ナザレに戻って来たイエス・キリストについて
呂蒙(178-219 後漢末期の武将)はいう
「士別れて三日、即ち更に刮目して相待(そうたい)すべし」
そしてイエス・キリストがナザレに戻ってきたとき、成人する前のイエス・キリストを知る昔の人がいう。
「偉そうな説法をする彼。彼は大工の子倅ではないか」といい、
イエス・キリストの事を判断できなかったというか判断しなかったそうですね。
それではイエス・キリストの側は、彼らの変化というか進歩を見て取り判断したでしょうか?
判断で来たでしょうか。
無論、「偉そうな説法をする彼。彼は大工の子倅ではないか」としか見ることのできなかった人たちではあったが。
というのは;
私は小学3年から高卒までを過ごした地域にいて、幸いというか小学校三年から六年までは担任が変わりませんで、今も年に一回はその恩師の家で集まります。
(東京師範新卒だった恩師は職場結婚で土地にずぅっといてくれまして、今は同じ恩師ですが奥さんがお子さんたちとおられます)
傘寿の我々も少年少女に戻り、その当時の観念と見方で歓談するのです。
そしてそれぞれが他人を昔の儘の彼、彼女としか見ない。
地位もそして人間としても偉くなっているのに、そんなこと全然振り向きもしない。
まぁそれはそれでいいし、そうでしかできませんね。
それはもうお互い様なんで。
現在の或は今に至るまでのえらさなんか認められないのは。
イエスは昔の人をみてその人生経過を見ることができたでしょうか?