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イエス
イエスを同時代人として、イエスの愛の思想について詳しく教えてください。アガペーにもふれてください。福音書を読んでいますがいまいちわかりません。
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- jinseiwalk
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キリストの愛を実践すればするほど2重人格もしくは統合失調症に近くなります。 右のほほを打たれたら左のほほを出すことをしていると心の中では「こんちくしょうー」と思いながら顔では笑うということをすることに起因します。
- kigurumi
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旧約聖書の出エジプトあたりだったと思います。 あいまいではなく明確に書かれています。 例えば、「あなたが敵対する人が服を質に入れてお金を借りていて、夕方までに返済できない場合、あなたは彼に利息を取らず服を返さなければならない。」という内容だったと思います。 理由も書かれています。 敵対する相手、これは日ごろよく思っていない<同胞のイスラエル人>のことです。 <同胞を自分のことのように愛をしなさい、何故ならそれと同じことを神はあなたがたにするから> みたいな説明だったと思います。 又、イスラエル人は奴隷にはなってはならないが、わけあって奴隷に身をやつした同胞に対して、6年だったかな その年数奉公したら、十分な資産をわけあたえ、奴隷の身から開放しなければならない。何故なら神はエジプトから奴隷だった民族を解放したのだから。 というのもあったと思います。 神と同じことをしろってことですね。 これが神の心と同じことをするってこと。 で、女子供に対する愛も書いてある。 また、あなたを憎む人のロバが荷物の下敷きになっていたら、あなたは彼とともにロバを助けなければならない とかも書いてあります。 利害が異なるものが困っているときも、利害を超えて助けなければならない理由は、神が利害を超えてイスラエル人を助けるから。 利害に収まらず利害を超えているので、スーパー。 このスーパーラヴが無償の愛のことです。 ちなみにイスラエル人とはヤコブの子孫のこと。 イエスというか律法に書かれていることを、イエス作家が再度持ち出したわけですね。 <イエスを同時代人として>という意味がよくわからないのですが、第二次大戦の時だったか、中国のどこかにユダヤ人がいて、断種政策によりがけっぷちに追い込まれたが、日本人の中に自分達と同胞ではないかと思った人たちが、彼らをそこから逃がした というエピソードがあったそうです。 その頃、日本人の中に、日本人の一部とユダヤ人は同祖だと思った人がいたので、同胞愛により救済したのだそうです。 遠隔操作していると感づかれると日本にいる自分達が危険になると考え、秘密裏に行われたので、このことはあまり知られていないようです。 杉原千畝の業績が有名で、彼はキリスト教の精神で助けたってことになっていますが、もしかしたら真実は同胞だと思ったからかもしれないですね。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 聖書の物語は 《存在》の思想だと考えます。存在が存在であるための信仰でもあります。そして 最終的に《復活》に行き着くのだと思います。それが 終わりの日のことではなく このいま・ここでのことであるなら そのすべては 愛というちからであるでしょう。神の愛のはたらきによるというわけです。はたして 経験現実であるでしょうか。いかが思われますか。 その昔 アブラハムという人は もう七十歳を過ぎているのに 《その父祖の土地を離れ去って 行け》という声(お告げ?)を聞いたそうです。ぢゃあ どこへかとも定まらないまま これに従ったそうです。たいていは 《神がかり》と見なすでしょうね。 次に この《神がかり》が 昂じてと言いますか 或る人は――仮りにダヰ゛デとしますが ダヰ゛デは―― こう表現したと言います。つまり その神が言うには 《きょう わたしは おまえを生んだ》というのだそうです。自然の誕生のことではないらしい。そのダヰ゛デは 《〈なぞの何ものか〉によって その日 わたしは生まれた》と表現するような体験を持ったということらしい。 目覚めたというようなことでしょうか。このような自己表現をつうじて どうやら 《存在》論を 世代を超えて 展開しているようなのです。 さらに イザヤという別の人が 神がかりに遭います。つまり《存在せしめるものの霊が わたしに臨んだ》とまで表現しました。そして 社会的な弱者を 自分のこととして 受け取ったのでしょう こう表現します。 主はわたしに油を注ぎ 主なる神の霊がわたしをとらえた。 わたしを遣わして 貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。 打ち砕かれたこころを包み 捕らわれ人には自由を つながれている人には解放を告知させるために。 (『イザヤ書』61:1) さらに時は飛んで――アブラハムの頃から二千年ほどあとですが―― イエスの話になります。かれが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り これらアブラハムやダヰ゛デの詩編やイザヤを書いた書物を朗読しようとして立ち上がった》時のことだそうです。 すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書い てある箇所が目に留まった。 《主の霊がわたしの上におられる。 貧しい人に福音を告げ知らせるために 主がわたしに油を注がれたからである。 主がわたしを遣わされたのは 捕らわれている人に解放を 目の見えない人に視力の回復を告げ 圧迫されている人を自由にし 主の恵みの年を告げるためである。》 (=つまり『イザヤ書』61:1-2) イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人 びとは皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは ――この書物のことばは 今日 耳を傾けているあなたたち に実現した。 と話し始めた。 (ルカ4:17-21) という《存在》をめぐる歴史物語です。つまり 自己到来としての存在の誕生が めぐりめぐって 社会的に 先に目覚めた人が まだ目覚めていない人たちにお節介を焼くというところまで来たようです。 ただし イエスの時に到って 物語は一筋縄では行かなくなりました。イエスは 一たん すべての人びとから見放されるという経過をたどります。完全に見放されたあと・また神からも見捨てられたそのあと 《〈おばけ〉として 弟子たちを初めとして 人びとに 現われた》というわけです。 これを解説して パウロという人は こう書きました。 ▲ (コリント前書15:51~56)~~~~~~~~~~~~~ わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。 最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。 死は勝利にのみ込まれた。 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。 死よ、お前のとげはどこにあるのか。 (イザヤ書 25:8〔意訳〕) 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ とげが抜かれ 原罪が克服されたからには このいま・ここで 復活は実現するのではないか。最後のラッパはすでに鳴ったというわけのようです。というところまで この《存在》論は続いて来ているのだと思います。 はねつけるのも 受け容れるのも まったくひとの自由だということなのでしょうね。
プロテスタントです。 イエスの教えは「思想」ではありませんので、哲学的に解釈しようとすると分かりにくいのではないかと思います。 イエスの教えは、まさしく「信仰」です。神を信じ、神を愛し、神の教えを守り、隣人を愛し、敵をも愛し、右の頬をぶたれたら左の頬をも差し出し、上着を奪われたら下着まで差し出す時、その信仰によってその人は真に救われます。 信仰は、信仰であるゆえに、いくら頭で考えていても分かることはありません。まさに神を信じ、その教えを実践する時、実感としてわかるのです。 教会にはいろんな証があります。 小児麻痺から救われた人、悪性リンパ腫から救われた人、うつ病から救われた人、借金地獄から救われた人、みんな神を信じて、神の愛により無償で救われた人ばかりです。 信仰とは何か、神の愛とは何かとは、こうした奇跡を通して理解されるものであり、イエスの教えを「思想」「哲学」として理解することは、かえって難しいのではないでしょうか。 回答になっていないかもしれません。すみません。
No.1です。 コリントの第一の方です。
アガペー…人類に対する神の無償の愛 教会においては、キリスト者の結びつきによる愛 コリントの信徒への手紙13章をどうぞ。 一応、正真正銘のプロテスタントのキリスト者です。教会からは、事情が有り、遠退いていますが。