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「主体ーわれわれ」
はあり得るでしょうか?
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質問者が選んだベストアンサー
主体と対象という、日本語の意味、印象のみから思い巡らすと 主体としての「われわれ」という言葉はありえるか。という問いだと理解したところで われわれ といったところで自分でなくなってしまう。 私 以外に、自分を示す言葉は あり得ない が答えですね。 世界全てを意味する、われわれ以外は主体としての言葉としてはありえない、しかしそのような場面があるだろうか... 「われわれは~である」「われわれは~の方向へ向かう」と自分も含めた全てに言うなら 世界全てを代表する自分として われわれ を使うことはできるが、自分とは違う立場に在るという意味での「他者」に対しては使えない。 などなど、いろいろ考えてみました。。。
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- SOLAR_RAY
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定立的意識 の意味が良く解らないので、簡単な表現か、この言葉の意味が書いてあるサイトを示してもらえれば解答できるかもしれません。
お礼
どうもありがとうございました。 たいへん参考になりました。
- SOLAR_RAY
- ベストアンサー率21% (12/56)
では、主体と対象の違いを説明してください。
補足
古い記憶ですが西欧哲学カテで言えば、 主体の語源は「下に置かれたもの」、対象は「~に向かって投げられたもの」を意味したかと思います。 ちなみに日本語の「主体」は「主観」を実践の場面に適用した用語法ですが、仏語、独逸語では同一の言葉です。
- 来生 自然(@k_jinen)
- ベストアンサー率30% (80/261)
脳細胞曰く 「主体ーわれわれ」はありうるのか? ヒト曰く 「主体ーわれわれ」はありうるのか? サンタ曰く 「私ーわれわれ」でなければ、「私」は何ものか? 被害者曰く 「われわれ」と宣う法人が主体としてなければ、誰が責任を取るのか? などなど。。。考えてみました。。。
お礼
脳細胞もヒトもサンタも被害者・・・世界すべてがわれわれでなければ「主体ーわれわれ」はありないんですよね。
- SOLAR_RAY
- ベストアンサー率21% (12/56)
私たち家族は と、1グループで考える人もいるし、おかしい表現ではないのでは...
お礼
そう思われますか。 でもそれは「対象ーわれわれ」になっちゃうんですよ。
お礼
話をものすごく簡単にするとNO1でのお礼文の主張というのは、 例えば、テーブルをテーブルとして把握する定立的意識は、そのまま意識自身についての非定立的意識だということなんです。 ものすごく簡単に言うとそういうことなんです。