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何故人を殺してはいけないのか?
頭が悪いので考えても分かりませんでした。 仕方ないので、いけないからいけないって事にしてる訳ですが、ここは偉い人ばかりなのでやっぱり違うんでしょうね。 ちなみに宗教的見解は勘弁してください。。(汗)純粋な哲学的証明が聞きたいのでよろしくお願い致します。
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哲学的証明は不可能。
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A4です。 くどいようですが、修正です。 感情なり心情に基づき殺人を禁止するのが現時点の言論では困難ですが、裁判で情状酌量の余地などと言っても、感情的側面を無視すると整備されている方においては殺人はやはり禁止されれるべきで、諸外国においても例外は有りません。 少し反芻しますが、感情面で殺人を禁止する理由が見当たらないとは、共存の精神を他者全てに等しく心情において照らし合わせることが出来ない、「あいつは嫌い」「あいつは好き」なんてえり好みのある、博愛の精神を忘れ持ち合わせないで、嫌いなやつがくたばっちまうと祝杯をあげるような心情の表れです。 感情なり心情に基づき、殺人を禁止するのが現時点の言論では困難ですが、裁判で情状酌量の余地などと言っても、感情的側面を無視すると整備されている「法」においては殺人はやはり禁止されれるべきで、諸外国においても例外は有りません。 少し反芻しますが、感情面で殺人を禁止する理由が見当たらないとは、共存の精神を他者全てに等しく照らし合わせることが出来ない、「あいつは嫌い」「あいつは好き」なんてえり好みのある、博愛の精神を持ち合わせないで、嫌いなやつがくたばっちまうと祝杯をあげるような心情の表れです。 少しだけわかりやすいように修正しました。 それから、 哲学においては、そのように腐りきった根性をもつのはごく一部の反社会性を肯定する人物のみと定義されます。 社会及び言論の一般性においては、むしろこのような反社会性に身に覚えのある方が大勢を占めるでしょう。 しかしながら哲学の理想または哲学の意義は、そのような反社会性を克服して誰にでも判りやすい合意と共感をえることです。 哲学の発祥ともいえるソクラテスの定義ではイデアは馬の例で比喩されていました。 要するに普遍的な人間性が哲学において定義されていない。 その辺りを何とかすることが「誰にでも判りやすい合意と共感をえる」こういう取り組みです
お礼
わざわざ回答をして頂いてありがとうございます。
必ずしも人を殺してはいけないというわけではありません。刑死は禁止されておらず、また正当防衛で人を殺した責任を問われない場合があります。禁止されているのは違法に人を殺すことです。 本題にかえりますが、実は、人を殺してはいけない、ではなく、私を殺してはいけない、なのです。質問者さん自身は今から誰かに殺されると言うことがあまり気にならないかもしれませんが、大部分の人は「私が殺される」と言うことに強い抵抗があり、殺されないためなら税金を払ったり法律に従ったり、場合によっては他人に何かで譲歩をしても良いと思っているほどです。私自身も私を殺そうと言う意見には大反対です。 ところで、日本は法の下に平等だそうですから、ある人に適用されるルールは全員に適用されなければなりません。私を殺すことを禁止しながら人を殺すことを認めるならば、他人もまた同じルールによって私を殺す権利があると主張するでしょう。これははなはだ危険な水掛け論です。ですから、私が殺されない権利を確実に主張するためには、自分以外のすべてのワタシが殺されない権利を認める必要があるのです。「人を殺してはいけない」は、「すべての私を殺してはいけない」の言い換えにすぎません。
お礼
そういえば例外もありましたね。自分も含めて普通は関わらない事例ですけど。 そうですね。大部分の人は抵抗ありますよね。誰かに殺されると言うことがあまり気にならないってズバリ言われてしまいましたか。。まあ、社会ルールは今後も守る訳で、、危険人物じゃないでその辺りで許してください。汗 回答ありがとうございました。
- kadowaki
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>何故人を殺してはいけないのか? 「宗教的見解」はナシとなると、「自分は殺されたくないから」に帰着するとしか説明しようがないでしょうね。 そして、だれもが同じように考えていることが判明した時点で、「人を殺してはいけない」も不文律になったのではないでしょうか。 ただし、「何故人は殺されたくないのか?」と問うなら、否応なく「宗教的」領域に入らざるを得なくなると思います。
お礼
そうなんですね。そうなると結構、宗教大事そうですね。 だれもが同じように考えているなら法律もいらないような。。多数派って意味ですよね。。うーん。 回答ありがとうございました。
法の基づき人間同士の共存のもとに社会生活を営むのなら、たとえば食人の栄養学上の合理性を認めても人間殺しを合法とすることはできません。 あくまでも共存の精神にもとづくなら、社会において殺人は全てタブーにすらなりえます。 文明に未開な地域及び飢餓の蔓延する時期では食人も合理的ゆえまかり通ります。 研究の結果縄文時代は発掘される人骨に調理した痕跡が発見されています。 以上に基づいた上で共存の上の社会生活を送るなら殺人や食人は、動機や衝動に合理性があっても法に基づき禁止されます。 社会生活の上で禁止されるのが合理的です。 感情なり心情に基づき殺人を禁止するのが現時点の言論では困難ですが、裁判で情状酌量の余地などと言っても、感情的側面を無視すると整備されている方においては殺人はやはり禁止されれるべきで、諸外国においても例外は有りません。 少し反芻しますが、感情面で殺人を禁止する理由が見当たらないとは、共存の精神を他者全てに等しく心情において照らし合わせることが出来ない、「あいつは嫌い」「あいつは好き」なんてえり好みのある、博愛の精神を忘れ持ち合わせないで、嫌いなやつがくたばっちまうと祝杯をあげるような心情の表れです。 哲学においては、そのように腐りきった根性をもつのはごく一部の反社会性を肯定する人物のみと定義されます。
お礼
そうですか。自分は馬鹿だからよく分からないなあ。。 とても理論的ですね。社会は自分もそう思います。哲学だと難しいですね。 共存すると能力が劣ってて自然と他者の足を引っ張ってしまう人の存在が気になってしまいました。共存って難しそうですね。。 回答ありがとうございました。
- gigamax2
- ベストアンサー率27% (170/628)
こんばんは。 殺したい人でも居るのでしょうか?普通はこのような疑問は生じないのですが・・・。結論はこの問題に対して哲学的な解答なんて無いですね。 理性と殺意、このバランスが崩れると行動に出てしまう訳ですが、残念ながら私は行動を起こした人間じゃないのでこれ以上はお答えできません・・・。
お礼
いないと言えば嘘になりますね。。本音言うと殺したい人は一人いますが、、他者に殺意を持ったりはしないので安心していいと思います。 哲学的な解答無しですか・・。中々難しいんですね。 回答ありがとうございました。
その答えは出ていません。 いろいろ理屈を言う人はいますが、現実には人にも感情があり、理性を打ち消すほどの怒りや憎しみ、快楽によって人を殺しています。 動物は同族を殺さない、、、なんてことはありません。 食べるために殺すこともありますし、雌の排卵を促すために仔を殺す動物もいます。 死刑を廃止した国もありますが、軍隊までなくした国はほとんどありません。 いろいろな理由から、侵略者を殺してでも自国民の生命財産を守りたい訳です。 強いて言えば「自分がやられて嫌なことは、他人にもやっちゃダメです」というお母さん理論に至りますが、人はそこまで理性的な存在ではないのだと思います。すくなくとも現時点では、、。
お礼
まだ出ていないんですね。いつか出て欲しいです。 理性で抑えきるのが重要なんですね。 回答ありがとうございました。
- kyotoZZ
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直接の回答ではないのですが…… sudxさんはもしかして自殺を考えていたのではないのでしょうか? 今は不況で就職ができずその結果自殺が増えているのは周知の事実です。 殺人とは自殺の裏返しと私は考えています。 文章を見る限りsudxさんは体育系のお若い方のようなので考え直してみてはどうでしょうか。20代ならまだ色々やれると思います。 仕事がないなら自衛隊員にでもなってみてはどうでしょうか? もしかしたら過去にやってるかもしれませんが…… 何か回答ぜずにはいられませんでした。哲学的証明ができなくて申し訳ないです。
お礼
色々気遣ってくださりありがとうございます。優しい方ですね。 過去の質問も見れたりするのでしょうか?そうゆうのは見れないと思って質問してるものですから。。 鋭い感覚をお持ちですね。ただ、あんまり詮索はされないでください。気になっただけですから。 回答、ありがとうございました。
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お礼
回答ありがとうございました。