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私はどんな種類の馬鹿ですか

球技のスポーツなどで瞬時に的確に判断して体を動かす芸当などは逆立ちしてもできません。数えきれないパターンの何でもない会話に対する何でもない的確な答えを瞬時に探して答える芸当なども逆立ちしてもできません。空気を読むという作業はその辺のことでしょうか。それとも空気に念力が入っているのでしょうか。直観はその念力を読むことでしょうか。それとも、物理学カテでも質問したのですが時空のゆがみと関係しているのでしょうか。馬鹿の自覚はあるのですが、どの辺のどのような馬鹿かをとても知りたくなりました。バレーボールで大きな声を出し合うと、波に乗れるというのは本当でしょうか。もっと冷静になった方がいいのでは、うるさいだけじゃないかと思っていました。すみません。データーが少ないかもしれませんが、分析していただけたら幸いです。

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noname#99640
noname#99640
回答No.10

度々失礼します。 あまり自虐的にならないで下さい。 私も自己嫌悪の地獄に落ちた事がありますが 人間バカなもので、時が経つとその自己嫌悪も忘れてしまい、また愚かな事を繰り返してしまうものです。 愚行に愚行を重ねて・・・ 人間そんなもんじゃないですか・・・ でも、自分を責めてばかりいるのも考えものだと思います。 人間完全じゃないからそうなってしまうのだと思います。 自分という不完全な人間を造ったのは自分のせいだけでは無いはずです。 責任逃れでは無く、客観的にそうなのだと思いますが・・・ 自分というバカな一人の人間を預かっている、という気持ちではいかがでしょう。 自分というバカな人間を大切にする事を忘れないで頂きたいと思います。 (何度もバカという言葉を使って大変失礼しました)

heartmind
質問者

お礼

ありがとうございます。すみません。 そんなに落ち込んでない気がします。 またナナネッセさんに書き込みしてしまいましたから。 何かあの人極端で面白いんですよね。 バカはずうずうしいから、落ち込まないんですね。

その他の回答 (9)

noname#96920
noname#96920
回答No.9

人が何か言うとき嫌味に感じるときがあります。 「言い方の嫌味の有無」と「内容の嫌味の有無」 4通りできますが3通りは嫌味に感じます。 その嫌味に反応する訳なのですが、問題なのはそれを「曲解」と言ってしまうことです。 自分にその気が無くても言い方や内容に嫌味が含まてしまっているかもしれません。

heartmind
質問者

お礼

まさに、図星かもしれません。ありがとうございます。

noname#99640
noname#99640
回答No.8

>どういったところがどういう風に馬鹿なのか・・・ 野球の選手なんかは100何十kmかで飛んで来るボールを打つ事ができます。 また、動物写真家はカワセミが魚を捉える瞬間を撮影できるそうです(今は連続撮影なので楽みたいですけど) こんな事は一般の人にはとてもできませんね。 動態視力に超がつくぐらいでないと無理でしょう。 一般人の能力をはるかに超えた世界です。 能力の限界を壁みたいなものに例えてもよいと思います。 知力や体力を含めた能力の範囲です。 その範囲が狭いことを馬鹿というのでしょう(当たり前ですが・・・) なんでこんな事が分からないんだ、馬鹿だなお前は・・・ と、よく言いますね(私も昔よく言われた・・・) 壁の向こう側まで範囲の広い人の言う言葉です。 馬鹿な子供ほどかわいいとか 先生と言われるほど馬鹿じゃないとか 馬鹿につける薬は無いとか 馬鹿は死んでも直らないとか 親馬鹿、子馬鹿とか どの言葉も人の能力を暖かく見守る目があるように感じます。 人それぞれ千差万別に能力があり、壁があり、馬鹿の程度があると思います。 その違いの判断も人それぞれなのでしょう。 私が、俺も馬鹿だな~・・・というと、友達が言うのです やっと分かったのか。。ずいぶん時間がかかったな~。 もっと早く分かりそうなもんだ・・・。と。 こんな感じで馬鹿同士になってみると楽しいもんです。 それでは。

heartmind
質問者

お礼

ありがとうございます。ちょっと休んでました。 脱線しますが、御容赦願います。 哲学カテの「恥をかくことは恥ずかしいことではない」を見てください。恥ずかしながら、私の発した言葉によって、確実に私に親切にしてくれた方を傷つけたのだと、そおいう実感をまったく思いがけなく初めて経験しました。この種類の自己嫌悪に自分はどう対処していいのかわからないほど、まごまごし動揺を隠せませんでした。人の気持ちを考えるなどという、いやらしいことは一切したくないのだと思い込んでいただけで、いつも人の顔色をうかがって、行動している張本人だったのです。そして、私はさらに間違いを犯しました。ズタズタに傷ついた体の治療目的に、また理論武装をはじめたのです。これでどうだ、と言わんがかりに、得意満面にその方々の上の上の壇上にたって、まるで神の様にふるまい、施しを与える様子を演じ、うなだれさせていい気になろうとしたのです。ここまで恥をさらすとかえってもう何も怖くなくなりました。「私は馬鹿だ」と道化になって、そうだね本当に馬鹿だね、という人をいい気になるなと、またその上から見ようとしていただけかもしれません。私の理論はいつもふらふらしていて一貫性などなにもなく、いろいろな面で矛盾点が露呈しておりますが、かといって嘘と見当たるものもなく、ブロジェンンヌ様の言葉を借りれば、正にばか丸出しの意地の残骸だけが、世のもの笑いのように、ただそこにあわれな白状そのものなのです。 理想をもとめすぎていたかと思うと、ふっと冷めて臆面もなく冷静に分析し、自分でも疑うほどの虚構なのか真実なのか、 ただただ、途方に暮れ、なさけないばかりです。 今はもう、こうやって言葉を書くことさえ虚飾にすぎなくおもえてしまいました。 皆様のご指摘どうり、もう一度リアリズムを考えてみると、もしリアリズムが自分の嫌な面を認める為にあるというのなら、ただそれだけのためにあるというのなら(これも意地なのですが)受け入れます。

heartmind
質問者

補足

しかし、人が悲しむことを、悲しむのはそれは疑いもなく人の本性ではないだろうか、その逆説はあるはずはないのだ。 自虐がもてはやされるのは、そこにある意味潔さを見るからで意地悪な気持などは、これっぽっちもないのではないだろうか。 火事場のヤジ馬は、ただ燃焼具合が見たいだけであって、ただ火というものみ見せられているだけではないだろうか。 人の不幸や恥辱をあげつらう番組はメディアが視聴者の心理を勘違いしているからではないだろうか。 私のあの時の最後の理論武装は、偏見というものに対する、ある意味、乱暴な挑戦だったのかもしれない。努力しても、求められる能力がないのが、アスペルガーなのです。努力して克服できる人はアスペルガーではないのです。問題と思わずに個性とある意味認識しないと未来はないのです。世の中にはありとあらゆる受け入れがたい偏見がありますが、それは個人の努力の限界を超えたものがあります。 本当の人間個人のリアリズムの正体は人間の経験や文化的価値観からくる偏見や思い込みからであって、それは悪意からではなく、疑いもなく善意からだと思うのです。 どちらが、どちらに合わせるべきというのはやめて、もう少し違いを認めあるくらいの柔軟性を求めてはどうなのだろう。 しかし、社会構造の合理性からくるリアリズムはやはり疑ってみる必要があると思います。民主主義の多数決少数派偏見社会や、資本主義の搾取理論武装社会は、対峙こそ尊敬につながるをもう一度改めて考えたいと思います。ニーチェはリアリズムの正体をもっと慎重に分析すべきだったのではないだろうか。 不快な思いをさせたかもしれないご回答者の皆様はやはり私には他山の石だと間違いなく認識しています。 ありがとうございました。

回答No.7

heartmindさん、こんばんは。 前回の回答を投稿したすぐ後で、「質問の回答をお礼欄で書かれなくてもいいですよ」と付け加えなくてはと思いました。というのも当方の質問は、回答しようとすると、回答者のデリケートな気持を、こういう誰が見ているか分からないサイトに曝すことになるからです。ですから「ご自分の回答はプライベートにしておかれるといいと思います」と付け加えるべきだったかもしれません。 それでもお答えいただいたQ1については何らかのご返事を差し上げなくてはと思い「作成者の気持ち」をお返しします。 一般的に言って、質問に答える(または「応える」)とき、「頭で答える」質問と「こころで応える」質問とがあると思います。Q1は後者の「こころで応える」質問だと思います。つまり質問文を分析しても仕様の無いものだと思うのです。つまり「回答」はあっても「解答」がない質問です。その質問への回答は「今まで生きてきた人生の重みをかけて応える」回答になるはずです。 どちらが悲しいか、正解を選ぶのではなく、「こちらの方が悲しみが深い」と「選び取る」のです。その判断の基準は己の人生経験ということになります。 「歌を忘れたカナリヤの悲しみ」は「喪失感」です。「忘れる歌さえなかったカナリアの悲しみ」は「空虚感」や「焦燥感」でしょう。もともと比べるのに次元が違うものです。そのどちらかを選ぶかは、それぞれの誰にも代わりが出来ない己が人生を歩んできているその当人の判断です。だからどちらを選んでも正解です。もっともその「正解」は「誤答」の反対語ではありません。 ですから「少しひねった」質問と申し上げたのです。 その他の質問もひねってあります。ご自分で回答を出されてみて、その「回答を出す過程」を観察してみてください。今回のQ1では「頭でっかち」のひとはいろいろと答えを出そうとうろうろします。挙句heartmindさんのように疲れてしまうかもしれません。一方、「こころで感じた」ひとには案外簡単な質問だと思います。ただ、「always best answerか?」となると少し時間をかけて考える必要はあるかもしれませんね。 他の残りの質問の回答を寄せられても結構ですが、「あぶり出される」のはいい感じがしないかもしれません。ここの「お礼欄」を利用なさるのはよく考えてからにしましょう。 Q2の回答はモンゴメリの『赤毛のアン』に書いてあります(ただし新潮文庫版)。そしてこれも正解はありません。回答を出したひとの「ひととなり」があぶりだされるだけです。 それでも「お礼欄」で「回答」を寄せられれば「乗りかかった船」ということでお付き合いはしますが…。 花に嵐のたとえもあるぞ。さよならだけが人生だ。そういう考えもあります。よしなに…。

heartmind
質問者

お礼

実は昨夜自分を馬鹿だと公言する人間ほど嫌悪感を覚えるものはないとの指摘を身近な人からもらい、だいじょうぶだったかなこの質問と少し心配し反省してしまいました。(まぐまぐでもぎりぎりなのかな?) しかし、逆にその嫌悪感の心理に興味をもったのですが。(何か昔、友達に同じようなことを言われたことがあるのですが、その時も理解できなかったことを思い出しました)、もしわかったら、教えてください。 逆に自分よりずっと若い人が頭がすごく良かったりするとうれしくなるのですが、みんなそうだと思っていました。それも違うのかな。 もともと、欠点を分析するのが、好きではないのですが、自分だったら遠慮がいらないかなと思ったのが間違いのもとでした。ある架空の人物という設定で質問するべきでした。 馬鹿という表現は、そう言った意味でやめて、「修業中の身」という言葉に置き換えたいと思います。 ご回答をよまさせててもらって、 >「歌を忘れたカナリヤの悲しみ」は「喪失感」です。「忘れる歌さえなかったカナリアの悲しみ」は「空虚感」や「焦燥感」でしょう。 これが答えだと、すぐにわかる人はすごく頭がいいと思います。 答えがないと言われていますが、ある意味これ答えですよね。 Q2からQ10まで、良かったら教えてくれませんか? ここで私が回答すると、また、あまり良くないかも知れませんので。

  • pokupu
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回答No.6

もう一度失礼します。 相手がどう思っているか、どうしたいか、ということがわかるのは、 自分が相手と同じ立場だったらこう考えているだろう、と想像しているからです。 この人はこういう性格だからこう言ったんだろう、とか会話しながら考えられますか? 質問やそれに対する返信で 何となくアスペルガーの特徴と似た感じを受けました。 (素人判断なので間違っていたら申し訳ないです) 日常の生活でも困る、ということなら、 一度心療内科やカウンセリングへお話しに行ってみたらいかがでしょう。

heartmind
質問者

お礼

ありがとうございます。 自分が相手と同じ立場だったらと想像して考えて行動して失敗したことありませんか。相手のことを全て知っている、などとそんな傲慢なことがなぜ言えるのか不思議でなりません。しかしそういう人はきっと私よりかなりそういう能力があるのだという認識もあるのですが。私は最近アスペルガーということにあまりこだわらなくなりました。つまり、人には様々な弱点がありその弱点の一つぐらいに思えてきたのです。逆にその弱点の内容を分析したくなったのです。 そんなに困っていないと思います。ありがとうございます。

回答No.5

heartmindさん、こんばんは。ご質問を「私はどの程度の馬鹿ですか」と読み間違え、よく読めば「どんな種類の馬鹿」かと聞いているとわかり、ムムッ、これは「ただものではない」と感得し、少しひねった10の問いを用意しました。ずいぶん昔に作った質問です。答えて頂けるとどんなタイプの「馬鹿」か自動的にあぶり出てくる仕組みになっています。 <リトマス試験紙的ないくつかの質問> 以下の質問に簡潔かつ率直にご回答ください。質問の内容を確認する質問はご遠慮ください。質問に使用される言葉の定義はあなた自身のもので結構です。 回答の内容について:言葉は、それを発する相手が誰かとか、どういう時に発せられたかで、同じ質問に答える側のこころの振幅の幅で揺れ動きます。以下の質問に対しては、あなたのこころの奥底から出てくることばをご記入ください。たとえば深夜、眠りに就いたおり、ひとりで闇を瞳め深く自分と対話するとき、ご自分に対し今もこれからも変わらない(と思う)、こころの核となる「ことば」があると思います。そのことばでご記入ください。では、始めます。 Q1.「歌を忘れたカナリアの悲しみ」と「忘れる歌さえなかったカナリアの悲しみ」はどちらが深いと思いますか。 Q2.あなたにとって「感受性が鋭い」ことはいいことですか、それとも悪いことですか。そしてそれはどうしてですか。 Q3.ご自分の人生で「もうこれ以上のときはない」と思える瞬間が必ずあると思いますか。もしくはもう経験されていますか。 Q4.あなたが生きていくにあたって最も大切にしているものは何ですか。具体的なものでも抽象的なものでもかまいません。 Q5.今生きているこの世界とは違う世界があると思いますか。 Q6.生きていることと死んでいることの本質的な違いはどこにあるのでしょう。 Q7.思いは必ず通じるものだと思いますか。 Q8.人が死ぬとこころや魂はどうなると思いますか。 Q9.人と人は完全に分かりあえると思いますか。または分かりあえたと思えるときがあると思いますか。あなたの今までの人生ではどうですか。 Q10.愛についてあなたの定義を教えてください。                            ありがとうございました。 ※回答として「何」を「どう」答えるか。これがポイントです。お悩みください。

heartmind
質問者

お礼

ありがとうございます。では、やってみます。 Q1.「歌を忘れたカナリアの悲しみ」と「忘れる歌さえなかったカナリアの悲しみ」はどちらが深いと思いますか。 この際、カナリアだから歌=旋律でいいですね。名前は問題ありませんから。またカナリアを少し擬人化してみないと話もすすみませんね。悲しみの深さの問題ですから。 前者のカナリアは、その歌の存在は忘れていないのでしょうか? もし存在を忘れてはいなくて、どんな歌だったのかだけを思い出せなく大変その歌に思い入れがあったことも忘れていなかったのだったら悲しいですね。 ・存在 ・旋律 ・思い入れ 歌を忘れることを3つにわけて仮定して考えると、 まず存在だけ忘れることは、ありません、存在を忘れたら他の2つも同時に忘れています。 旋律だけは、ありえそうです。 旋律と、思い入れもありえそうです。 思い入れだけも、ありえそうです。 これに、 存在すらなにも覚えていない。 を追加して、 まずこの中で一番悲しみが深そうなのは、やっぱり「旋律だけ」かな。 逆に、悲しまなさそうなのは、「存在すらなにも覚えていない」かな。 次は後者ですが、「忘れる歌さえなかったカナリアの悲しみ」 この場合も、 この世に歌という存在があることを知っているか、否かという前提も必要ですね。 また、「歌さえなかった」の解釈も、3つに分かれると仮定して。 ・歌という存在をしっているが自分には歌を所有することができなかった  ・歌う能力があったが旋律を知らない為、歌さえない。  ・旋律を知っていたが、歌う能力が無いため、歌さえない。  ・旋律も、歌う能力も知らない為、歌さえない。 ・歌という存在も知らなかった。 この中で一番悲しそうなのは、  ・旋律を知っていたが、歌う能力が無いため、歌さえない。 これにしといて、 悲しくないのは、 ・歌という存在も知らなかった。 これ すみませんあとは補足で答えさせてください。休憩します。

heartmind
質問者

補足

最後に、前者の二つ 悲しい  「旋律だけ覚えていない、思い入れはある」 悲しくない「存在すらなにも覚えていない」 と後者の二つ 悲しい  「旋律を知っているが能力が無い為歌を所有したことがない」。 悲しくない「歌という存在も知らなかった。」 悲しくないどうしは、何か似てきましたね、なんか全然悲しくないです。 悲しいどうしは、一見すると前者がより悲しそうですけど、いや 前者は、 美しい思い出だけが残って、それがどんなメロディーだったか忘れただけで、 後者は、 この世にあらゆる美しいメロディーが存在することを知っていながらそれを口ずさむ能力がない もう一回本題にもどって 「歌を忘れたカナリアの悲しみ」と  美しい思い出だけが残って、それがどんなメロディーだったか忘れた 「忘れる歌さえなかったカナリアの悲しみ」  この世にあらゆる美しいメロディーが存在することを知っていながらそれを口ずさむ能力がない これは、どちらもメロディーを聞く楽しみが残っている可能性は捨てきれませんね。しかも前者は一つのメロディーだけ忘れてあとは覚えているという解釈もできますね。そおいう解釈だと後者の方が悲しいといえそうです。しかし前者の解釈が全てのメロディーをわすれたという解釈だったとしたら、喪失感はなはだしいわけですから、やっぱり前者の方が悲しいでしょうか。 ということで、状況がもう少し状況がはっきりすると、もうすこし答えもはっきりしてくると思うのですが、すみません。疲れました。

回答No.4

周りとの一体感とか共感とかいうものですかね。 他と一体になるなんてことはないんだから、 結局、そういう風に信じるに達するってことだね。 人間、得意不得意はあるんだから、その馬鹿の自覚を放置しても 大丈夫と信じることだと思うね。 いいんじゃないの、バレーボールの波に乗れないくらい、自分に乗れてさえいればさ。

heartmind
質問者

お礼

ありがとうございます。大丈夫なんですけど、ちょっとどんな風な馬鹿なのか知りたくなってしまったのです。

noname#99640
noname#99640
回答No.3

私も時々思うのです。 自分という人間の壁みたいなものがあって、その壁の向こう側の事が分からない 分からないと感じる事が馬鹿という言葉になって浮かんできます・・・ ご質問者様ご安心ください。 誰も馬鹿なのです。 本当の馬鹿は自分を馬鹿だとは思わないでしょう。 自分を馬鹿だと言える人は馬鹿ではないんですから・・・ 私も少し安心しました。 私だけでは無いという事のようですので・・・。

heartmind
質問者

お礼

ありがとうございます。そうですね。しかし、どういったところがどういう風に馬鹿なのかが知りたくなりました。

  • gldfish
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回答No.2

スポーツ能力も、気の利いた会話も、日々の積み重ねだと思います。 いつも様々な形で体を動かしている人は、どうすれば最上級に無駄なく「そういう風に自分の体を動かせるのか」が直感的にわかってきます。 いつも物事を敏感に捉え、それについて深くじっくり考えていれば、その時々に合った的確な情報やアイデアがその中からピックアップされ、またさらにそこから発展され、会話や仕事などにおいてとっさに出てくるのです。 それは生まれながらの「天性」などとは違います。 もしheartmindさんが人より何かの能力が欠けていると思うなら、それはもしかしたらそういう「日々鍛錬(積み重ね)するクセ」が欠けているからなのかもしれませんね。 バレーボールで大きな声を出し合うのは、そういった「能力」がある前提で、その「能力」をいかにより引き出すかの話であって、別次元の話ですね。元々バレーの下手な人が、掛け声を出される事で上手い人になる訳ではありませんので。

heartmind
質問者

お礼

いつも物事を瞬間に捉えることですね。そしてそれについて深くじっくり考える。瞬間に捉えることと、深くじっくり考えることは、私には同時にできそうにありません。瞬間に捉えてから、深くじっくり考えるという作業はどのくらいのスパンが望ましいのかを考えなければなりません。そのとらえた瞬時のことを一日深く考えていたら、一年で365個のパターンしか頭に入っていきません。もし「日々鍛錬(積み重ね)するクセ」がもっと必要なら望ましいスパンを考えることが必要なのでしょう。どれくらいがいいのでしょうか。

  • pokupu
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回答No.1

空気を読むというのは、 相手が今どう思っているのかを知り、それに合った対応をすることです。 質問者さんが馬鹿かどうかはわかりませんが、 想像すること自体が苦手なように感じました。 相手がどう思っているか、何をしてほしいのかなど、考えながら行動してますか?

heartmind
質問者

お礼

相手がどう思っているのか、何をしてほしいのかが分かる人は、天才だと思います。なぜわかったの?と聞いてしまいます。そうすると答えは、決まってんじゃんとか、見ればわかるじゃんとか、明確な答えではなく、大変曖昧な答えが返ってきます。確率的なことを言っているんでしょうか。そういうので私は、結構失敗しているんですけど。やっぱり天才としか思えません。

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