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古写真「新堀町」は本当に芝の薩摩藩邸の建物か?
『大日本全国名所一覧』にある「新堀町」という題の写真は説明によると芝の焼き討ちにあった薩摩藩邸の北東隅に焼け残った建物とありますが、現在綱坂上の佐土原藩跡にも同じような長屋塀が残されています。同じ角度から撮った写真を見ると同一ではないかと思えてくるのですが、よく古写真の場所の確定が訂正されることがあるので、素人考えで「佐土原藩邸」ではないかとスッキリしません。
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- yanhua
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No.1つづきです。 昨日来見直しながら考えますと、 綱坂の薩摩藩邸は佐土原藩屋敷の併設ではなく、薩摩藩邸の名目の下に実質は支藩である 佐土原藩邸だったのだと思います。 薩摩藩上屋敷が焼き討ちに会い、幕府側による砲撃も含めていたるところで延焼、 薩摩藩士の逃走時の闇雲な放火などありましたが、綱坂の藩邸の火災記事がなさそうです。 現物が残る長屋門に注目していましたが、改めて新堀町を再確認しました。 旧芝新堀町は、1964年1月1日住居表示改正で、東京都港区芝2丁目芝新堀町。 現在も町内会や児童公園などに新堀町を冠している。 薩摩藩上屋敷(最初に焼き討ちにあった)は現在の芝2丁目、戸板女子短大の東辺り。 古地図の表示では「家紋+松平修理大夫」となっている・・・上屋敷ゆえに役名なのでしょう。 旧新堀町の町域は未確認なるも、江戸地図に重ねると薩摩藩上屋敷と概ね一致すると見てよい。 こうなると質問者さんの疑問に戻ってしまいますね。 問題の書籍はどうか・・・以下の記述があります。 大日本全国名所一覧―イタリア公使秘蔵の明治写真帖 出版社: 平凡社 出版日: 2001/06 マリ-サ・ディ・ルッソ、石黒敬章 監修 内容(「MARC」データベースより) 明治14年帰国の際イタリア公使・バルボラーニが持ち帰った、明治初期の日本全国の風景が見られる 最古の写真帖を完全復刻。拡大写真には、専門家による詳細な解説を付す。 *「専門家による詳細な解説~」となっていますから編集メンバーが諸般の準備を整えて、 監修者が解説を付したか原案を追認しています。ここがミソです。 平凡社宛てに質問状を出し、根拠を尋ねたらいかがでしょう。切手代だけですから。 *いまひとつ重要なのが、 佐土原藩屋敷も薩摩藩による、または同じ方針による建造だとすると、少なくとも長屋につい ては、ほぼ同一の設計で建てた可能性があることです。職人も薩摩藩出入りの同じ職人の可能性 の方が大きいと考えます。そもそも武家屋敷の長屋は概ね敷地の周囲に配置した建物で、藩士や 小者の住居でしたから既製の設計図で充分、新たに手をかける必要は全くない、むしろ両藩の関 係においては大いにあり得ることです。となると江戸末期~明治初期に撮った写真と、現在の 綱坂の長屋の現物が似ているからといって異同の判別の可否、判定の是非は困難かもしれません。 *却ってお騒がせしたみたいになってご免なさい。 ・佐土原藩邸の長屋はこれでしょうか。 http://www.asahi-net.or.jp/~CN3H-KKc/shiro/nagaya.htm かつて三井倶楽部に行った時に見ています、今頃気付きました。
- yanhua
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佐土原藩は薩摩藩の支藩であり、江戸での藩邸は隣接、むしろ薩摩藩邸の一部として 扱われていたようです。 薩摩藩邸焼き討ちの際、実質一体の佐土原藩邸も焼かれました。 世間の認識は両邸を合わせて薩摩藩邸の認識、少なくともその一角は薩摩藩邸として 通用していたのではないでしょうか。 私は、質問者さんのおっしゃる写真も現地も存じませんが、問題の物件はおそらくご指摘の 通り、薩摩藩邸として認識されていた敷地内の、佐土原藩長屋の名残だと推測します。 そもそも、江戸市中には主要な薩摩藩邸が5ヶ所、7ヶ所、時期によっては9ヶ所あった といわれます。概ね、三田・芝・高輪にかけての地域でした。 その中でも三田の薩摩藩邸は、江戸での薩摩藩の活動の中心だったようです。 佐土原藩は薩摩藩の支藩、 薩摩藩邸と佐土原藩邸(or上屋敷)は隣接し実質一体化。 むしろ地図他でも薩摩藩邸として記述されている例が多い。 薩摩藩邸 焼き討ち事件 幕府軍は~藩邸とその隣の「佐土原藩邸」まで一緒に焼き払ってしまいました。 隣接一体の証です。 http://tukitodora.exblog.jp/9609194/ 以上について以下のURLでご確認下さい。 (1)江戸古地図 島津淡路守と表示=現在の三井倶楽部の敷地 =(2)で佐土原藩長屋(綱町三井倶楽部敷地内)、 =(3)で島津淡路守佐土原藩:地図上に細字で表示あり http://map.goo.ne.jp/history/map.php?st=100&kr=20-1 (2)佐土原藩長屋(地図)」(綱町三井倶楽部敷地内)綱町2丁目 三田 (旧佐土原藩上屋敷長屋、薩摩藩邸跡 http://www15.plala.or.jp/kagoshima/zatsu/kantou/mita.html (3)ベアトが残した写真の謎 http://www.geocities.jp/keratutuki/my_commentary/nazo1_mita/nazo_mita.html
お礼
色々詳しくありがとうございました。佐土原藩邸が焼き討ちにあったことは確かなことだと思います。ただ、私が拘るのは、古写真の題に「新堀町」とあり、説明には新堀町で水路があるのは現芝2丁目16.17と特定されたとあるのですが、古写真に水路と思われるものが写っているようには思えないこと、書いていただきました(2)の中の長屋塀の写真と古写真が瓜二つであることが私のこの写真の特定に対する疑問になったからです。二年程前に書いていただきました(2)と(3)を興味深く拝見してから、ベアトの写真の語っていることに対する興味を持ち、今回 新たな古写真を見て、少し問題点がずれましたが、疑問が湧いたわけです。ベアトの薩摩屋敷と書かれてあった古写真が、後に綱坂であると確定されたり、溜池と書かれてあった古写真が弁慶濠と確定されたりと、 信じて見ていたものが間違いだったことがあることを知ったので、 焼き討ちの跡に、芝と綱町の両方に全く同じ建物が残るのか?と不思議な思いもあります。
お礼
再び詳しく回答をくださり、本当にありがとうございます。 綱町の長屋塀は添付してくださった写真です。私も長屋塀というものはどこも同じような造りであり、似ているからといって同じものとは言えないだろうとは思いつつも、芝と三田と二ヶ所で同じような規模で残ったというのが不思議でした。でももし、佐土原藩邸が焼け落ちたのでなければ、残ったというより、残したとなり、不思議でもなんでもなくなりますね。 大日本全国名所一覧の説明では、ここを現芝二丁目15.16と確定したのは、新堀町に水路があるのはここだけという理由のようです。写真からは、素人の目に水路が確認できるものがなく、どこで水路を確認できたのかがまた疑問となっています。こうした古写真の確定は時代を経て書き換えられることもあり、つい本当かな~?という目でみてしまいました。こうした形でお話させていただき、ありがとうございました。