、写真もとってあるので、何か僕の身にあったら、写真を警察に提出するので、覚悟していてください。 しかし、僕は、他の人が驚くほど心が広いので、紹介してもらった本は目を通してみたいと思います。 ただ、一言だけ。 本質になればなるほど、分かりにくいものですよ。 自分の本質が分かりにくいように・・・ .
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
>>つまり、自分は、自分の本質を突き詰めれば、突き詰めるほど自分でない感じがするのです。 これって、凄い矛盾していないか?と思うのです。 真なる我(真我)と仮の我(仮我)の問題に踏み込んでいるのですね。こういうとわかりずらいかも知れませんので言い換えますと、精神の私と肉体の私との区分の問題といえばよいでしょうか。 肉体の私を少しづつ削って行くと最後は肉体の私はなくなるが精神としての私は肉体があるがごとく存在するという問題ですね。この境界線が生死の境の問題でもあるのですね。 これは仏教では自我(真我=精神の自分)と仮我(肉体の自分)とよんでいます。道元禅師は自我が肉体の自分から抜け降りるという感覚を「身心脱落」といってますね。字の通り自分の身(肉体)から心(精神としての自分)が抜け落ちるという意味ですね。 こういうのを参考にすると2つの自分が存在するということが不自然ではないことがわかりますね。 何十人か何百人に一人ぐらいは肉体の自分と精神の自分の接着ぐあいが少しゆるい人がいるのですね。それで一般的な肉体が全てという感覚に疑問を持ち始めるのですね。霊体質と呼ばれる体質ですね。 まあ、私もその一人ですから肉体と精神はどちらも自分ですが張り合わせですね。張り合わせの自分に気付き始めたということでしょうね。だから矛盾ではないのですね。むしろそれが人の本質だということですね。
お礼
. 回答ありがとうございます。 自分の本質を探す思索が、仏教とか、霊的な事と関係が有るとの指摘には驚いています。 再考の、参考にさせていただきます。 ありがとうございます。 .
お礼
. 回答ありがとうございます。 インド発生の思想・哲学を勉強しているのですね。 それから見た、感想は参考になります。 ありがとうございます。 .