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感情的に思考する

人は、感情的に思考することが、出来るのでしょうか? 出来るとしたら、どんなことでしょうか? (私個人としては、詩を書くことなどはそうなのではないか、と思うのですが…) ご意見よろしくお願いします。

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  • kadowaki
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回答No.4

私の尊敬する二葉亭四迷が明治19年に面白いことを書いております。 >偶然の中に於て自然を穿鑿(せんさく)し種々の中に於て一致を穿鑿するは、性質の需要とて人間にはなくて叶わぬものなり。穿鑿といえど為方(しかた)に両様あり。一は智識を以て理会する学問上の穿鑿、一は感情を以て感得する美術上の穿鑿是なり。  智識は素と感情の変形、俗に所謂智識感情とは、古参の感情新参の感情といえることなり(後略) なお、「自然」は現在の「必然」、「美術」は「芸術」にそれぞれ該当すると思います。 まず、彼は人間が世界を「理会」(理解)するには、「智識」による方法と「感情」による方法とがあり、前者が科学的な認識であり、後者が芸術的な認識であると言います。 で、面白いのは、「いわゆる智識とは感情が古くなり、鮮度が落ち、変質した結果にすぎない」と言っている点です。 たとえば、われわれは未知の出来事と遭遇したとき、まずは衝撃を受けたり、驚いたり、感動したりするのであって、決して理知的に対応するわけではないですよね。 つまり、二葉亭は、未知の現象に遭遇した人間の内部で最初に生じるのは「感情」であって、「智識」ではないと言うわけです。 むしろ、「智識」とは、その《既知性》が妨げとなり、未知の現象の前にあっては、無力であるからこそ、われわれはしばしば言葉を失い、茫然自失となるのではないでしょうか。 ところが、こうした未知との遭遇にしても、これが繰り返されたり、類似した現象を体験したりするうちに、徐々に驚きや衝撃を感じなくなり、つまり「感情」的に反応しなくなり、「感情」に入れ代わるようにして、経験則としての「智識」が生まれてくるのではないでしょうか。 要するに、いわゆる「感情」とは「新参の感情」であり、まだ生々しい、新鮮な感覚であると同時に、「智識」(概念)の原質・原形でもあるということです。 >人は、感情的に思考することが、出来るのでしょうか? >出来るとしたら、どんなことでしょうか? 二葉亭に言わせれば、「感情的に思考すること」の原点は「美術上の穿鑿」、すなわち美的、芸術的な認識ということになります。 具体的には、われわれは未知の出来事や優れた芸術作品と対峙したとき、既成の概念的な「智識」では太刀打ちできないと悟り、その無力さを痛感させられるとき、否応なく「感情的に思考する」しかないということではないでしょうか。 >(私個人としては、詩を書くことなどはそうなのではないか、と思うのですが…) おっしゃる通りだと思います。 その意味で、「詩を書くこと」とは、世界を「古参の感情」である類型的、概念的な「智識」の枠に無理矢理押し込むことではなく、できるだけ「新参の感情」にふさわしい言葉、できるだけあるがままの世界(=感情)にふさわしい言葉を見つけ出そうとすることだと思います。

naoagu
質問者

お礼

感情と思考は、同時に発生することでないことが、分かったように思います。 詩を書くことは、新鮮に感じたものが、感覚的にその瞬間に言葉になったものもあれば(思考することなしに)、いつかどこかで印象的に感じたことが、智識となり、思考の経路を辿って思い出されて言葉となる、思考との繋がりを持った感情表現もある、ということなのですね。 感情的に思考することが芸術的な認識に大傾したことなのは、自然で根拠のあることだったのですね。そう考えると、詩を書くことは、芸術という感情と、文学という思考、自分の経験などの狭間で、微妙であり複雑な要素を持っているものだと思いました。 ありがとうございました。

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noname#100496
noname#100496
回答No.5

感情と言うのは、情緒思考の事ではないでしょうか、情緒に対して、反対の論理思考があります。脳が思考してる時は、人の心と自然の情緒との、交流を、脳が遮断するので、心がストレスになります。脳が休むと、人と自然の情緒が交流するので、心が癒されます。情緒は、調和世界の代表で、人を育て、人を癒し、社会を調和に導きます。現代社会は、論理思考と合理主義が主流で、情緒思考が不足しています。昔の日本人は、論理思考を避けて、生活に、間や情緒を入れて、脳を休ませる工夫をしていました。また昔は、娯楽も脳を休ませて、情緒のあるものばかりでした。また日本の伝統文化、和風文化は、脳を休ませて、論理思考を避けて、自然の情緒、心の癒しを目的にしています。また世界中で、日本人だけが、思考行動パターンの基準が情緒です。外国は、論理思考で、自己表現が、行動の基準です。また現代は、生活も娯楽も、脳を刺激するものばかりです。また現代芸術も、情緒を排除して、自我丸出しだから、脳を刺激します。脳を刺激すると、自我が強くなります。脳は、不調和世界の代表なので、情緒を排除する論理思考や、科学は、結果的には矛盾が発生します。だから科学は、見かけは便利なようで、結果は自然を破壊しました。脳の自我は、対立と争いばかりで、不調和です。脳は、宇宙の主役ではないので、科学が限界に達しています。だから不調和とストレスの固まりの、脳を避けて、情緒の文化を復活しましょう。

naoagu
質問者

お礼

感情を情緒思考と考えると、心での思いと頭での考えが反発し合わずに、混ざり合えることが分かります。 これは、互いに同居するだけでなく、情緒が思考を助け、思考が情緒を豊かにするような生産性のある関係なのだと思います。 感情と思考の価値は、違いすぎるものだと認識しようとすれば、それは、偏見も含め、安易に出来ることですが、感情にしても思考にしても許容範囲の広さに目を向けることで、違いのギャップは、埋まっていくのだと思いました。 情緒でものを作り出すこと・創作することは、バランスの取れた視点ですね。 ありがとうございました。

  • kigurumi
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回答No.3

聖書の10戒がそうですよね。 「殺してはならない」と訳されていますが、本来のヘブライ語のニュアンスでいけば「私の民なら他人を殺そうか。私の民なら殺すわけがない」。 まるで息子の無実を信じる親のような心境です。 戒律は法律と同義ですが、感情から成り立っているわけですね。 ちなみにこの民族は同じ民族に対してこの律法を適用するわけです。 だから他の民族と戦争になれば、他の民族を殺しても、「私の民ではない民族」なのでオッケーなのです。 どういうのがいけないのかというと、例えば自分が手篭めにしようとした娘が拒絶してことを果たせなかったので、腹いせに「この娘は姦淫した」と濡れ衣を着せて裁判に訴えた場合。 姦淫は律法に違反しているので、姦淫をすれば石打の刑になりますが、それが虚偽であった場合、訴えた側は2つの律法を破ったことになる。 律法を使って自分と同じ民族を殺そうとした罪と(殺してはならない)と裁判所で虚偽を行った罪。(隣人に関して偽証した罪、隣人とは同じ民族のこと)。 こういう律法を破ったものは、「私に民なら律法を破るわけがない。」なので破った以上私の民ではないことになり、異民族なので殺せるってわけです。 法律も感情から作られていると思います。

naoagu
質問者

お礼

憎む、恨む、貶めるなどの不の感情が、法律という思考に基づいた罰する基準を作り上げた。。。 確かに、世の中を公平にとり仕切ろうとする考えは、氾濫や嘘、人の感情で溢れ返った世の中には、必然的なものとして受け入れられてきたのでしょう。 一見すると法律は、思考やマニュアル、規律のみで構成されていて、感情や温情とは、対極に在りそうですが、感情の上に成り立ち、温情・公平を導くために作られたものだと考えれば、感情的に思考したと言うことになるのですね。 目からうろこが落ちたように、感情と思考の関係が分かったように思えます。 ありがとうがざいました。

noname#101110
noname#101110
回答No.2

>感情的に思考する これを創作のひとつの姿だ(例えば詩を作るとか)とされたのですね。でも私は違和感を持ちます。 確かにひとは感情が高ぶった時に何かの創作を行うことがあります。 感情が高ぶる→何か言葉が浮かぶ→書きつける→詩が出来る 他にも 感情が高ぶる→メロディが浮かぶ→書き付ける→楽曲が出来る これらの前3段が「感情的に思考している状況」だと仰るのですね。 しかし、これは思考しているということではないと思います。 少なくとも、前2段は思考の姿ではありません。いわば直感する、インスピレーションが浮かぶということでしょう。思考はそのあと、浮かんだものを適切な言葉なり音符に転換する時にあらわれる頭の理性的な働き、検索と規則的ルーチン動作です。この前後2つが同時に現れることはあっても所詮別の頭の働きです。いや、そう思います。 思考というのは必ず意識的にねたを出してきて比較したり加工したりすることです。創作がコンピュータ単独では出来ないというのはこのことを指しています。 もっとも、最近ではコンピュータが自身に人間が及びも付かない図形を書かせることが可能となっていますが、これについては創作ではなく、自然が偶然見せる(木の枝ぶりなどのような)美だというのが一般です。 ご参考まで。

naoagu
質問者

お礼

創作するにしても、例えば絵を描く、これは、感情・感覚をそのまま色彩に形に、気持ちや視覚に頼って描きなぐることも出来るし、それが個性なのだと思います。 感情的に描くことは、出来ることだと思います。 感情を高ぶらせた時に、思考が働かないとすると、詩やメロディーは、やはり、理性の余地あっての産物なのでしょう。 怒りで熱くなっている時に、何を言っているのか、言いたいのか分からない…こんなこともあるのは、事実ですし。 もし、有り余る感情を的確に表現できるのなら、思考の力でなく、記憶や経験がなせる業なのかもしれない、そんな風にも思えました。 ありがとうございました。

  • heinell
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回答No.1

論理基準=感情で考える事…なら可能でしょう。 但し、その基準は「自分の感情」だから、他人が理解できるとは限りません。 詩歌は確かに自分の感情を基準とした思考には違いないです。 但し、表現の工夫などで、本来理解が難しいハズの自分の感情を伝える努力をするわけです。 古典から清少納言さんの枕草子を例に挙げます。 春は、あけぼの 。やうやう白くなりゆく山ぎは 少し明りて紫だちたる雲の細くたなびきたる。 私の美的感覚からすれば、春は夜明けのビジュアルが綺麗だと思う。 徐々に白くなる山。明るさ・色彩・雲の形。 すばらしいねぇ… 色彩・形状などの表現も解りやすい。 徐々に…と動画的な様子まで表現するとか、少し明りて紫だちたる…なんて絶妙微妙ピンポイントなトコ狙ったり。 さすがに千年も称えられるだけあって、見事なセンスと表現力です。 こういう相手に理解されやすい表現力で、自分の感情(俺的にこのビジュアルがすばらしいと思うぜ!!)を論理的に表現し相手に伝えてる訳です。

naoagu
質問者

お礼

感情で考える――自分の感情を伝える努力をする。 そこには、理性を働かせる余地があるのでしょう。 詩作をとっても、仰るような言葉の韻やイメージを考える、工夫を気遣える感覚的なものから、書かずにはいられない胸の内や、吐き出すような言葉の羅列で構成された魂のような詩まであります。 後者のような場合は、本能に近い感情を否応なしに言葉として表現しているのかも知れませんね。 ありがとうございました。

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