んー。違わないこともないですが…。
“考える”というのはいささか主観的ですね。
“哲学する”場合は客観的でなければなりません。
例えば私が貴方と大親友であり些細なことで昨夜喧嘩をしたとします。
何故そうなったかをめぐらす時
悪いことしたな…とか
あんなに言わなくてもいいのに…とか
謝ってくれるまで許したくない…とか
自分の気持ちが優先されていると“考える”という行為で止まってしまってる状態です。
これが
喧嘩になった原因は何か→貴方が突然怒り出し売り言葉に買い言葉で言い合いになった→それまでは普通に過ごしていたように思う→直前に起こった出来事に関係があるかもしれないが自分には思い当たらない→では以前に同じこと,もしくは同じような感情を貴方が抱くような出来事・発言が自分の中になかったか→もしあったとしたら内容いかんでは謝罪すべきだがすぐにそれを教えてくれず溜めこんでしまった貴方にも非があるのではないか・それとも言えないような出来事だったのだろうか→思い当たらない以上貴方からも意見を聞く必要がある→貴方との交友関係を続けたく思うなら待っているよりも自分から話をすべきだろう→とりあえず言い過ぎたことへの謝罪は必要だが原因いかんによっては話し合いの必要がある→伝えたいこと,そのそもそもの原因に他意がない場合はきちんと説明できるように努めねば同じことを繰り返すような結果を招くかもしれないことを肝に銘じ,貴方に連絡を入れる
という感じに,一つの物事を多方向から見て可能性を想像し,“何故そうなるのか・何故そうなったのか”など一つのことについて掘って掘って掘り進めてコアまでたどり着くことを“哲学する”と言うと思います。
この場合は具体性に欠けるので,わかりにくいかもしれませんが…
もっと具体的にすると,このような場合でも最終的に何を不快に思ったのだろうかというところまでたどり着くはずです。
冷静な喧嘩の仲裁役がもう一人自分の中にいるという感じですね。
“考える”という行動は他の言い回しがしにくいのでハズレではないと思いますが,“どこまで”考えるのかが重要です。
お礼
ありがとうございます。