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『24人のビリー・ミリガン』についての疑問
よろしく お願いします。 タイトルの書籍を私は未読なんですが、今ちょっと調べていることがありまして、自分なりに多少 検索してみたものの、疑問点については不明のままですので、当該書籍を実際お読みになった かたに お聞きしたいのです。 この書籍は、近年実際に起きた事件を取材し、それを もとに書きあげられたノンフィクションなのだそうですね。 主人公は「多重人格障害」であるということで、精神分析ですとか心理分析の立場からは、「防衛機制」なる観点から、そういう現象も あり得るのだろうかな、というふうに、しろうとながら思っています。 目下の疑問は、 それぞれの人格は、髪や目の色、身長や体重までもが、表出人格によって、そのつど変化することが述べられているそうですが、髪や目の色までが、すっかり変化する、ということですと、これは、表出人格に合わせて髪を染めるなどのことでも しない限り、物理的に無理な話では ないかと、そのへんを調べたかったのですが、この点に関して述べているものが見つかりませんでした。 実際、当該書籍を読めば、その点についての言及は あるのでしょうか? あるいは、その点を めぐって言及しているものは ありますでしょうか。
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お礼をありがとうございます。 まず念のために付記しておきますが、私は現実の患者さんを知らず、医療従事関係者でも専門家でもありませんので、以下の回答は何冊かの本を読んだだけの私の解釈ということを御承知おきください。 >違和感があるとなれば、防衛機制的必要性から起こしているとしても 既にある程度の予備知識があるものと推察いたしますが、この人格障害は、繰り返しもたらされる強度の精神的苦痛が引き金になって引き起こされ、その苦痛から物理的に逃れられない状況で発生します。 「こんなひどいことが私に起こるはずはない」 と、「苦痛を受けている自分」を本来の自分から切り離すことで、本来の自分を保とうとするわけですね。 それが繰り返し引き起こされるごとに、「切り離された人格」が定着していくのでしょう。 「切り離された人格」が持つ記憶は、本来の自分には残されません。 自分が対処できない状況に代わりに対応してもらうために、自分の一部を切り離すので、記憶が残っていてはいけないのです。 そして、「私に起こるわけがない」状況を引き受けてくれる人格は、自分にあまり似ていないようです。 ビリーミリガンの本の中では、異なる訛りを持っていたり出身地が外国だったりするケースもありますが、これもまた「こんなひどいことが起こるのは、私がここの家族ではないからだ」と信じたい心がそうさせているのでしょう。 不思議なのは、イギリス訛りやブルックリン訛りをどうやって習得したかということになりますが…。 繰り返し呼び戻され、定着を促された「切り離された自分」には徐々に性格が与えられ、キャラクターづけがなされていきます。 時として、自分が表現できない怒りや恐れ、憧れといった感情を、そのキャラクターたちは持つでしょう。 表現することを禁じられた本来の人格は、徐々に「空っぽ」になっていきます。 それらの人格を引き起こす障害となった心理的外傷から解放された後、--たとえば虐待を与えていた親から独立し、一人の生活を始めたあとでも、虐待の思い出を引き起こすいくつかの出来事…ガラスの割れる音や誰かの叫ぶ声などが辛い記憶を呼び戻し、条件反射的にその状況を処理するための人格を呼び出します。 苦痛を回避して現実にうまく対応するためであった人格乖離が、変化kした現実にうまく対応できなくなるために、彼らは外の世界にうまく対応できなくなるのです。 >そういう題材の絵というものが、まず珍しいですし MPDに関する症例を扱った本では、かなりの確率で絵や筆跡の写真が出てきます。 もともと絵を描く人もいるでしょうし、MPDをうまく伝えられるからでもあるでしょうし、セラピーの一部として絵を描くことを勧めるセラピストも多いのだろうと思います。 「解離性同一性障害」で検索するとたくさんのサイトが出てきます。 実際の患者さんやその家族のサイトもありますし、その中でも絵や筆跡を公開されているサイトもありますよ。 例えば…↓ http://dissociation.xrea.jp/disorder/dissociation/ まずはいろいろ読んでみてください。
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読めばわかりますが、外見の変化はありません。 このベストセラーの書籍は何と言っても実際の事件を題材にしたエンターテインメントで、とても面白いです。 もちろん研究書や専門書ではございません。 精神分析も心理分析もしていませんし、精神病として実在する症状かどうかも、著者は決断を下していません。 ご質問とお礼を拝見しましたが、多重人格は奇病なので、安易に社会現象と結びつけるとおかしい認識になってしまうと思います。 書籍の感想をお知りになりたいより、むしろ多重人格について調べておいでのご質問だと思いましたので、 メンタルヘルスカテゴリへ移動してもらえるように連絡しておきました。
お礼
御覧の とおり、外見の物理的な変化についての疑問は、No.1及び2さまの御回答で、あっけなく氷解しております。 著作者は、その方面の専門家というわけでないということは存じてます。 >多重人格は奇病なので、安易に社会現象と結びつけるとおかしい認識になってしまうと思います。 私の返事で述べていることを さらに御理解いただけますなら お分かりいただけると思いますが、実は、かねてから、「多重人格障害」なる精神病そのものと、そうではないもの(偽装と呼ぶべきか?)との違いのほうに、より関心が あります。 ですから、社会現象等と結び付けているとしたら、まさに精神病としての「多重人格障害」なるもの自体よりも、実は そうではないもの(偽装的)の現れのほうに着目しております。 ですが、最初期の動機そのものとしては、感想でもなく、間違いなく当該書籍の部分的内容に関しての疑問ですので、そこの疑問が解けた時点で締めていたとしたら、このカテゴリーのままで よかったのだろうと思っていますが、その後のNo.3及び4さまの御回答によって、思いがけず話題が深まりました。私としては、こちらのカテゴリーで質問してみて満足しております。 ひょっとして、当質問のカテゴリー移動の お手間を とってくださるために、わざわざ入会なさってくださったのでしょうか、恐縮至極で ございます。 アドバイスいただきまして、ありがとうございました。
- Yumikoit
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他の回答者の皆さまの言われているとおりです。 実際に外見まで変わることはありません。 それぞれの人格たちが、自分達について思い描く姿が、異なっているということです。 ただし、それぞれに精神的つながりのある人格同士では 「彼女は、こういう外見で…」 などと話すことができるので、心の眼では自分の姿が、自分の信じているとおりに見えるのかもしれません。 鏡にうつっているのが自覚している姿に映ることもあるようですし、ビリーミリガンだったかどうか覚えていませんが「なにか悪い力によって、この身体に閉じ込められた」と感じている人格がいる場合もあるようです。 それぞれが外に出ている時に学んだ事がらを共有することができないので、一人はアラビア語を話せるのに他の人格はアラビア語を話せなかったり、人格によって全く違う訛りの言葉で話したり、まったく異なる筆跡で文章を書いたり、姿勢や癖までが異なるので外見的特徴は「ビリーミリガン」のままでも見た印象などが異なることはあるようです。 MPD(多重人格性精神障害)は現在、解離性同一性障害と呼ばれ、他にも同じような症例を持つ人たちの闘病記がたくさん出ています。 ジェニーの中の400人 私はイヴ (前作に当たるものに、「私の中の他人」あり) 踏みにじられた魂 失われた私 ある多重人格者の告白 などなど…。 いずれも、外見的特徴が変わってしまうことなく、それぞれの癖や姿勢(人格が変わった途端背筋がしゃんと伸びて自信たっぷりの表情をしたので背が大きく見えるようになったなど)、訛り、筆跡などが変わってしまうコトが描かれています。 確立した人格だけではなく、その時の感情を処理するためだけに出てくる名前のない人格が多数存在する場合も多いようです。 まずは1冊、読んでみてはいかがでしょうか。 私は、ビリーミリガンは冊数が多いので(続編合わせると4冊)最初はとっつきが悪いように思いました。「失われた私」もしくは「踏みにじられた魂」あたりの方がノンフィクションとしてまとまりがよく、最初に読むならこちらの方が読みやすかったですね。 それぞれのMPDの患者たちも、自分たちの症例を受け止めるために、診断を受け入れたあとは同じような症状を持つ人の情報を求めます。 ですから、何冊か読み進めていくと先に同じ病気になった人の情報に触れるシーンが出てきます。 症例としても共通項が出てきますので、他にも疑問に思うことにこたえる記述が出てきますので是非ご一読下さい。
お礼
早速に御丁寧なアドバイスを、ありがとうございます。 >それぞれの人格たちが、自分達について思い描く姿 ということで、該当の描写は ないのだということが、さきの回答者さまがたに教えていただいて、あっさり得心しました。 >「なにか悪い力によって、この身体に閉じ込められた」と感じている人格がいる場合もあるようです。 No.2の回答者さまも触れておられる、違和感、というものが伴うこともあるのでしたら、いかに防衛機制的必要性から、としても、苦しそうですよね。。。 >それぞれが外に出ている時に学んだ事がらを共有することができない ということは、つまり記憶喪失と同じようなことになってしまうのでしょうか。 それでも、どの「人格」においても全く経験したことがないことは再現されないのであれば、やはり、ある「人格」のみにおいてでも、それなりに経験したことだからこそ実行できるわけで、このこと自体には、不思議は ないですね、知らない者が傍から見るとビックリですが。 >その時の感情を処理するためだけに出てくる名前のない人格が多数 うーん、なるほど。 「MPD」と言うのですか、最近、こうした症状の人が増えているのかな?とチラッと思ってしまったことがあるのですが、いま、ちょっと調べているのは、多重人格性精神障害(解離性同一性障害)と、それを装っている人との違い、についてです。 本物?の場合は各「人格」間のギャップが大きく、それぞれの記憶の違いに伴って当然、発言内容も変わってくるのでしょうが、 本物ではない場合は、どんなに表面的に別人を装っても、その発言内容には抗いようもなく共通したものが通底しているかに見受けています。 これは これで、匿名インターネット盛んなる時代ならではの、一種 現代病理的現象として研究・考察できる方面なのかも しれないと思います。 お薦めいただいたものを参考に、一度 読んでみます。
- k99
- ベストアンサー率47% (491/1025)
だいぶ前に読んだので、あまり正確な記憶ではないかもしれませんが(他作品との混同もあるかも)。 ビリーの外見に変化がないのはご指摘の通りです。 ただし、「人格」は、自己の認識を設定通りだと思っていて、違和感があることがあるし、精神世界の中での見聞き(自分たちが同居していると気づいている人格がある)ではその通りだと感じていたはずです。 たしか、少なくともハードカバー版では口絵にそれぞれの肖像画(「人格」の自画像や他の「人格」のスケッチ)が掲載されていたと思います。
お礼
早速の御回答、ありがとうございます。 >「人格」は、自己の認識を設定通りだと思っていて、違和感があることがあるし、 違和感があるとなれば、防衛機制的必要性から起こしているとしても、なんとも苦しいもののように想像されますが、 >ハードカバー版では口絵にそれぞれの肖像画(「人格」の自画像や他の「人格」のスケッチ)が掲載されていたと これは、ちょっと見てみたいです。そういう題材の絵というものが、まず珍しいですし、各「人格」を、どのように描いているかという そのこと自体にも、本人自身のなかで、それら「人格」に関し、どのように受け止めているか、など、いろいろと分析や考察の いとぐちにも なるのでしょうか。 当該部分に描写はない理由について、No.1さまの御回答と あわせて、納得いきました。 一度、ハードカバー版で、読んでみようかと思います。
- x1va
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そのような描写はありません。それはそれぞれの人格が思い描く自己像に過ぎません。 外見が変わらないので、病気のことを知らない人は、人格が入れ替わってもそれはビリー本人の言動だと思って接しています。だから物語の最初に人格が変わる様子を目撃した人は、非常に混乱しています。
お礼
早速の御回答、ありがとうございます。 >それぞれの人格が思い描く自己像に過ぎません。 この ひと言で、得心しました。 あ~、だから、描写は ないわけなんですね! 本人の内面だけで起きている変化なので、知らない人が混乱するのは当然ですよね。 一度 読んでみようかと思います。
お礼
字数制限の関係で、補足欄も使用させていただきました。 再度の御回答、ありがとうございます。 念のための お断りについては承知いたしております。ですが、密な御示唆を いただいた おかげさまで、当初に比べ、がぜん考察が深まりました。 御紹介いただいたURLを、とりあえずサッと覗いてみました。とくに、ご本人が描いたものという絵と、筆跡の変遷、やはり興味深かったです。 のちほど あらためて全体をジックリ拝見させていただきます。 それにしても、絵柄と言いますか雰囲気やタッチなど、なるほど顕著な違いが あるとは感じましたが、結局、絵が上手であること そのものに変わりは ないのだな?と思いました。 筆跡の変化にしても、思ったほど極端ではないのかな、ふつうでも、筆跡というものは、たどたどしいレベルから始まって、年齢によって誰しも大なり小なり変化していくものですし、私自身、単に疲労度によっても、かなり変化してしまいます。 どうも一番 気にかかっておりますのは、補足中にも申し上げた >表現することを禁じられた本来の人格は、徐々に「空っぽ」になっていきます。 というところ、なんだか、花弁を守る萼部分が、花弁に とって代わったごとくに肥大する、という現象を連想しましたが、結局そうなってしまうと、 一般的な日常では、単に、諦めて手離して、どうでもよくなる、執着しなくなる、忘却、という現象で済ませられるということなのでしょうか、しかしMPDとも なりますと、忘却などでは おさまらず、その後も他人格を つくり続けるとしたら、その意味とは、はたして なんなのか、ということになりそうです。 あるいは、まさに「空っぽ」が目的なのであって、そうなるまでは、やむことがない、というわけでしょうか。 本人が納得できす、辛いまま、執着のなかに浸ったままでは、どんどん、「他人格」が増殖し続けるということなのかな?と思いました。 私が今、少々興味を起こして調べ始めたのは、MPDそのものという以上に、匿名インターネット世界に代表される場でのMPD的現象の、もはや流行的なまでの現れです。 時代や社会的な面と、個人のあいだで潜在的に ひそんでいる点が、おもてに出てきつつあるように感じています。 御意見を もとに、お薦めのものから読んでみたいと思ってます。 とても参考になりました。
補足
(字数制限の関係で、失礼ながら、部分的に抜粋させていただいてます。) >この人格障害は、繰り返しもたらされる強度の精神的苦痛が引き金になって引き起こされ、その苦痛から物理的に逃れられない状況で発生 >「苦痛を受けている自分」を本来の自分から切り離すことで、本来の自分を保とうとする >それが繰り返し引き起こされるごとに、「切り離された人格」が定着していくのでしょう。 「切り離された人格」が持つ記憶は、本来の自分には残されません。 自分が対処できない状況に代わりに対応してもらうために、自分の一部を切り離すので、記憶が残っていてはいけない そして、「私に起こるわけがない」状況を引き受けてくれる人格は、自分にあまり似ていない このあたりを伺って、ふと思い出した話が あります。 たとえば、ある人の子ども時分の回想ですが、親に厳しく叱られると、「どうして自分はカンガルーじゃないんだろう」などと思ったとかいうのがありました。私自身は、子どもの頃から、自分で そんなふうに思ったことは ないので、ちょっとオモシロい発想だなあと感じたのみだったのですが。 また、これは別の人の回想ですが、子どもの頃、朝起きると、父親が、「おとうさんの代わりに おトイレを済ませてきて、ついでに新聞を持ってきてくれるか」とか言われていたそうなんです。 こういうのも、私は子ども時代に親から このように言われたことが一度もありませんので、ちょっと興味深かったです。 >自分が表現できない怒りや恐れ、憧れといった感情を、そのキャラクターたちは持つでしょう。 表現することを禁じられた本来の人格は、徐々に「空っぽ」になっていきます。 このへんは、MPDというものでなくとも、日常で、一般の人にも存するものかも しれないと感じました。とくに、インターネットの匿名世界では、一般的な人でも、それが顕著に出てきやすいように思われます。 ちょっと気にかかるのは、 >本来の人格は、徐々に「空っぽ」に というところです。結局そうなってしまうと、はたして、他人格を つくり続ける意味とは なんなのか、ということになりそうです。 >異なる訛りを持っていたり出身地が外国だったりするケースもありますが、これもまた「こんなひどいことが起こるのは、私がここの家族ではないからだ」と信じたい心がそうさせているのでしょう。 不思議なのは、イギリス訛りやブルックリン訛りをどうやって習得したかということになりますが…。 なるほど。そのあたりは、私も多少 検索してみて、疑問点として とりあげているサイトなど見かけました。どうかすると、スピリチュアルだの、オカルトっぽい世界に入って行きかねないようでしたが。 実際、熱心なキリスト教信者の かたなどで、そういう感覚の受け止め方を しておられるのも見かけました。 もしかすると、宗教的なものに のめり込みやすい性向の人と、MPDとは、結びつきやすい点があるのかも しれないと思いました。そういえば、巫女の憑依現象みたいなことというものも ありますね。 また、一般に人格障害の範疇に入る人には、他から入ってきた あらゆる もの事に尋常ならず影響を受けやすい(良く作用すれば優等生でしょうが) 同時に、それらに、いわば淫したような状態のまま抜けられないでいる抜けたがらない、という特徴が あるようにも見受けております。 >それらの人格を引き起こす障害となった心理的外傷から解放された後、 ~条件反射的にその状況を処理するための人格を呼び出します。 苦痛を回避して現実にうまく対応するためであった人格乖離が、変化した現実にうまく対応できなくなるために、彼らは外の世界にうまく対応できなくなる フラッシュバックとかトラウマなる単語が出るところでしょうか、一般の人でも、日常生活のなかで、これと近いことは やっているように思うのですけど、いわゆるニートの問題とも絡んできそうに思えるところです。