こんばんわ。
私は、自称「歴史作家」です。
>>何百年も昔の話になりますが、どうしてお寺って権力が弱くなったのですか?
まず、回答から先に述べますと、少なくとも、江戸時代までは、決してお寺の権力は弱くなってはいません。
むしろ、現代の方が「無信論者」などが多く、衰退している、と言った方が正しいかもしれません。
(1)日本への仏教伝来は、「上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ=聖徳太子の伝記)」や「元興寺伽藍縁起并流記資材帳(がんこうじがらんえんぎ ならびに るきしざいちょう=元興寺縁起)」では538年に伝来したと記されており、歴史の教科書などではこちらが主流。一方、「日本書記」では552年とされています。
(2)やがて、聖徳太子が593年に摂政となり、斑鳩(いかるが)に法隆寺を造立、607年に完成。
(3)その完成以前の604年に「17条憲法」を制定し、その第2条に、
「篤く三宝を敬え、三宝とは仏、法、僧なり・・・」
と、書かれてあります。
(4)この法隆寺の建立から、日本の仏教は大いに発展しました。
(5)まずは、聖徳太子の教えを今も伝えるのが「太子信仰」と呼ばれる人々です。こうした人々は鎌倉時代から徐々に勢力を広めていった親鸞の唱える「一向宗(浄土真宗)」とほぼ同時代に隆盛を迎え、「太子信仰(太子講)」の人々は「寺院建築」や「灌漑」「治水」「鉱山開発」等の「特殊技能」を持つ集団として「太子衆」と呼ばれ、各地で活躍しました。
現在でも、「太子衆」はいますし、聖徳太子を祀る神仏混合の「寺?」「神社?」も存在します。
(6)その後は、仏教も日本古来の神道と融合し、日本独自の発展をし、平安時代では「加持」や「祈祷」などで朝廷などの権力者に「寺領」などを与えられ優遇されました。
比叡山延暦寺が創建されるにあたっては、麓の「日枝神社」が地鎮祭を行っています。
また、律令制における朝廷の権威を知らしめるために、聖武天皇が東大寺に奈良の大仏(東大寺大仏)を造立したりしました。
(7)鎌倉時代などでは、日蓮宗などの新興宗教は弾圧を受けましたが、親鸞の一向宗(浄土真宗)は隆盛を極めました。この宗派は、ただひたすらに「念仏」を唱えるだけで極楽浄土へ行ける、との「他力本願」ではありましたが、民衆に広く浸透して行きました。
(8)しかし、この一向宗は、余りにも民衆に広まり過ぎて、やがて、戦国時代に入ると、一向一揆などが多発するようになり、信長を初めとする戦国大名や土豪たちに、盛んに攻められるようになりました。
(9)一向宗自体には、決して、権力者に反抗する教えはありませんが、教義の中に「同朋(どうぼう)」と呼ばれる、集団的自衛権を目指す片鱗も見られ、巨大化した信仰集団は各地の大名や土豪たちの「いじめ」の対象にされました。
(10)また、信長は、「自らが神である」と豪語して、仏教を嫌い、僧侶が本来の仏に仕える身分を越えて、権力を得ようと「僧兵」などで武装し始めたため、元亀2年(1571)9月12日に比叡山の焼き討ちや一向宗弾圧を全国に指示しています。
まあ、仏教の「衰退」と言えば、この信長の時代位でしょうか・・・。
(11)江戸時代になると、再び、寺は隆盛を迎え、将軍家より、ある意味では宗派に関係なく庇護が与えられています。
将軍家でも浄土宗の芝増上寺や天台宗の上野寛永寺などを菩提寺としています。
(12)明治新政府により出された神仏分離令(正式には神仏判然令)。慶応4年3月13日(1868年4月5日)から明治元年10月18日(1868年12月1日)までに出された太政官布告、神祇官事務局達、太政官達など一連の通達の総称に基づき全国的に公的に行われたためと、今日の科学的な理論が「迷信」などを排除したため、寺は昔ほどの勢いはなくなりました。
(13)しかし、初詣などでは、やはり、心の拠り所を求めて、また、「厄除け」「葬儀」(神式や無宗派などもありますが)「お盆」などでは活躍しているのではないでしょうか。