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日本の歴史に詳しいですか?

歴史に詳しい方、教えてください!! 何百年も昔の話になりますが、どうしてお寺って権力が弱くなったのですか? 私の考えは、 武家政治だったため、寺が武家にやられた。 お寺、というか僧侶が宗教とか作る →農民が信仰する →当時の政府(幕府?)に反発する(一揆など) →幕府(武家)が寺を攻撃 →時間の経過とともに武器も強いものになるため農民側(寺側)が勝てなくなった かなぁ??と思ったんですが、間違っていますか? 理由がわかる方、教えてください!! よろしくお願いします(>_<)

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回答No.4

こんばんわ。 私は、自称「歴史作家」です。 >>何百年も昔の話になりますが、どうしてお寺って権力が弱くなったのですか? まず、回答から先に述べますと、少なくとも、江戸時代までは、決してお寺の権力は弱くなってはいません。 むしろ、現代の方が「無信論者」などが多く、衰退している、と言った方が正しいかもしれません。 (1)日本への仏教伝来は、「上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ=聖徳太子の伝記)」や「元興寺伽藍縁起并流記資材帳(がんこうじがらんえんぎ ならびに るきしざいちょう=元興寺縁起)」では538年に伝来したと記されており、歴史の教科書などではこちらが主流。一方、「日本書記」では552年とされています。 (2)やがて、聖徳太子が593年に摂政となり、斑鳩(いかるが)に法隆寺を造立、607年に完成。 (3)その完成以前の604年に「17条憲法」を制定し、その第2条に、 「篤く三宝を敬え、三宝とは仏、法、僧なり・・・」 と、書かれてあります。 (4)この法隆寺の建立から、日本の仏教は大いに発展しました。 (5)まずは、聖徳太子の教えを今も伝えるのが「太子信仰」と呼ばれる人々です。こうした人々は鎌倉時代から徐々に勢力を広めていった親鸞の唱える「一向宗(浄土真宗)」とほぼ同時代に隆盛を迎え、「太子信仰(太子講)」の人々は「寺院建築」や「灌漑」「治水」「鉱山開発」等の「特殊技能」を持つ集団として「太子衆」と呼ばれ、各地で活躍しました。 現在でも、「太子衆」はいますし、聖徳太子を祀る神仏混合の「寺?」「神社?」も存在します。 (6)その後は、仏教も日本古来の神道と融合し、日本独自の発展をし、平安時代では「加持」や「祈祷」などで朝廷などの権力者に「寺領」などを与えられ優遇されました。 比叡山延暦寺が創建されるにあたっては、麓の「日枝神社」が地鎮祭を行っています。 また、律令制における朝廷の権威を知らしめるために、聖武天皇が東大寺に奈良の大仏(東大寺大仏)を造立したりしました。 (7)鎌倉時代などでは、日蓮宗などの新興宗教は弾圧を受けましたが、親鸞の一向宗(浄土真宗)は隆盛を極めました。この宗派は、ただひたすらに「念仏」を唱えるだけで極楽浄土へ行ける、との「他力本願」ではありましたが、民衆に広く浸透して行きました。 (8)しかし、この一向宗は、余りにも民衆に広まり過ぎて、やがて、戦国時代に入ると、一向一揆などが多発するようになり、信長を初めとする戦国大名や土豪たちに、盛んに攻められるようになりました。 (9)一向宗自体には、決して、権力者に反抗する教えはありませんが、教義の中に「同朋(どうぼう)」と呼ばれる、集団的自衛権を目指す片鱗も見られ、巨大化した信仰集団は各地の大名や土豪たちの「いじめ」の対象にされました。 (10)また、信長は、「自らが神である」と豪語して、仏教を嫌い、僧侶が本来の仏に仕える身分を越えて、権力を得ようと「僧兵」などで武装し始めたため、元亀2年(1571)9月12日に比叡山の焼き討ちや一向宗弾圧を全国に指示しています。 まあ、仏教の「衰退」と言えば、この信長の時代位でしょうか・・・。 (11)江戸時代になると、再び、寺は隆盛を迎え、将軍家より、ある意味では宗派に関係なく庇護が与えられています。 将軍家でも浄土宗の芝増上寺や天台宗の上野寛永寺などを菩提寺としています。 (12)明治新政府により出された神仏分離令(正式には神仏判然令)。慶応4年3月13日(1868年4月5日)から明治元年10月18日(1868年12月1日)までに出された太政官布告、神祇官事務局達、太政官達など一連の通達の総称に基づき全国的に公的に行われたためと、今日の科学的な理論が「迷信」などを排除したため、寺は昔ほどの勢いはなくなりました。 (13)しかし、初詣などでは、やはり、心の拠り所を求めて、また、「厄除け」「葬儀」(神式や無宗派などもありますが)「お盆」などでは活躍しているのではないでしょうか。

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  • tan34
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回答No.6

これには何百年という荘園の歴史が根源にあります。そもそも寺社が何故力を得たか。これは長くなるのですが、広大な荘園を得た事にあります。荘園には独自の裁判権や警察権が認められていたため、実質所有する寺社の支配地になっていきます。また信徒、宗徒に金融業を行わさせ、上納を得るようになり、土地支配、経済活動を通じて社会を支配しました。それが室町時代となり、社会のだけど経済が活発になるにつれ、遠隔地の支配ができなくなり、代理人に請け負わせたりするようになります。そして戦国の世になり、各地の大名は土地、経済を直接支配するようになり、京の寺社勢力の支配力は大いに衰えました。でもまだ根強い力を持っていました。信長の上洛は京の公家、寺社に大きな衝撃を与えます。信長は天皇や上位公家寄りの政策を行いますが、権利関係の錯綜した畿内においては混乱し、損をする公家や寺社勢力もあらわれます。信長は武力により抑えますが、最後は不満勢力に担がれた明智満秀にころされます。荘園を解体し、寺社勢力の息の根を最終的に止めたのは秀吉です。彼の太閤検地により地方勢力は否定され、荘園も無実化します。 ごくごく簡単に説明しましたが、荘園の消滅による収入の激減、といったところでしょう。

回答No.5

この理由は明確にわかっています。 No.1さんの説明にもあるように、織田信長の存在が決定的です。 彼の時代まで、寺社勢力というのはヘタな大名よりも圧倒的な武力と財力をもっていました。その財力の部分を楽市楽座政策によって打破し、政治介入への権威を比叡山焼き討ちによって地に落とし、その武力を一向宗との残虐なまでの根切りでたち切ったのです。この、宗教に対する政治介入の拒絶という基本政策は秀吉、家康へと引き継がれます。特に、家康は法度を定め、寺社奉行という織を設けて徹底的に管理しました。それ以降、仏教は葬式を司って、死んだ祖先を管理するという本来の仏教とはまったく違ったことだけをする団体となり、社会への影響力を喪失します。 しかし、今の世界情勢を見るに、これほど宗教が社会に影響を及ぼさない国は日本だけと言っても過言ではありません。世界標準から見て異様です^^。ただ、善悪を冷静に判断すれば、私はこの点に関しては織田信長に感謝しています。 世界が早く、宗教なんかないと思ってひとつになれるようにイマジンしましょう^^

  • tanuki4u
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回答No.3

質問の時期を、戦国時代から江戸時代への流れの中でということと理解しました。 大きな歴史の流れで言うと、中世から近世に変わったと言うことになります。 日本史における中世というのは、中央政府がしっかりしていないで、各自頑張ってくださいという時代。 ひとりじゃ話にならないので、集団を組みます。「社団」という概念で説明しているのが http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/464202669X.html この本です。 いろいろある「社団」の中に寺社があります。 一向一揆とか、延暦寺の僧兵とか、武力を持った集団です。 寺社の社団とか、武士の社団(これが戦国大名)などの、組織同士が、どっちの組織がいいのよ?と生存競争をしたのが戦国時代であるとも言えます。 そして、生き残った、組織が戦国大名で、近世大名として生き残りました。 争いのない(争いの決着の付いた)社会として、江戸時代が始まります。 信長の天下布武ってのも、武士が天下を治めますという宣言だったという説もあります。

  • ESE_SE
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回答No.2

別に「単に武士に負けたから寺社が弱くなった」という単純な構図ではありませんね。 武士が新しい武器を持ったら同じ武器を寺社側も持つ事も可能ですから。 寺は宗教施設であると同時に、昔から集会の場、地域の学問の場でもありました。 そのため集団で武装を行う時には寺社が中心になる場合が多くありました。 一向一揆や石山本願寺が好例ですね。 信長の比叡山焼き討ちも宗教弾圧ではなく「宗教を主軸とした反織田武装勢力」の討伐だったというのが最近の通説かと思います。 さて信長に限らず、その時代の前後の施政者は宗教勢力に悩まされていました。 信長の石山本願寺攻略では鉄甲船という新兵器の開発を待つ必要さえありました。 こういった寺社勢力対策は幾つかありますが、ひとつは ・寺院の強制移動による住民と寺院との親交断絶(「寺町」の創出) これは豊臣秀吉によって行われましたが、ご存じの通り豊臣政権が2代目で滅んでしまったため有用性は確認できません。 さらに別のもので言えば ・巨大宗教勢力の内部分裂に介入して分裂を助長 これは徳川家康により行われました。 当時日本最大の宗教勢力であり石山本願寺をも擁した浄土真宗。 ここで跡目争いが発生した際、家康はこれに介入して本願寺(西本願寺)と同規模の寺院・東本願寺を建立しました。 結果、現在に渡るまで浄土真宗は本願寺派(西本願寺)・大谷派(東本願寺)の二派に別れて勢力争いをしています。 もうひとつ、これこそが最大のものでしょう。 ・檀家制度 各地域にある寺を住民の情報を集約する施設として活用、 かつて武力闘争のために終結した庶民を監視する立場を寺に負わせ布教を禁じました。 一方で寺は法事による安定した収入を得ることにより、布教により信徒を増やす必要も無くなったわけです。 結果、寺は布教を行わなくなり、寺は寺子屋程度はあっても武装勢力が結集するような場所ではなくなりました。 俗に言う「葬式仏教」の始まりです。

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%AC%E5%BC%8F%E4%BB%8F%E6%95%99
  • kimari14
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回答No.1

歴史は一方で横領の歴史でもありますね。強いものが弱いものを、虐げて搾取する、弱肉強食の時代(今もそうですけどね)。律令制度が崩れてくると、下克上という戦国の幕が開いて、いよいよ強いものからの横領に対抗していかなければならなくなって、比叡山も紀伊根来も本願寺も、自領(搾取権利)を守るために武装化していったわけですが、信長は、自分以外の搾取階級(朝廷を含む)を許さず徹底的につぶしています。そうでない宗派は武家団の保護を受けることによって、寺社の領というものを安堵されたり、寄進されたりで、なんとか存続していきました。とくに戦国時代は天道思想(天の意思のおもむくまま)というものが武士団を支配していましたからね。 3、4年に一回の割合での天災の及ぼす飢饉や畜生道にたいしての、宗教の無力さより、天が不要とおもえば、消えていくだけだとの覚悟だけが、唯一時代を生きれるものだったからともいえます。寺も同類の搾取階級と思われればつぶされていくものです。